第3章 (3)
アイリとさやかは、2年前は友達だったという。
冗談のようだけど、なんとさやかはミタ中受験の段階から友達(というより子分か)を何人も巻き込んでた。その全員が合格したわけじゃなくても、おかげで入学直後から一大派閥を形成することになった。もともとの手下に加え、まだ友達のいない子が、ぼっちになる不安からすでに存在するグループに所属することを望んだケースも多かった。
権力欲は性分なのか、やがてさやかは自分のクラスに留まらず、他クラスの女子グループを引き込み始める。
最初からすべて上手くいってたわけじゃない。逆らいづらい最大派閥とはいえ、グループ内に露骨な格差をつけるさやかを、苦手とする子も多かったのだ。
かたや違うクラスだったアイリも、最初からべらぼうに目立つ子だ。比べる気にもなれない美貌と年齢離れしたスタイル、洗練された物腰。憧れた子が周囲に集まり、それなりに大きなグループの中心だった。
そのうちさやかを嫌いな女子グループが、アイリに与するようになる。アイリ個人の意思と無関係に派閥は巨大化し、結果として一時期は、ほぼ学年の女子全体がさやか派とアイリ派で対立する構図になった。
その状況で、さやかは直接アイリに近づいた。対抗派閥のトップをナンバー2待遇で自分の手元に引き入れることによって、その存在自体を解消するためだ。これはわたしの勝手な読みだけど、搦め手を選んださやか自身、自分が一対一でアイリより格上とは思えなかったんじゃないだろうか。
アイリは提案にあっさり同意した。本人はわたしの知る通りひとりを好むタイプで、神輿に担がれることに実は嫌気が差してたのだ。わたしも小学校の頃からそういったパワーゲームにさんざん付き合わされたので、気持ちはわからなくもない。
こうして当時の1年生女子においては、さやかの独裁政権が誕生した。
さほど悪い気はしなかった、とアイリは語った。取り立てて見るべきところもないくせに、媚びへつらってカースト上位に食い込もうとする子に比べれば、自分の力で上に立とうとするさやかのほうが好感が持てた、とも。
そのせいもあってか、さやかもアイリに対してすぐに好意的になった。形式上のナンバー2どころか、自分と同格の友人として扱い始め、ときに学校の外でもふたりで遊び、互いの家を行き来するぐらいの仲になったという。またアイリのファッションセンスや立ち居振る舞いを貪欲に吸収し、女子カーストのトップとしてさやかの立場はいっそう盤石になった。
状況が変わったのは、さやかに彼氏が出来てからだ。
その年頃の女子だ、アイリと会うときにも話題にするのは彼氏のことばかり。ふたりで約束したときでさえ、途中で彼氏が合流することも少なくなかったという。
それがまずかったのかもしれない。何度も言うようだけど、外見でアイリに太刀打ち出来るような女子なんて同世代では考えられない。そして中学生男子というやつは、残念ながらほぼ例外なく面食いなのだ。
読モを始めたばかりのアイリに、さやかの彼氏が「別れるから、おれと付き合って欲しい」と言い寄ってきた――と、アイリはさやかに説明したという。
そこだけを取れば事実でも、実際にはアイリのほうからも色目というか、個人的にメッセや電話のやり取りをしたり、こっそりふたりで会ってたことすらあるらしい。アイリが嘘つき、というのはこのことを指す。
なんだかな、と思う。友達のお惚気に影響されて嫉妬というか、その相手を魅力的に感じてしまうことまでは珍しい話じゃない。わたしだってそういう経験が一度もないとは言わない。とはいえ一番仲の良い友達の彼氏を奪うことに、後ろめたさはなかったんだろうか。
「あのときは子供だったの」で済まされる話じゃないだろう、これは。
その気になってしまう彼氏も彼氏ではある。あるいはそれも、さやかと付き合うぐらいだ、ステータス的なものを自分の彼女に求めてたとも考えられるけど。
