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高嶺のお兄ちゃん  作者: 明智あきら
第2部
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第2章 (3)

 家に帰る頃には夕方を過ぎてて、ドアを開けたら夕食のいい匂いが漂ってきた。うまく言えないけどいつもとなにか違う感じがして、ダイニングを覗いたら支度をしてるのはお母さんだった。


「あれ珍しい。どしたの」

「遅かったわね華麟。でもちょうどよかった、これお願い」

 鶏の唐揚げを油切りするお母さんに、言われるまま配膳を手伝う。食卓には揚げ出し豆腐と揚げ茄子のおろし和えが並び、鍋を見ると油揚げのみそ汁だった。


「……揚げ物多くね?」

 ニキビ出そう。昼も焼きそばだったのに……。

「たまには我慢しなさい。あなただって嫌いじゃないでしょ」

 いやそうだけど女子だよ? それに我慢て……あれ。


「なにこれ。お兄ちゃんの好きなもんばっかじゃん」

 もう好き嫌いはないと言ってたし、いまも特別好きかどうかはわからない。でも昔の虎次郎兄ちゃんは油っこいのがやたら好物で、太ってるのを気にしてたくせに中華とか食べに行くとチャーハンに揚げ餃子とか平気で注文してた。ちなみにわたしは水餃子派。


「あの子が落ち込んでるみたいだから、たまにはね」

 お母さんは優しく笑った。なんか久しぶりに見たなそういう顔。

 ロスでお父さんと一緒のときとかはわりとあるんだけど、家でお母さんが表情を崩すことはあまりない。


 昔はうちがあんなだったし、お婆ちゃんが亡くなってからはいろいろ忘れようとするみたいにたくさん仕事を抱えるようになって、丈夫なわけでもないのにいつも忙しいせいで疲れてることが多い。

 冗談を言うタイプでもないし、それはわたしも同様なので、ふたりでお茶を飲んでたりしても笑顔を見ることは少ないのだ。特に夏休み以来、そういう機会自体がなかったし。


「落ち込んでたんだあいつ。なんか聞いた?」

 さっきはぜんぜん反省してなさそうだったけどな。

「聞いたもなにも、学校から電話があったわよ」

「うわだっさ。転入1週間で親に連絡されてんだ」

「そう言わないの。華麟のために怒ったんでしょ」


「どうだかね」

 ずいぶん甘いなお母さん。これがデレ期というやつか。

「穏便に解決しようとしてたのに、勝手に割り込んでキレたんだから。わたし超気まずいし」

「そうなの? わたしは逆に安心しちゃったけど」


 おい。あんた去年PTA会長だったよな? いいのかその発言。

「公衆の面前でよそ様の子叩き出そうとする奴に、なにを安心するのかと」

「まぁそれは困るわね。……でも、やっぱり兄弟なんだな、って」

 そう言ってお母さんはまた笑う。今度は、少しばかり寂しげな様子を伴って。

「だから、そういうのは真似しなくていいんだって……」

 お母さんも、それからその言葉にわたしも、龍一兄ちゃんを思い出してる。


 小学校の頃の話だ。龍一兄ちゃんは男女ともにモテる人気者だったけど、のちにヤンキーになっちゃうぐらいで、若干のいじめっ子気質があった。

 成績のことでバカにしてくる同級生を殴って土下座させたりとか、反抗的な態度を取る相手をトイレに呼び出して泣かせたりとか。粘着質なやり口ではなくとも、そんなことをしてたせいで、男子のなかに敵がいないわけじゃなかったようだ。


 その腹いせなのだろう、弟だという理由でたまに虎次郎兄ちゃんが絡まれることがあった。その頃は軟弱だったから、怖い上級生にされるがままだったらしい。

 そのときが何度目だったのかわからないけど、ふたりがかりで小突かれ泣かされてる虎次郎兄ちゃんをたまたまわたしが見かけて、慌てて龍一兄ちゃんを呼びに行ったことがある。


 駆けつけるなり龍一兄ちゃんはダッシュからの跳び蹴りでひとりを床に転がし、逃げようとするもうひとりを追いかけて殴り、あっという間にふたりともやっつけてしまった。それから虎次郎兄ちゃんに向かって謝らせ、以後そういうのはなくなったという。


 暴力の是非はさておき、その姿を見て、やっぱりカッコいいな、頼りになるな、とそのときその場ではわたしも思ったものだ。

 ところがことの次第を聞いてみれば龍一兄ちゃんのせいなわけで、すぐひとのこと殴るからそういうことになるんでしょ、龍一兄ちゃんも虎次郎兄ちゃんに謝らなきゃだめじゃない、とわたしから説教したのが思い出の顛末。


 仕方ないのよ、とお母さんは諦めの混じった様子で言う。

「お父さんも子供の頃は荒っぽかったらしいから。遺伝よ」

 そんな遺伝はいらねぇ。

「あんまり甘やかさないでよ。退学とか困るでしょ」

 呆れて言ってやると、お母さんも呆れ顔で返してきた。

「昔は自分がさんざん甘やかしてたくせに。いま頃なに言ってるの」

 あのなぁ。それはあんたがやらかしてたからだろうが。言わないけど。


 そこで、そっか、とお母さんはもう一度笑った。

「確かに困るわね、せっかく来年から一緒の学校通えると思ってたのにね」

 ……思ってたけどさ。でもいまはそういうことじゃないのに。

「どうでもいいからそんなの」

「あら違った? ……あ、わかった。ツンデレっていうんだっけ、そういうの」

 まさか実の母親にまで言われるとは! しかも自分を棚に上げて!


