第1話 三つの死
闇の底で、モモは死のうとしていた。
胸をつらぬいた刃の熱が、まだ肉の奥で脈打っている。
傷口から、命が絶え間なくこぼれ落ちていく。
膝に力は入らなかった。
崩れ落ちた土砂が、その身をゆっくりとのみこんでいく。
逃げこんだのは、坑道の行き止まり。
――東の砦。
なぜか、そう知っていた場所。
ここが、終わりだった。
ズズッ、と頭上で不穏な音が鳴った。
それを引き金に、落盤が起きる。
無数の岩と砂が、身動きひとつ取れないモモの全身を、生きたまま埋めていく。
そして。
ゴボゴボ、ゴボゴボ。
冷たい海水が、岩のすきまから流れこんできた。
水位は、じわじわと上がる。
土砂に埋もれたモモのあごを、頬を、やがて顔のすべてをおおいつくしていく。
鼻から、口から、塩水が容赦なく入りこむ。
胸の激痛と、凍える冷たさと、息のできない苦しさ。
三つの死が、同時に、彼女をのみこもうとしていた。
(いやだ。死にたくない)
薄れゆく意識の底で思い出すのは、ほんの数刻前のこと。
船室で、心配してくれたクロウに向けて放ってしまった、あの言葉。
――ちょっと今は、ほっといて。
そんなつもりじゃなかった。
頭がぼうっとして、何も考えられなくて。
ごめんなさいも、ありがとうも、言えないままだった。
わたしを逃がすために盾となって、還らなかった、二人の幼馴染。
(死なせたくなんて、なかった)
もう一度。
もう一度だけ、名前を呼ばせて。
届くはずもない願いが、モモの魂を焼く。
その瞬間だった。
海鳴りが、どこまでも続いて聞こえた。
深い水の底へ沈んでいくはずが、同時に、途方もない高みへと引き上げられていく。
身体が裏返る。
時間が、ひしゃげる。
モモという存在の輪郭がいちど、ばらばらにほどけ――別の時間の器へと、強引に結び直される。
白く塗りつぶされていく世界の果てで、誰かが「モモ」と、名前を呼んだ気がした。
◇
船が濃霧に入ってから、複雑な海流が船の進路を勝手に決めるようになった。
逆らわずに航行を続けている。
だが、潮目が変わるたび、みしり、みしりと湿った木のきしみが、不安をかき立てた。
港を出て、幾日か。
目的地である穏ヶ島は、もう目と鼻の先にせまっている。
そのあいだ、モモの頭の芯をさいなむ、もやは濃くなる一方だった。
意識はいまだ、まどろみの中に取り残されているようだ。
まるで、目の細かい絹の幕を、幾重にも重ねたかのように。
世界の輪郭が、ひどくあいまいに、ぼやけている。
「つめたい……」
寝台の上で膝を抱えていたモモは、思わず小さな声をもらしていた。
じっと見つめた、右手の指先。
その爪の端が結晶化し、不自然に透きとおっている。
そこから這い上がってくる冷気が、モモの胸をきつくしめつけていた。
暗く、冷たい地下の底。
思い出すことのできない記憶の深淵から、じっとモモを見つめ、何かを訴えかけてくる、正体不明の気配。
どこか悲痛な、哀しみのまざる呼び声。
モモは一粒の涙をこぼしながら、消え入りそうな声でつぶやいた。
「ねえ、あなたは誰……?」
そのとき。
遠慮のない足音とともに、船室の扉が開いた。
入ってきたのは、赤髪の青年。
モモの幼馴染、クロウだった。
大剣を背負った彼の肩には、濃霧が吸い寄せた冷たい水滴が、無数に光っている。
クロウはモモのただならぬ様子に眉をひそめると、距離をつめ、大きな手でモモの細い肩をがっしりとつかんだ。
「おい、こっち見ろ。ぼーっとしやがって。このおかしな海域も、もうすぐ抜けるぜ。島が見えたとかで、船長が殺気立ってやがる。……お前、俺の話を聞いてるのか?」
クロウの声は、まるで水底から響いてくる雑音のように、遠く、にごって聞こえた。
頭の中を支配する、もや。
指先から入りこんでくる、冷気。
あえぐことしかできないモモは、彼のやさしさを拒むように、弱々しく首を横に振ることしかできなかった。
「……ちょっと今は、ほっといて」
クロウのりりしい顔に、悲しみがまじる。
大型犬のように途方に暮れた瞳が、痛々しく揺れた。
その直後だった。
頭上から、甲板を打つ無数の音と、短い悲鳴が耳をついた。
ここは島の入り江、浅瀬が広がる一帯。
船が速度を落とさざるを得ない、この時をねらって――何者かが、襲撃を仕掛けてきたのだ。
クロウはとっさにモモの手を取り、抱くように引き寄せると、船室の扉を開け放った。
その刹那。
すさまじい衝撃が、船体をふるわせた。
船室の木壁が、外側からの巨大な力によって、砕かれたのだ。
飛び散る木片と、吹き抜ける夜風。
その裂け目には、敵の小舟の、鋭いへさきが突き刺さっていた。
そして、ズッ、とへさきが抜けると――代わって、赤く光る眼が、部屋をのぞきこんできた。
人では、なかった。
肌は赤黒く、輪郭は夜に溶け、眼だけが獣のようにぎらぎらと光っている。
穏ヶ島の支配者――紅鬼だった。
「ひ、あ……」
腰が抜け、恐怖で動けなくなったモモを、クロウは廊下の壁に預けた。
船室に飛びこみ、侵入しようとしていたオニに、強烈な前蹴りを食らわせる。
即座にきびすを返すと、廊下へ飛び出し、扉を閉めた。
「ここはダメだ。甲板へ出るぞ」
焦りのにじむ、荒っぽい声。
けれど、それとは反対にやさしく、モモの手を引く、たくましい腕。
暗闇の中で、不意に肌を伝ってきた、クロウの体温のあたたかさ。
つい今しがた、彼を拒絶してしまった罪悪感に、胸が張り裂けそうになる。
それでもモモは、クロウに先導され、乱闘のうずまく甲板へと駆け上がった。
視界に飛びこんできたのは、霧の向こうに黒々とそびえ立つ、穏ヶ島の巨大な影。
そして、オニの奇襲にのまれつつある、船の惨状だった。
そんななか、モモのもう一人の幼馴染、シキが必死に応戦していた。
船乗りたちと背中を預け合い、火の粉をまき散らす矢を蹴り折っては、敵を倒し、味方を引き入れ、その輪を広げていく。
クロウはモモをその輪の内に押しこむと、大剣を鞘から引き抜き、戦列に加わった。
「遅かったじゃないか」
「なあに。ここに来るまでに、十は倒してきた」
「減らず口を」
目まぐるしく変わる事態に、一時は混乱した。
それでも、変わらない二人の掛け合いに、戦いのさなかだというのに、モモの心は落ち着きを取り戻していく。
脳裏にかかっていたもやは、いつの間にか、消え去っていた。
だが、それも束の間のこと。
操舵手を失い、制御のきかなくなったこの船は――最悪の上陸を、果たすこととなる。