ともかくふたりの友情は終わった。それだけでなく、友達を堂々と裏切ったアイリに女子の大部分が白い目を向けるようになる。ここに至ってさやかの統一政権樹立に協力したことは、アイリにとって仇となった。
たださやかもプライドの高い子だ。最初から無様な真似に走ったわけじゃない。すぐに今度は年上の彼氏を作り、「タメの男なんて、結局は子供だからね」と嘯いてたという。アイリに味方はいなくても、この段階ではまだ、直接的な被害はほとんどなかった。
事態が悪化するにあたって、決定打になったことはいくつかある。
ひとつはアイリが、その彼氏と2週間も経たずに別れたこと。ここで理由は語られなかったけれど、おそらくは夏休みにわたしに打ち明けた通りなのだろう。
続けてアイリに新しい彼氏が出来て、それもすぐに別れてしまったこと。しかもその相手はさやかが一度アプローチして振られた、当時3年生で一番人気のある男子だったという。
とどめはまさにそれと前後して、さやかが『Cathy』の読モ選考に落ちたこと。これはある意味、アイリが落選させたとも言える。
というのは、『Cathy』は身内ノリを好まない傾向があって、いくら綺麗な子でも紹介であれ一般応募であれ友人知人を採用しないのだ。編集部からの問い合わせに答えたアイリを責めるわけにもいくまい。せめて違う雑誌を選んでれば、また話は別だったのかもしれない。
いずれにせよ一連のことが立て続けに起こったのは、さやかのプライドをずたずたにするに充分だった。本格的ないじめが始まったのはそれからだ。
皮肉なことに、その急先鋒はさやかの側近的な子よりも、旧アイリ派の子たちに多かった。けど「女の友情って、ほんとに軽いんだと思ったよ」と力なくこぼす親友の姿に悲しむ一方、同情する気にはなれなかったことを告白しておく。
なお男子にも味方がいなかったのは、コケにされたと感じた最初の彼氏――さやかの元彼もまた、直接参加まではしなくても、男子全体に睨みを効かせてたことがひとつ。当然と言えば当然、さやかが選んだのは学年で一番目立つ男子だった。
もうひとつは、学年ぐるみで女子から総スカンを食らってる相手に近づいて、他の女子から嫌われるのを恐れてたようだ。まったく男子ってやつは……。
いじめは2学期の終わり近く、冬を迎える頃まで続いた。
今日子さんがそれを収束させた経緯を語るにあたって、時期はやや前後する。
ミタ中は原則として、全生徒が部活動を義務づけられてる。まだ読モでなかったアイリが、文芸部を選んだ理由は「一番静かそうだったから」らしい。その消極的な選択が、結果として身を救うことになる。
アイリの読みは当たり、1年生の女子部員はひとりだけ、2年生も大半が幽霊部員だった。そのせいもあって、アイリと今日子さんが親しくなるのに時間は大してかからなかった。
夏休みが近づく頃、彼氏と過ごす日が多くなったさやかに替わり、今日子さんと会う時間がアイリには増えた。尊敬する先輩に綺麗になって欲しいと、その美女化に取り組んだのも同じ頃だ。ちなみにアイリが読モに応募したのは、そのファッションに対する造詣の深さに感銘を受けた今日子さんの勧めだったという。
今日子さんは当時から校内で有名人だった。なんでも入学以来定期テストで学年トップを譲ったことはなく(どこかで聞いたような話だ)、しかもその歳にして、とある文芸誌に応募した小説が佳作入選し学校から表彰されたこともある(でもこれは格が違うな)。人当たりも面倒見も頭も良く、部室に誰かが相談に来ることもたびたびあった。
本題はここからだ。読モに見事採用され、部室に来なくなったアイリと久々に話したとき、今日子さんはいじめの存在を知った。助けを求められたわけじゃなく、アイリも相談慣れした先輩に意見を訊くだけのつもりだった。
それでも頼りになる先輩は動いた。わたしには「ミスコンまで出たくなかったんだけど」と語った今日子さんながら、恩返しも兼ね、かわいい後輩を助けることにしたのだ。