「……お兄ちゃん呼んでくる」

 喋りながらのうちに食卓の準備は終わってたので、引きつるこめかみを押さえながら2階へ上がった。先に自分の部屋で着替え、向かいの部屋をノックして扉を開ける。ご飯出来たよ、と声だけかけてわたしは1階の食卓に戻った。



 お母さんを交えての食事は予定してなかった。とはいえ作ってもらった晩ご飯を食べながらその相手に説教するのはちょっと気が引けるので、もとからお茶の時間までは大人しく構えるつもりだったのだ。

 なのでわたしが愛想を振りまくのは無理でも、ご機嫌でお兄ちゃんに話しかけるお母さんの邪魔はすまい、と決めて素直に母の味を美味しくいただくことにした。


 意外なことに、お母さんは食事中、今日の出来事に触れなかった。日本の学校には慣れたかとか、こっちで暮らしてなにか不便なことはないかとか、普通に母親が息子を心配するようなセリフばかりで、それがすごく新鮮だった。


 あの八百長ボクシング以降も、忙しいせいかふたりにあまり接点はなく、会話らしい会話というのはずいぶん記憶を遡らないと思い出せないぐらいだったのだ。返事をするお兄ちゃんも母親のそういう姿に悪い気はしない様子で、わたしまで妙な感慨に耽ってしまった。


 一方でこれは、わたしのため(という名目で)問題を起こしたお兄ちゃん、それから原因となったわたしに、ふたりきりの食事でばつの悪い思いをさせたくなかったのだと見当もつく。自分が緩衝材になることで、子供たちの気まずさを和らげようとしたに違いない。


 お母さんにしてみれば虎次郎兄ちゃんに母親らしいところを見せるめったにない機会だし、晩ご飯の支度を買って出た時点でそのつもりだったのだろう。

 お兄ちゃんのほうでも例の件に触れなかったのは、おそらくその親心を汲み取ってのことだ。そしてそれは確かに成功した。そう思えば、これもまたケガの功名と言えなくもない。


「じゃ、わたしは仕事の続きがあるから」

 あとはふたりでごゆっくり、と2階に上がったお母さんにふたりで手を振り、洗い物をするお兄ちゃんの横でわたしはウーロン茶をホットで作った。

 とは言っても、今回は甘やかしてられないんだよな。ごめんねお母さん。

「話あるから。逃げないでよね」


「わかってる。どれだけ怒られるか、ちょっと心配だけど」

 そう言って目を逸らすのはどうせ演技だ。ほんとはわたしになにを言われるかも予想して、ごまかす言い訳だっていくつも用意してるに決まってる。そういうお兄ちゃんをどうやったら上手く揺さぶれるか、わたしも考えてきたのだ。いつまでも掌の上で遊べると思うなよ。


 ふたりでリビングに移動し、お盆に載せたお茶をローテーブルに置いてソファに座る。そのお茶にお兄ちゃんが口をつけるタイミングを見計らってわたしは言う。

「お兄ちゃんと今日子さん、付き合ってるんでしょ?」

 ……ほら固まった。


「そうならそうって、早く言えばいいのに。隠されるほうが逆にやだ」

 この角度からの攻撃はいくらお兄ちゃんでも予想出来まい。お茶吹き出さなかっただけでも大したもんだ。褒めてもいい。

「ちょっと待ってかりん、違う」

 慌ててカップを置いたお兄ちゃんが、弁解を始める前にたたみかける。

「まぁね、かわいい妹がいれば充分だよとか言ってたくせに? しかもその妹が手出すなって言ってた相手だし? 言いづらかったのかもしんないけど」


「だから違うって、誰にそんな話」

「アイリの気持ちだってわかってるのにさ。なにが口づけのひとつでも、だよ」

「聞いてかりん。頼むよ」

「しょうがないよね、今日子さんだもん。わたしだって自分が男ならほっとかないと思うよ。ただ内緒にしてたのは気に食わない」

「ほんとに違う、おれと十六夜さんは付き合ってない。信じて」

 よし。とりあえずひとつ言質は取った。


 怒ってるのは事実でも、これはこっちも演技なのだ。ふたりが付き合ってると本気で疑ったわけじゃない。あるいは一番シンプルな真相だったかもしれないけど、最初に潰しておくべき可能性として気持ち程度に考えただけ。

 ここでまずわたしが狙ったことは、今日子さんの信用回復だ。


 今回ナーバスになってるのは、お兄ちゃんだけでなく今日子さんの信用も揺らいでしまったせいだ。もし口裏合わせて秘密にしてるのだとしたら、次に会ったときどう接したらいいか、そこから考えなければいけなくなる。