まず手始めに、相談窓口としての門戸を積極的に開き始めた。もともとよく頼られてたのが学年を代表する美人になったことも手伝い、もうすっかり今日子さんは人気者だった。
「わたしにアドバイス出来ることならなんでも、誰の話でも聞く」と宣言すると、文芸部室はその本来の姿より『十六夜今日子なんでも相談室』といった様相を見せ、女子だけでなく男子までも行列を作るようになった。
やがて2年生だけでなく、相談者からの紹介で後輩、つまり1年生もそこに参加し始める。聞き上手に加えてアドバイスの的確さが噂を呼び、あるいはブームに発展したのか、そのうち部の先輩を通じて3年生すら訪れるようになる。結果、中等部生徒のおよそ半数以上が一度は今日子さんになにかしら相談したことがある、という馬鹿馬鹿しい状況が生まれた。
さやか自身は相談者のなかに含まれてなかったものの、周囲にいた子たちは例外じゃない。アイリが休部してることに油断してたのだろう、今日子さんはいじめの実態、及びそれを行う中心人物たちの情報をまんまと聞き出してしまった。
そして腹黒ヒロイン・十六夜今日子が本領を発揮する。その子たちに対し、各種相談の際に入手したプライバシーを盾に、いじめを止めるよう取引した。
続けざまにさやかのところへも足を運び「あなたの話は聞いてる」と切り出し、派閥内でもごく近い立場の子すら知らないはずの、個人情報の数々を披露してみせた。驚くべきことに、さやかの彼氏も今日子さんのクライアントだったのだ。
当然のように「そいつも来るよう、その友達を誘導したんだろ?」と尋ねたお兄ちゃんに、今日子さんもまた普通に頷いたことにはもはや言葉もない。
ともかく「どうしてもやめたくないなら、秘密を秘密でなくしても構わないんだよ?」との決めゼリフにさやかは屈した。
配下の女子どころか、彼氏まで完全に抑えられてしまったのでは太刀打ちのしようもない。さやかが逆恨みに走ることもなく、いじめは終わった。その性格を知るアイリに言わせると、おそらくは今日子さんがミスコンの順位で、中1代表のひとりだったさやかを上回ってたのが最大の決め手だろうということだけど。
余談ながら、今日子さんはついでとばかりに、同学年のいじめに対しても同様のことをしたらしい。さすがに上級生にまで手は出さなかったものの、プライバシーを握ってることには変わりない。話が広まるにつれて恐れられたのか、少なくとも今日子さんの在学中、ミタ中から目に見えるレベルのいじめは消滅した。
一連の出来事は『ミタ中の伝説』の始まりでもあった。
以上の物語は、アイリと今日子さん、ふたりの話を総合したものだ。
「情報を制す者は戦いを制す、ですか」
試しに感想を言ってみると、アイリが目を丸くした。
「それ、『今日子語録その1』だよ?」
「……いや、似たようなこと言ってた奴が知り合いにいるんだよね」
お兄ちゃんを見ると、口元に手を当てたまま顔を背けた。やれやれ。
わたしたちは高等部の校舎に移動し、3年のクラスが営業してるカフェ(メイドじゃない、念のため)に入った。けっこうな騒ぎになってしまったので中等部には居づらく、高等部でも1、2年あたりは知り合いが多いから、という理由で今日子さんがいやがったからだ。
「にしても、ちょっとやりすぎだった気はします」
「うん、わたしもそう思ってる」
別の意味で今日子さんもやりすぎだと思いましたけど。
「そうだな……まさか、十六夜さんがあんな中2だったとはね」
とお兄ちゃんはとぼけた。ひとの心読むなし。
「違ぇし。あんたのこと言ってんの」
呆れてツッコむと、お兄ちゃんはさらにとぼけ返す。
「だって語録だよ? なんだっけ、『あなたの命はあと3秒』だっけか」
「ないからそんなの! 捏造しないで!」
すかさず今日子さんが文句を言う。笑いそうにはなったけど、それどんなシチュエーションで言うんだよまじで。
「だから来たくなかったのに……」