 お兄ちゃんの言うことをすべて鵜呑みには出来なくても、わたしに『信じて』とまで言った以上は間違いないのだろう。


「じゃなんであんなに仲良いの? 転入1週間のやりとりには見えなかったけど」

 だからこれも、実はお兄ちゃんを責めてるわけじゃない。

「言っただろ。隣の席だし、文化祭準備もあって話す機会も多かったから」

「それで調子に乗ってネコ耳メイド着せるような奴と仲良くしたい女子がいるわけねぇだろ。なめんな」

 あれで今日子さんも、ほんとは興味あったんじゃないかと思ってるけど。自分で着るのと、ひとに着せられるのとではぜんぜん意味が違う。


「ちゃんと説明して。お兄ちゃんと今日子さん、どういう関係なの?」

 ふたりには単にクラスメイトという以上のなにかがあるのは絶対だ。あとで今日子さんにも裏を取るとして、いまはお兄ちゃんから引き出せるだけ情報を引き出しておきたい。


「そう言われてもな……忘れてるのかもしれないけど、おれと十六夜さんはもともとかりんを介して知り合った関係だよ?」

 それはその通り。忘れてたわけじゃない。


「付け加えるなら、おれアイリとも仲良いんだよ? それなのに十六夜さんと仲悪かったら、そっちのほうがおかしいと思わない?」

「そんなのあんたと今日子さんが特別仲良い理由にはならないでしょ」

 わたしもアイリも今日子さんとは仲が良いけど、その弟とは違うのだ。


 それもそうか、と言ってお兄ちゃんは改めてお茶に口をつける。落ち着く時間を与えたくはなかったけど、いつまでも一方的にまくし立てるわけにもいかない。

 仕方なく手つかずのお茶を口に運ぶわたしを見て、お兄ちゃんは首を傾げる。

「ところで知りたいんだけど、かりん、どうしてこんなこと訊くの?」


「必要だから」

 まだ主導権は渡せない。最低限の言葉で返事すると、うーん、と困り顔で唸ってお兄ちゃんは頭を掻いた。

「じゃあ……これで納得してくれるかわからないけど……強敵と書いて『とも』と読む関係、かな」


 どこの北斗だよ、とうっかりツッコんでしまうと相手のペースになりそうな気がして、わたしは鼻白んだ顔でお兄ちゃんを睨むに留める。

「……まず、単純に仲が良いっていうかりんの解釈がちょっと違うんだよ。もちろん見た通り悪くはないし、いろいろ話したりするけど」

 黙ったままのわたしに冗談を諦めたのか、お兄ちゃんは続けた。

「これは知ってるのかな。あのひと、成績学年トップなんだよ」


「それは知ってる」

 今日聞いたばっかだけどな。

「なら話は早いな。で、手前味噌ながらおれはもう高卒だろ。あの学校は進学校だから一概に言えないところもあるけど、英語数学世界史あたりはほぼ終わらせてると言っていい」

 そうかも。英語に至ってはお父さんより喋れるとか自慢してたし、高卒どころかたいていの大卒より出来るだろう。


「それでライバル視されてるってこと?」

「そういうこと。といっても努力家だし、妬んでくるようなタイプでもないから、わからないことは普通に訊いてきたりする。たぶん、かりんと気が合うのはそのあたりなんだろうな」

 と言ってお兄ちゃんは笑う。ちぇ。もう仮面被られちゃった。


「おれも古文漢文日本史あたりはちょっと怪しいから、こっちからも訊くしね。そのついでに世間話だってするよ。もちろん、かりんとアイリの話もね。だから普通よりは気心知れるのも早かった、ってことだと思うよ」

 なるほど。そう言われてみれば、あながちおかしくもないのか。だからって丸ごと信じてはやらないけどな。


 通用するかわからないけど、もう一度だけ揺さぶってみよう。

「それで弟くんの名前も知ってたんだ」

「ああ、和樹な。よく話に出るから」

 お兄ちゃんはすぐに応えた。やっぱりこれ以上は難しいか。……仕方ない。


「じゃ本題。その『例の』弟くんだからって、どうしてあんなことしたの?」

 にしてもよく話に出るって今日子さん、まじでめちゃくちゃ甘いんだな。さすがにニュアンスは違うだろうけど、あれを相手にブラコンってのはわたしですら理解に苦しむ。


「だってかりんの敵だろ? ならおれの敵だよ」

 昨日の話も十六夜さんから聞いてるよ、と付け加え、お兄ちゃんは当たり前の顔でわたしを眺める。そう来るだろうと思ったよ。

「ふーん。聞いてたんだ。ならあいつが『昨日も』って言った時点ですぐ気づいてよさそうなもんだけど」


 出来れば動揺してるうちに、これを追及しておきたかった。先に聞いてたのがほんとなら、『なおさら』を言い出すまでのタイムラグも不自然だからだ。

「薄々はね。でもかりんの交友関係をぜんぶ把握してるわけじゃないし」

 そのかわし方も想定内。だけどそんなの虎次郎兄ちゃんらしくない。こいつはひとの気持ちには鈍感なくせに、場の状況から文脈を読み取るのは得意なのだ。


「それにわたしやめてって言ったよね? 今日子さんだって。なのに途中から余計に意固地になってたじゃん。あれなんなの?」

 だからこれは絶対におかしい。さて、どんな言い訳するつもりかね。


「ごめん、そこについては反省してる。実を言うと」

 するとお兄ちゃんは照れた様子で、あるいは自嘲気味に苦笑いした。

「話聞いてるとさ、なんだか昔のおれみたいなんだよ。大した取り柄もないくせにちゃっかり勉強は出来て、コミュ障でゲームばっかりしてる上に、ときどきいじめられてる様子もある」