「ノリノリだったくせに」
言うと今日子さんは、仕方ないの、と拗ねる。
「一度出来上がったキャラは、もう自分だけのものじゃないから」
ふむ。そういうもんか……そうかも。わたしも中学に入ってから、お嬢様キャラを演じてる部分がないとは言えない。進んでやってるというより、空気がそれを強要するみたいな感じがあるのだ。
「もしかして先輩、それで外部受験したんですか」
「……正直、それもあるね」
アイリの指摘を今日子さんは素直に認めた。
こないだのネコ耳メイドもそうだけど、やってるその瞬間を楽しんでるからといって、自ら望んでるとは限らない。過剰なキャラ作りは一種のコスプレみたいなものだと思えば、それを維持することに疲れてしまうのも道理だろう。
そんなこんなで今日子さんはいまさら恥ずかしそうにしてるし、アイリも情けないところを見られたせいか小さくなったまま。わたしも話を聞いて、いまはしゃぐ気にはなれない……のだけれど、ひとりだけ空気を読まない奴がいる。
「いやしかし、いい話を聞かせてもらった」
よほど面白かったらしく、お兄ちゃんは今日子さんを見て笑ってばかりだ。
ずいぶん余裕ぶっこいてるけど、さっきのあれ、改めて思うと笑えない。最後のがどうとかじゃなくて、あんなの下手したら変質者扱いで即通報じゃん。
毎度のこととはいえ、どうしてこいつやることいちいち過剰なんだろうな、と思ってると、なにか思いついたようにお兄ちゃんが指を鳴らした。
「来年はバニーガールとか……」
わたしはティースプーンをその顔面に投げた。ごす、と同時に音がしたのは、今日子さんがテーブルの下で膝だか向こうずねだかを蹴ったらしい。お兄ちゃんは声も出さずに痛がってる。アイリもビンタぐらいしてやればいいのに。
やっぱだめだ。こいつにやりたい放題やらせてたら、来年もまた被害者は今日子さんだけで済みそうにない。つーか妹のバニーガール見たいのかよ。
「あんた変態が進化してねぇか?」
あとこれは怒られそうだから口にしないけど、体型的に今日子さんには似合わな……おっと隣の席から殺気が。あなたも心読まないでください。
お兄ちゃんは不満げにわたしを見たあと、アイリにだけ笑顔の視線を送る。
「かりんにはなにも言ってないのにな」
……ほぅ? いい度胸だな。
「うるさい。ちょっと黙れ」
でもいまはスルー。アイリもなにか言いたそうにしてたけど、とりあえずいまはそのバカに喋らせないほうが良さそうだ。冗談の前に空気読め。
「……まぁ今日子さんのことはいいとして、それさ、悪いのアイリじゃね?」
話を進めると、みな口を閉ざした。お兄ちゃんも笑みを消す。
「もちろん、学年ぐるみのいじめはろくでもないけど」
さやかを庇う気はない。でも最初の彼氏については言うに及ばず、読モの件も、問い合わせがあった時点でさやかに伝えれば良かっただろう。
かつて自分を持ち上げてた子たちがいじめる側に回ったのだって、その子たちに言わせればトップが対抗派閥に自分たちを売り渡した形なのだ。多くの子が肩身の狭い思いをしたことは想像に難くないし、意趣返しもあったかもしれない。
「自業自得じゃん。はっきり言うよ、味方して損した」
「かりんちゃん、それは言いすぎ」
たしなめようとする今日子さんを遮って、わたしは強気に言う。
「ごめんなさい、ここからはふたりの話になります」
言外に含めたものを感じてくれたのだろう、今日子さんはそれ以上、なにも言わなかった。アイリも言い返さないのを見て、わたしはお兄ちゃんに顔を向ける。
「しばらく今日子さんとデートしてきて。アイリに話があるから」
本気をがっつり込めて言うと、お兄ちゃんは口を挟むことなく席を立った。今日子さんには正直いてもらいたかったけど、この流れでお兄ちゃんひとりハブるわけにもいかない。
予定ではふたりきりを阻止してから、4人で祭は祭として楽しんだのち、お兄ちゃんひとり先に帰して女子トーク、のつもりだった。