 ……まったく予想出来なかった。まさかそんな見立てがあり得るとは。


 ただ言われてわたしも、はたと思い当たる。

 考えてみれば、お互い様のときは自分から謝らない、なんてまさに昔の虎次郎兄ちゃんだ。自分でも正直わりと謎だったんだけど、もしかして昨日、わたしにやたら攻撃的なスイッチが入ってたのはそのせいなんだろうか。

 情けない話ながら、虎次郎兄ちゃんに口で勝てたことはないから、やり合うとなったらこっちはいつも全力だったのだ。


「そっか……そうなんだ」

 ちょっと暗そうとか、頼りなさげに見えた第一印象にしてもそうだ。つーか人見知りとか、昔はお兄ちゃんもそうだったって自分で言ったじゃん。

 なのに気づかなかったのは体型の違いだけでなく、虎次郎兄ちゃんの場合は伝え方が間違ってるとか、相手の話が理解出来ないせいでこじれるなんてことはなかったからだろう。国語力って大事だな。


「で、そういう弟を心配してる十六夜さんを見ると、昔はかりんもこういう感じでおれのこと扱ってたのかな、と思ってたまに腹が立つんだよ」

 でも今日子さんには共感しないよ? お兄ちゃんはこんな言い方するけど、あの頃わたしが心配してたのは、大した取り柄がたくさんあるのに認めてもらえなかったからだ。


「もちろんかりんにじゃなくて、そうさせてた自分にね」

 お兄ちゃんはまた口元を歪めた。今度は照れじゃなく、明確な自己嫌悪をそこに滲ませて。

「だから十六夜さんの口からはっきり、あれがそいつだって聞いたら抑えが効かなくなった。その相手がおれの目の前でかりんを困らせたと思ったらなおさら」


「……コメントしづらいんだけど」

 一応、理解はした。それなら落ち込んでたってのもわかる。

「ほんとにごめん。言ってみれば近親憎悪だな。みっともない自覚はある」

 そう言って現在のお兄ちゃんは頭を下げる。すぐ謝りすぎるのは悪いところでもあるけど、これはあいつとの大きな違いだ。


「そんなことより東高みたいな進学校に編入して、いきなり不良エピソード作っちゃうほうがみっともないし。なにそのスメルズライク中2スピリット」

 なのでこの話はここまでと諦め、昔の虎次郎兄ちゃんが好きだった、古い洋楽になぞらえた皮肉でひとまず見逃すことにした。

 完全に納得したわけでも、許したわけでもない。意外すぎる話が却って腑に落ちてしまった一方、冷静になられた段階で辻褄を合わせられちゃうのも織り込み済みなのだ。


「……かりん、英語の勉強をしたいならもうちょっと上品な曲を勧める」

 お兄ちゃんは難しい表情で、こめかみに指を当てながら笑う。

「あと、Teen Spiritってのは向こうの若い奴が使う安い香水の名前なんだよ。きっと掛詞ではあるんだろうけど」


「いまそんなうんちくはいらない」

 その話は知ってたけど、ここでは言わない。皮肉の半分は冗談で、そこに落としたわたしもまた、残念ながらどうしようもなくお兄ちゃんに甘いらしい。




 翌日、朝一でわたしは再び1ーCの扉をくぐった。お兄ちゃんは謹慎中だし、原因を作ったわたしからクラスのひとたちに謝らないといけないからだ。

「これ、お詫びです。みなさんで召し上がってください」

 昨日のうちに買っておいたヨックモックの詰め合わせを袋から取り出し、両手に持ち替えて差し出す。カフェ営業してるとこに菓子折を持ち込むのもどうかと思ったけど、手ぶらというわけにもいかない。


「ほんとうに、わたしと兄がご迷惑をおかけしました」

「いや、まぁ……責任はかりんちゃんたちに手伝わせちゃったおれらにもあるし」

 深くおじぎしたわたしに、昨日と同じ受付のお兄さんが小声で付け加える。

「ただ、やっぱ女子はちょっと機嫌悪いみたいだから。これはもらっておくわ」

「お願いします。お兄ちゃんも一応は反省してるみたいなんで、次に会ったらちゃんと厳罰で臨んでください」


 そこは厳罰なんだ、と受付さんは笑った。別にわたしは冗談を言ってるつもりじゃなくて、あのすぐ調子に乗るバカは簡単に許さないほうがいいと思うのだ。なあなあに済ませたせいでまたやらかして、その繰り返しでだんだんとクラスメイトからハブられてく、みたいなほうがよっぽど嬉しくない。


 それからクラシックメイド服の今日子さんに、視線で合図する。

 またあとで来ます、と。



 メディア部に寄って先輩たちに挨拶し、朝ご飯代わりのクレープを食べ、いろんな出し物を見て回る。お化け屋敷や自主映画、演劇に絵画にバンド演奏。本来なら昨日ふたりで遊んでくはずだったアイリは、今日は家族で出かける用事があるとかで来れない。

 来なくて正解だったかもね、とも思うけど。


 ――あれ、かりんちゃんじゃね。声かける?

 ――やめとけって、シスコンの兄貴に殺されるぜ。

 ――ああ、あの帰国子女? 昨日暴力事件起こして停学になったって?

 ――あれだろ? 妹ナンパしようとした客殴ったってやつ。


 やたら視線を感じるのは昨日もだったからそれはいい。ただ今日はそこに地味な悪意があるというか、腫れ物扱いみたいなコメントがちらちらくっついてくる。


 ――昨日の今日じゃん。謝りに来たならわかるけどさ、普通に遊んでるし。

 ――自分のせいでお兄ちゃん文化祭来れなくなっちゃったのにね。

 ――わがままでメイドやらせてもらっといて、客とモメたんでしょ?

 ――いろいろ勘違いしてんのかね。ここの生徒でもないのに。


 話はもう広まってるだろうと思ったし、言われるだろうなと覚悟もしてた。にしてもなんで噂って、こう間違った形で流れるんだろうな。むしろわざと変に曲げて流してるまである。

 やれやれ。こういうのは時間が経てば消えるとわかってるから、相手にするつもりはない。うちの中学でも、モデル始めたのが知られてきた頃とか、人気ある先輩男子に告られて振った直後とか、何度かあったのである意味慣れてる。


 だから楽しくはなくても、悪びれもしない。けど直接迷惑かけられたわけでもない相手に、しかもわざとらしくやっと聞こえるぐらいの声で言ってくるのってまじ不思議だよな。

 この学校に通ってるぐらいなら、頭の出来だって相応だろうに。それでも同調圧力で強気にいい加減なこと言えちゃうあたり、これだから日本は、ってお兄ちゃんじゃなくても言いたくなってしまう。


 早く連絡来ないかな、と思いながらスマホを取り出してチェックすること、すでに十数回。わたしはお兄ちゃんみたいな謎の強メンタルじゃないので、態度には出さなくても言われたらそれなりにへこむのだ。

 なら大人しく隠れてればいいじゃんって話なんだけど、こういうときに逃げたら負けな気がしちゃうのは、多感な時期をヤンキー文化に囲まれながら育ってしまった弊害なのか。


 そんなこんなでそろそろお昼を回る頃、ようやく待望のメッセが届いた。

〈お待たせ。和樹来たよ〉と。


 安堵のため息をつき、わたしは朝に続いて1ーCへと向かった。

 この時間を選んだのは、昨日の様子で店が空くとわかった今日子さんの気遣いなのだろう。かたや朝早くからわたしが来たのは、先にクラスのひとたちに謝るためと、相手の予定変更で入れ違いになってしまうのを避けるためだ。



「ほんとに、わたしいなくて大丈夫?」

 教室に入ると、当番を終えたらしく制服に着替えた今日子さんが、すぐに出迎えてくれた。心配を隠さないのはごもっとも。わたしはきりっと宣言する。

「大丈夫です。昨日も言ったじゃないですか」


 お兄ちゃんの話を聞いてすぐ、わたしは今日子さんに連絡を取った。

 ふたりの間柄についてやはり尋ねたところ(もちろん言葉は当たり障りないよう選んだ)、特にお兄ちゃんの証言と矛盾する箇所はなし。人間的にはあれな部分があっても、その能力は素直に尊敬してるし刺激になるのだと教えてくれた。


 仮に打ち合わせがあったとしても、話に筋は通ってる。いまはこれ以上疑っても仕方ない。訊きたかったもうひとつ、なぜわたしを知らないふりをしてたのかについては、今回は見送ることにした。


 気にならないわけじゃない。ただお兄ちゃんとのやりとりがそれとは無関係であるならば、いまはもっと大事なことがある。

「今日はわたしから謝りに来たんですから。お祭り楽しんできてください」

 今日子さんに手を振り、わたしは待ち合わせのテーブルへ向かった。

 不機嫌そうな顔で頬杖をつく、弟くんのもとへ。


「お待たせ。ごめんね、わざわざ来てもらって」

 電話で話したついでに、今日子さんに頼んで呼んでもらったのだ。今度はなにを言われてもキレない、と約束して。

「それはいいけどよ。どうせ来るつもりだったし」

「お姉ちゃんじゃなくて悪いね。またわたしで我慢してよ」

 わたしは努めて明るく……は白々しいのでそこまでやらないけど、不機嫌に見えない表情と声音を演出しつつ席に着いた。


 わたしと弟くんがふたりで話すのを、今日子さんに限らずスタッフみんな、作業しながらも緊張をもって気にしてるのはやむを得ない。昨日あれだけのことがあったのだ。わたしたちの敵対関係はクラス全員の耳に入ってると聞いた。

「……いいけどよ。で、なんなの?」

「うん。まずは、ごめんなさい」

 両手を膝に乗せ、頭を下げる。


 お兄ちゃんの『なおさら』について聞かされたとき、わたしが最初にしなければならないと思ったのは、これだった。弟くんに謝ること。

「昨日はうちの兄が大変失礼しました。あいついろいろと屈折してるから、弟くんには意味がわからなかったと思う。ほんとなら一緒に来るのが筋なんだけど、いま謹慎中だし」


 それに、お兄ちゃんは謝らない気がする。反省してるのはわたしの前でみっともない真似をしたことに対してであって、昔の自分みたいだ、と言って嫌う相手には素直に非を認めないんじゃなかろうか。

「なのでわたしが代理。迷惑かけたお詫びに、ここはわたしのおごり」

「ふーん。……お前も注文すれば?」


 そだね、とメイドさんを呼び、わたしもお茶とお菓子を頼んだ。それからまだ入り口近くでわたしたちを見守ってた、今日子さんにも頭を下げる。

 これで一応は安心してくれたのか、わたしたちに軽く手を振って今日子さんは教室を出た。それに呼応するように、スタッフみんなの緊張も、少し解れたような空気が伝わってくる。