でもさっきのイベント、及びその事実関係の解説のあとで、じゃ気を取り直してお祭りね、というのは無理がある。ツッコミどころが多すぎて呆れてるからだ。
「くれぐれも冷静に、ね。アイリも」
わたしたちに釘を刺しつつ、今日子さんも従ってくれた。
「はい。終わったら連絡します」
なので言われた通り、ここはわたしがキレないよう頑張るしかない。黙ったままのアイリをしばらく眺めてジャスミンティを飲み干し、お代わりを注文した。
さて。そっちがなにも言わないなら、こっちから始めるしかないよね。
「あのさ。わたし怒ってんの。心当たりがないとは言わせないよ」
いろいろあったけど、ようやく今日本来の目的にたどり着いた。
そしていろいろあったせいで、わたしの怒りに油が注がれてしまった。
「ごめん……まさか、来ると思わなくて」
アイリは気まずそうに眉根を寄せてわたしを見る。
「でもわたしはここであの通りだから、かりんを案内なんて出来ないし。内緒で虎次郎さんを連れてきたのは、悪かったけど……」
「バカじゃないのあんた。そこじゃねぇよ」
「え?」
恋愛体質が悪いとは言わない。むしろそれについては、恋に恋することの出来ないわたしのほうがイレギュラーかもしれない、という気もしてる。
それにあの宣戦布告以降、デートするのにいちいちわたしの許可を取れなんて言った覚えはないし、そんな資格があるとも思ってない。
実の兄妹はハンデであると同時に、普段から一緒に過ごせるアドバンテージでもあると思えば、そのぐらいで目くじら立てたりしない。
「え、じゃない。とっくに知ってるから」
けどこれには唖然とした。
「なにが『ひとのものが欲しくなる体質』だよ。地雷踏むのが趣味なの?」
昔ひとの彼氏を横取りしたことで、いまでも痛い目を見てるのに。今度はわたしに対して、また同じことを繰り返そうとしてる。
「あの曲がわたしにとってどんだけ大事か、あんたわかってるよね」
「あ……」
聞いちゃったんだ、と呟いて唇を噛み、アイリは俯いた。
「聞いちゃったんだ、じゃねぇし。あんたこそわたしの言ったことちゃんと聞いてたよね? あれはわたしの宝物だって」
『Flower of Fortune』がどんな曲であるかは、もちろん伝えてある。
ころたね氏はもともとわたしがファンだったボカロPで、しかもそれがお兄ちゃんだったとあとから聞かされた上に、遺憾ながら現在わたしの好きな相手。
そんなひとからのプレゼントであることに加え、歌詞の内容が問題だ。
というのは、お兄ちゃんにとってわたしがどんな存在であるか、わたしがどう見えてるか、そういうことが歌われてる曲なのだ。
――いまは輝き始めた運命の花 いつか羽ばたき巣立ちゆく青い鳥
ぶっちゃけ美化しすぎではある。そんな綺麗なもんじゃねぇよ、あんた妹に幻想持ちすぎ、と思う。聴いててしょっちゅう気恥ずかしくなったりもする。
でもそれが、いつもの冗談みたいな褒め殺しなんかじゃないことは、聴いてすぐわかった。であるなら、お兄ちゃんにとってわたしがそうなら、ほんとにそう見えてるならそれでいい。その幻想を、追いつけない背中を追い続けてきたわたしの、新しい道しるべにするだけだ。
「自分の曲が欲しいなら、作ってもらえるぐらい想われればいいんだよ」
そしてそれは向けてくる笑顔より、キザなセリフや美味しいご飯より、わたしにとってずっと大切なものだ。
だからすべて知ってて盗もうとした、そのことが許せない。
「ごめんなさい……でも、裏切るつもりじゃなかったの、それは信じて」
そう謝る姿は確かに申し訳なさそうで、嘘や演技があるようには見えない。
といって素直に頷けるわけもなかった。
「いやもう裏切ってんじゃん。あり得ないだろ」
「違うの。いつか、ちゃんと説明しようと思ってた」
「いま説明すれば? わたしのことを歌った曲をなんであんたが欲しがるのか」