「あと、ふたりでちゃんと話したかったし」

 実際問題としてわたしだけでなく、弟くんにとっても今日子さんに同席してもらったほうが楽だったろう。だからこそ、今日子さんの手を借りたくなかった。

 ちゃんと自分で解決したかったし、それをするなら早めにしておきたかった。次いつ会うことになるかわからない相手に負い目を感じたまま、その身内である今日子さんに接するのがいやだったのもある。


「それから一昨日も。叩いたことはともかく、誤解ってわかったあとのは言いすぎだった」

 これを言うと、弟くんの表情がやや不機嫌さを増した。

「殴ったのはやっぱ謝罪なしなわけだ?」


「そこはまだ譲れない。理由聞きたい?」

「当たり前だろ。おれに言わせればそこが一番腹立つ」

 ってことなんだろうな。まったく、ほんとにとことんわかってない。

「わかった。続きは注文来てからね」


 さてここからが本番だ。気合を入れ直すにあたって、いったん落ち着きたい。

「その前に、あまり露骨に感じ悪い態度見せないで欲しいんだ。機嫌直せとまでは言わない。でもせめて、少しぐらい隠して。クラスのひとたちが気にしちゃう」

 あえてこの場を選んだのは、実はこれが理由。3日連続でお姉ちゃんに恥をかかせるような真似はさすがのこいつにも出来まい。


 こういう策略はせこいかもしれないけど、この2日間を思えば、下手に出るつもりでなお、このぐらい保険をかけておかないと怖いのだ。

「っ……わかったよ」

 小さく舌打ちしたのち、弟くんは長い息を吐いた。表情から多少硬さが消え、いからせてた肩が下がる。緊張するのもきっとお互い様なんだろう。


 やがて頼んでたアイスティとアップルパイが届いた。それぞれひと口ずつ手をつけてから、ゆっくり深呼吸して姿勢を正す。よし。

「じゃ言うね。弟くんてさ、お互い様のときは絶対謝らないでしょ」

 すかさず弟くんが返す。物腰はマシになっても、声色は不機嫌なままだ。

「お前おれのこと、どんだけ失礼な奴だと思ってんの? 相手が謝ればおれだって謝るよ」


 ほら失礼じゃん、と反射で買い言葉を言いそうになる。危ない危ない。

「それって、相手も同じこと思ってたら一生謝らないってことだよね」

 意味通じるかな。通じないだろうな。これでわかるなら、一昨日の時点でわたしがどうして謝らないのかわかってたはずだもん。


「ならお前も、そう思ってるってことじゃねぇのかよ」

 やっぱり。そこまではわかるのに、肝心なことはわからないんだな。

「いまはね。……困ったね。わたしたち、どうしたらいいと思う?」

「お前のほうから謝りに来たんじゃなかったっけ?」

「そのつもりだよ。誠意も見せてるつもり」

 まぁ、ほんとの誠意はこの先にあるんだけど。


「だからさ、ちょっと一緒に考えてみない?」

「は?」

 驚いたみたいだね。もう少し警戒解いてくれないかな。

「なんでこんなことになっちゃったのか、最初から。ふたりで」

 これが弟くんへの、わたしからのほんとのお詫び。


 もちろんただ謝るのは簡単だ。トータルで見れば完全にわたし(とお兄ちゃん)が悪いし、叩いたこと込みで謝るのも、いまとなってはいやじゃない。

「最初って……おれの言い方が悪かったんだろ? それは認めてるよ」

「悪かったとは認めるのに、謝るつもりはなかったの?」


 でもこいつは必ず、また同じことを繰り返す。たまたま話が上手く通じなかっただけ、たまたま価値観が合わなかっただけ、たまたまタイミングが悪かっただけ。そうして何度でもひとを怒らせて、痛い目に遭って。あとから理由を説明されたところで、やられた以上はもうお互い様。自分からは謝らないし、反省もしない。


「言ってんじゃん。お前が謝ればおれもそうするって」

「ほんとに? これ、わたしの思い込みならすぐにでも謝るけど。弟くん、言い方に問題があったのは認めても、それを失礼だとは思ってないんじゃない?」

 そのこと自体を考え直さない限り、ずっとこのまま変わらないだろう。

 きちんと考えてもらう、その機会を作ること。釣った魚をあげるのではなく、魚の釣り方を教えること。それをもって誠意としたい。


 弟くんは言葉に詰まった様子を見せる。ほら図星。だからだよ。

「もしそうなら謝らなくていいよ。悪いことしたと思ってないなら、そんなの意味ないもん」

 これはお兄ちゃんを同席させなかった理由でもある。


「ただそれじゃ、わたしが先に謝ったって弟くんにとっても意味ないよね。お互い様だと思うならなおさら。それとも心のない謝罪聞きたい? それで構わなければいくらでも」

 ここで弟くんが、それでいいからさっさと謝れとか言い出すのなら、誠意なんて必要ない。わたしは形だけの謝罪を済ませてこの場をあとにしただろう。


 良心を試されたと気づいたかわからないけど、そう言われなかったのは救いだ。

「ちょっと待てよ。ならお前、ひと殴るのは悪いと思わないってことか?」

「良いとは思ってないよ。ただそうして当然の場面はあると思ってる」


 つまりこういうことなの、とひと呼吸置いてわたしは続ける。

「誤解で叩いたのは悪いと思う。でも誤解だってわかるまでは、わたしは当然のことをしたと思ってたし、同じことがあったらまた同じようにする。だからあのとき弟くんが、そうされるようなことを自分が言ったんだ、って反省してくれたなら、わたしもその場で謝ったよ」


 これが一昨日の事件の要点。なのに怒らせた理由を反省どころか、お姉ちゃんの助け船すら当然みたいな顔してるのだ。謝れるわけがない。

 その上、まぁ誤解は誤解だし根には持つまい、と思ってたら今度は自分に都合のいい謝罪を要求するんだから始末に負えない。あそこで今日子さんが気まずそうに黙ったのは、わたしの意図を理解してもなお、弟の肩を持ってあげたい姉心だったのだろう。


 これでわかってくれるならいいけど、と思いながら弟くんの表情を窺う。

「へぇ。お前親の悪口言われたらその相手全員殴るんだ」

「……一応訊くけどさ、それケンカ売ってる自覚ある?」

 だいぶ見込みが甘かったらしい。今日は絶対にキレない、って約束がなかったらもう飲み物ぶっかけてる。頑張れわたしの自制心。


「は? 違ぇよ、なんでそうやってすぐキレんのお前?」

「まだキレてないよ。念のため確認しただけ」

 はいはいそんなつもりなかったのね。言い方が悪かっただけね。そんでまた反省なしね。

「まだ、って……こっちだって確認しただけじゃねぇかよ」

 参ったな。こりゃ今日子さんでも矯正出来ないわけだ。ちょっと心折れそう。


「なんでそんなこと訊くの? 身内の悪口言われたら腹立たない?」

 それとも両親とは仲良くないのかな。たとえそうだとしても、他人に言われたら普通は気分悪いと思うけど。

「いや、腹は立つと思うよ? でもいきなり殴るとかキレすぎじゃね?」

「うーん……そっか。そこはわたしの急所だからだね」

 アイリが外人扱いに怒るように、わたしは基本的にこれを許せないのだ。


「そんなのおれが知るかよ。あんとき初対面だったのに」

 ……そうだけどさぁ。まじでどう言えばわかるんだこいつ。しかし初対面の相手にいちいちピンポイントで一番いやなとこ突くとかどんな天才だよ。

「はぁ。わかった。じゃとりあえず、わたしの話するね」


 わたしが弟くんの性格を知らないのと同様に、弟くんがわたしを知らないのも事実。きっと知りたいのは『言葉より先に手を出すほど怒った』理由なのだろう。

 だんだん扱いがわかってきた気もするけど、これに耐えられる今日子さん超尊敬します。もしかして、実家を出たのもそのせいだったりして。考えすぎか。


 まぁいいや本題。

「うちって昔いろいろあってさ。……みんな大事な家族なのに、お互い傷つけあって、一時は一家ばらばらみたいになっちゃって。いまはわりと大丈夫なんだけど、それでも正直、二度と取り返しのつかないことだってある」