そもそもこの件、いまいち要領を得ないのはそこなのだ。どう考えてもわたしとお兄ちゃんの関係でしかないものを、奪ったところで意味ないのに。
少し間があって、アイリは力なく、諦めの混じった声で言う。
「……かりんには、わからないよね」
変わらず目は伏せたままでも、そこには妙な確信があるように感じる、が。
「なにが。わかってないのはあんただろ」
返す言葉の意味は、ほんとに意味不明だった。
「あれは、かりんの曲じゃないよ」
……あんたまじでなに言ってんだ。和樹じゃあるまいし。
「は? ねぇアイリ、あれ誰が誰のために作った曲だと思ってんの?」
やや複雑な気分ながら、タイトルからして明らかにわたしを意識してる。昔からのあだ名はお兄ちゃんも知ってるのだ。夏休み初日に若葉たちと会ったあとにも「こっちでもその名前で呼ばれてるんだな」と笑われたぐらい。
そこでアイリの上げた顔を見て、わたしは怪訝に思う。なぜか怒られて落ち込むどころか、言葉同様の強い光が目にあった。
「やっぱりわかってないんだ。あれは、虎次郎さんの曲だよ」
そのせいで余計に苛立つ。くれぐれも冷静でいたいとは思うけど、わたしをキレさせようとわざわざわからない言い回し選んでるとしか思えねぇよこれ。
「あのさ……」
バカにしてんの?と言いたいのを押し留め、今度はわたしがいったん目を伏せ、こめかみをぐりぐりいじり回した。それから深呼吸して言う。
「そりゃそうだよ? お兄ちゃんが作ったんだから。わたしのためにね」
最後の8文字にアクセントを置いてやった。まずわたしのリクエストで作られた曲なのだ。そのことも当然アイリの知ってる話で、もし忘れてたなんて言われたらそれはいくらなんでもキレる。
「だから、そうじゃなくて……」
「回りくどい。言いたいことがあるならちゃんと言え」
これが普段なら、あえて多くを言わないのも言葉遊びとして面白がってられる。でもいまは文脈でニュアンス補わせるより先に、論旨をはっきりさせてくれないと話が進まない。
こんなときに文芸魂出してんじゃねぇよ、と思いながら睨むと、アイリは困ったような顔で言葉の続きをためらった。……あれ、自分でも上手く言えないってことだろうか。これはちょっと珍しい。
運ばれてきたお茶に口をつけ、わたしは続きを待つことにした。
それから教室のなかをぼんやり眺める。店員さんであるところの生徒が、ときおりこっちを見るのには気づいてる。この学年にとっては、今日子さんよりアイリを知ってるひとのほうが多いのだろう。
まだ我慢が効いてるのは、そこに気を遣ってる部分もある。恥をかかせたいわけじゃない。こないだ宣言した通り、この期に及んでなおわたしは親友を辞める気がないのだ。女の友情? あるに決まってんだろそんなの。
「……虎次郎さん自身のことを、かりんに向けて歌った曲。そう言えばいいかな」
やがて口にされた言葉に対し、アイリにしてはあんまキレがないな、と呑気な感想を持つ。少し時間をもらって落ち着けたのかもしれない。
「いや、それはわかるけど」
実際、言われなくてもそんなことはわかってる。わたしのために書かれたとはいうものの、歌詞の主体は基本的にわたしじゃないからだ。
――夜を待ってた 誰もいない世界 君の手も取らずに
どんなつもりでこれをお兄ちゃんが作ったのかなんて聞いてないし、尋ねるつもりもない。そんなのは野暮ってもんだろう。
――ここに立ってるよ 傷が疼いて振り向いたとしても もう俯かない
でも兄妹だ、あの頃のお兄ちゃんを見てたわたしには、充分伝わった。
――笑えないような思い出さえ受け止めてみせるから 君が僕に笑って
飄々としてるようで、ほんとはまだ傷ついてる。そういうひとが、もう逃げないと、強さも弱さも自分だとわたしに誓った曲。
「だったらなおさら、あんたの入る余地ないじゃん」
それは言うなれば、わたしとお兄ちゃんの絆だ。たとえ恋じゃなくても。
「何度でも言うよ。あれわたしのだから。つーか」
こんなこと繰り返し説明しなきゃいけないようなバカじゃないはずだったのに。それこそ恋のせいだとでも言うのか。
「自分で言ってんじゃん。『かりんに向けて歌った曲』って」
「違うの、わたしが言いたいのはそういうことじゃなくて」
なんかもう疲れるな、と思うわたしに、まだアイリは食い下がった。
「かりんにはわかってないんだよ。虎次郎さんの気持ちが」
その言葉に、そっか、と呟いてわたしは一度目を閉じ、椅子に深く腰掛け直す。一拍置いて息をつき、ゆっくりと頷いて目を開ける。
それからスティックシュガーを投げた。
「いい加減にしろ。ふざけんな」
きゃっ、じゃねぇよ。鈍器じゃないだけありがたいと思え。
「わかって欲しいならわかるように言えっつーの。バカか」
少なくともひとつわかった。間違いない。これなめられてんだわ。
お兄ちゃんの気持ちがわかってない、それはその通りだ。歌詞に書かれてるからといって、わたしはお兄ちゃんじゃないし、同じ人生を歩んだわけでもない。
だからほんとの意味で共感することは、残念ながら出来ない。
「ね、それじゃさ、そこまで言うなら説明してみ?」
でも理解したくてずっと頑張ってきたんだよ。同じ気持ちになれないのは当然とわかってもなお、それでもわかりたいと、少しでも近づきたいと願えば、見えてくるものはきっとあると信じてやってきたんだよ。
「わかるんでしょあんた? すぐ隣で見てきたわたしにもわからなかったことが」
もう、わたしは本気で怒ってる。さっきまでみたいに説教で終わらせるつもりなんてない。アイリがわかってないのひと言で切り捨てようとするのは、お兄ちゃんたちを失ってからの、わたしの人生だ。言わせておけるはずがない。
堂々とひとをコケにした相手に、さっきさやかと対峙したときみたいなテンションで視線をぶつける。
それでアイリの態度がさっきみたいにならないのが、わたしを軽んじてる証拠。
「じゃあ言うよ。あの曲に書かれた虎次郎さんの気持ち、あれはわたしと同じ」
どころか怒りを打ち返すように、アイリは本来の強い口調を取り戻した。
「あの気持ちがかりんにわかるわけないんだよ。絶望したことのないひとに、あの曲がなにを歌ってるかなんて一生わからない。だからあれはわたしの曲なの」
吐き捨てるように言われ、わたしは少し時間が止まったように感じた。
視界はすごくクリアなままで――説明が難しいけど、なぜか意識だけが、わたし自身を背後から眺めてるような感覚。もちろん錯覚なのはわかってる。
ああ、そっか。怒りが臨界点を超えると、逆に冷静になるとか聞いたわ。
なんの話だっけ。そうだ確か、絶望? 絶望って言ったな。
「くっだらね。たかがいじめで絶望とか笑わせんな」
そりゃアイリみたいに学年ぐるみってわけじゃないけどさ、わたしだってそんなのあるよ。立ち回りの上手いっていうかせこいス○夫系の奴を除けば、あれって標的は持ち回りみたいなもんだし。
それとは別に常時やられてる根っからのいじめられっ子みたいのもいて、虎次郎兄ちゃんも昔はそのタイプみたいだったけど。
「さっきも言ったの聞いてなかった? あんたのは自分のせいだろ」
あれの性格に癖があるのはまぁ確かだ。それが癪に障るひともいたかもしれないし、ときに意図せず相手を怒らせることだってあったろう。わたしですらよく腹を立てたのだ。
「違う!」
「違わないよ。自分の蒔いた種で絶望とか、しょうもないマッチポンプでなに悲劇のヒロイン気取ってんの? みっともね」
でもお兄ちゃんが絶望したというなら、それはいじめなんかのせいじゃない。
「違う……違うの」
「どこが誇り高いんだか。空き巣みたいなもんじゃん」
「そうじゃない! そんな話してない!」
「こっちのセリフだよ。つーかほんとはお兄ちゃんのセリフ。龍一兄ちゃんの話もしたよね、忘れちゃったんだ」
原因の一端はあっても、望んだわけじゃない。たまたま生まれ持った、あるいは成り行きで手にしたもののために、仲の良かった身内が命を落としたのだ。
もうひたすら悔しいし悲しい。わたしのことだけじゃない。
アイリがいじめでどんな気持ちだったか知らないけど、もう取り返せない、やり直すことの出来ない虎次郎兄ちゃんの傷を、簡単に同列に扱うなんて。
「これも言ったね、あれを虎次郎兄ちゃんのせいじゃないって言うために、わたしはこれまで頑張ってきたんだって」
よくわかったよ。まだ親友だと思ってたのはわたしだけだったんだね。
「さやかの言う通りじゃん。あんたさ、嘘つきだわ」
気が変わった。むしろ恥をかかせない理由がない。
「だいたいあれだよ、かおりさんの言う通り、せめて素直にやらせておけば良かったんだよ。そしたらその彼氏が助けてくれたんじゃないの?」
開き直ったわたしの暴言に、アイリはひどく驚いた表情を見せる。ゆっくり血の気が引き、青ざめた顔を再び伏せた。
「それ、は……」
ここで自分を棚に上げるのは構うまい。男子ってのがそういうもんだと知らなかったなんてあり得ないし、あんただって興味あるくせに。最初の彼氏はまだしも、次の先輩だかのときは心の準備ぐらい出来ただろうに。
「……お願い、これ以上は言わせないで」
声を肩と一緒に震わせ、テーブルクロスに透明な雫が2、3落ちる。
いつも気丈なアイリの涙も、わたしの怒りに拍車をかけることにしかならない。東高文化祭の初日みたいに静まり返った店内にも、まるで負い目は感じない。
「いや言えよ。別に驚かないから」
「いつか、言う……。でもいまは、許して」
「いいから言えって。早く」
責めに参ったのか、両手で顔を押さえ、アイリは嗚咽を漏らした。
「……ここじゃ、無理……お願い……」
しばらくそのまま、わたしはむせび泣くアイリを見下ろした。
男だったら、そのか細い姿に折れたかもしれない。でもわたしは女で、ひとりの相手を巡るライバルだ。いや、だった、か。
どっちにしろ許す気なんてない。お兄ちゃんの気持ちもアイリの気持ちもわからないけど、さやかの気持ちだったらいまはよくわかる。
「さっさと言えば? わたしはもう友達じゃない、って」
だから決定的な言葉を口にした。
「友情より男なんでしょ? いいよ別に、そんなのあんただけじゃないし」
「違う……わたしは、今度は間違わないって……」
「遅ぇよ。とっくに間違ってるから」
ほんとに遅ぇ。いまさら取り繕っても間に合ってねぇし。
アイリはまた黙り込み、それから幾度か口を開いては閉じる。
わたしは腕組みで返事を待つ。夜の砂漠みたいに冷たく乾いてしまった感情は、もうなにを言われても弾き返すだけだ、と思う。
そっか、とアイリの口から、寂しげに漏れた。
そしてあっさりわたしは乱される。
「でも、虎次郎さんは、わかってくれたよ」
いきなりお兄ちゃんが出てきたことに、そしてその意味に。
「『あれは確かに、アイリの曲でもあるな』って言ってくれた」
かすれた声で言うと、アイリは立ち上がった。さやかと相対したとき以上に傷ついて見える顔を、涙の流れるに任せたまま、荷物をまとめ始める。
「わたしのためのアレンジを作ってくれるって、約束してくれた」
嘘つき、と反射で言おうとして、言えなかった。心臓が動悸を打つ。
そんなわけない。だってあのお兄ちゃんだよ?
恥ずかしいぐらいのどシスコンで、わたしのためならいつだって、なんだってしてくれる。プールのときも、そのあとのカフェでも、誰と一緒にいたってわたしのことが最優先。
ふざけたいたずらはあっても、大事なことでは裏切ったりしない。
さっきのキスだって、わたしが言ったらちゃんと止まったじゃん。
曲のことだって、わたしから断る、って言ったじゃん。
なのに。どうして。
これまでと逆に言葉を失ったわたしに、追い打ちが加えられる。
「わたしの言葉で信じられないなら、本人に訊けばいいよ」
目も合わせずそれだけ言って、アイリは教室を出た。
どうして。