 お母さんも、おそらく最初はお婆ちゃんでさえも、龍一兄ちゃんのことを想ってあんなことしてたに違いない。それで結果はあの通りだ。

「そのせいで、家族の話をされるのって、わたしにとってはすごくデリケートなことなんだ。だからあのとき、悪口言われたと思ってすごく腹が立ったの」

 実際のところ、その前からあんたは印象悪かったのも大きいけどね。


「どう思う?」

「どうって、だから誤解って言ってんだろ?」

 話戻ったな……あーあ。だめだこりゃ。

 もしかしなくてもこれはもう、意地になってるんだな。潮時か。


 ごめんなさい今日子さん、十数年かけてあなたに出来なかったことは、やっぱりわたしにも不可能でした。無力なわたしを許してください。

「そうだね。ごめん。わたしの個人的な価値観を理由に、いきなり引っぱたいたのはやりすぎだった。反省してる」

 わたしは再び頭を下げた。そう思った気持ちは確かに嘘じゃない。とはいえ言葉が皮肉でもあることに、果たしてこいつは気づくだろうか。


 頭を上げると、弟くんは豆が鳩鉄砲……じゃない、鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてた。

「どしたの? いまのは本気の謝罪だよ?」

「いや……わかった。ごめん」

 おい。国語力以前に、あんたひとの話ぜんぜん聞いてねぇだろ。


「だからいいってそんなの。心のこもってない謝罪ならいらないから」

「じゃなくてさ。……おれも反省した、っていうか……するよ。真面目に」

「は?」

 意味わからん。それとも理解した上での高度な嫌味? そんなこと出来るなら、もっと早く解決出来ただろうに。なんだこれ。


「なんかお前、ちょっと姉ちゃんに似てるな」

「はあ!?」

 やべうっかり大声出た。空気が一瞬で変わり、緊張の視線がわたしに集中する。いったん弟くんから視線を外し、小さくなってスタッフのみんなに会釈した。

「なにお前……これも言い方悪かったのか? おれ褒めたつもりなんだけど」

 それわたしにとって最上級の褒め言葉だからだよ、とは言ってやらない。わたし赤くなってないよな? 大丈夫だよな? くそぅ。こんな奴に。


「……それはいいんだけど、どうしてそう思ったわけ?」

「姉ちゃんにもよく言われるからだよ。考える物差しはひとそれぞれなんだから、自分だけの基準で他人の行動を判断しちゃだめだ、って」

 言われてんじゃん。いやそうだよな、いくら甘くたって、こんなの言わないわけないよな。だけど何度も言われてるならどうして実践出来ないんだよ。


 呆れるわたしに、少し顔を赤くして弟くんは付け加える。

「でもお前さ、おれにちゃんと話してくれたじゃん。それ、姉ちゃん以外の女子で初めてかも」

 ん? えーと、なぜそこで恥じらう……


 ……あ、ああー。はいはい。そっか。

 うん、まぁそんな気はしてたというか、無理もないというか。

 今日子さん、あなたの教育は正しいです。でも残念ながら、こいつにふさわしいやり方ではなかったようです。


「お姉ちゃんが可哀想すぎる……」

「なんでだよ、褒めてるつってんじゃん」

 わかった。はいここで、こいつとの関係いったんリセット。お互い謝罪も終えたことだし、もう負い目を感じる必要もない。


「悪いけど、わたし今日子さんの身代わりじゃないから。シスコン乙」

 と言いつつ内心、わたしは改めて反省してる。なにしろいまのは丸ごとそっくりブーメランで、これまでの件を謝るに至ったそもそもの理由なのだ。


 印象が悪かったのは確かだけど、思えば最初からずいぶん失礼な見立てをしてた気がする。わたしはこいつを今日子さんと比べるつもりで、ほんとはまったく別の相手……つまり虎次郎兄ちゃんと、無意識に比べてたんじゃないだろうか。

 もちろん現在のあいつはいろいろチートだし、ほかの男子をあれと比較するなんて理不尽な真似はしてないつもり。ただ昔の姿と雰囲気がダブったせいで、弟くんの場合は理性が上手く働かなかったのかもしれない。


 だとしたら原因を先に作ったのは、実はわたしのほうだったことになる。しかもその相手を一方的にやりこめて、昔の仕返しをした気になってたのかも。

「な……お、お前、なんで」

 だからこれも、本来ならわたしが言えた義理じゃない。とはいえ放置出来る話でもなくて、いま言った通り、そのままにしておくのは今日子さんにとっても問題のはずだ。


 少しどころか真っ赤になった弟くんにわたしは言う。

「なんでじゃないっつーの。素敵なひとなのは同意するよ、でも自分のお姉ちゃん基準にしてほかの女見るとか超失礼。それ今日子さんに対してもだからね」

 ことの是非はともかく、それならこの態度もわからなくはない。おそらくこいつにとって、口下手でコミュ障の自分に歩み寄って甘やかしてくれるのが『いい女』なんだろう。


「ちょっと声落とせよお前!」

「まぁね、あんな清楚系美少女な上に伝説とか作っちゃうハイスペックでおまけに声まで綺麗とかなにその2次元ヒロインテンプレ、みたいなのがお姉ちゃんなんだから、仕方ないっちゃ仕方ないけどさ」


 って自分で言いながら気づいたけど、あのひとって完璧にオタ男子のひとつの理想じゃん。そりゃこいつもシスコン待ったなしだわ。

「だから声でけぇって!」

「なに焦ってんの。憧れるのは別に構わないよ、わたしだって憧れてるもん」

 モメるために来たわけじゃないし、いじめるのはここまでにして声を落とした。


「でも例えば、あんた好みの女のタイプ訊かれて『姉ちゃんみたいな女』って答えたとしたらそれ今日子さんが喜ぶと思う?」

「……え、だめなのそれ?」

「……まじで言ったことあんの?」

 弟くんは口ごもった。うわ……引くわ……。


 一応言っておくと、虎次郎兄ちゃんはわたしのタイプというわけじゃない。むしろあんな、甘ったるいセリフ誰にでもべらべら口走る女たらしのラノベ主人公体質とか超めんどくさい。外見声その他もろもろカッコいいのは否定出来ないけど、正直あれを『タイプとして』いい男とはあまり思ってないのだ。転ばされてしまった理由は違うところにある。

 まぁあいつの場合「好みのタイプはお兄ちゃんだよ!」とか言ったら普通に喜びそうな気もしなくはないな。死んでも言わないけど。


「念のため訊くけどさ……ガチ、じゃないよね?」

 ちょっと怖くなってきたので、内緒話レベルまでボリュームを下げる。すると弟くんは頬を染めたまま、わたしから視線を逸らした。

「ち……違ぇよ、そんなわけねぇだろ、姉弟だし」

 あ、ほんとにそんなわけだったのね……。

 わたしは絶望的に落ち込んでテーブルに額をついた。やばいちょっと泣きたい。


「……痛すぎる……」

「否定してんだろ! 聞けよひとの話を! つーか絶対姉ちゃんに言うなよ!」

 いや否定出来てねぇよ、完全にばらしちゃってるよ。

「なにこれ……あり得ない……」

「せっかく見直したのに失礼な奴だなお前! どうせ釣り合ってねぇよ!」


 なに小声で開き直ってんだよ、そうだけどそうじゃねぇよ、釣り合いとかじゃねぇってのもそうだけどわたしがいま辛いのはそこじゃねぇんだよ。

 ブラコン気味に甘やかしまくるお姉ちゃんにこじらせちゃってる弟って、性別入れ替えたらそれうちとほとんど一緒じゃねぇかよ。なにこのいやな相似形。そんな偶然はいらねぇ。


 ぐったり潰れたまま、わたしは視線だけを上に向ける。

「ねぇ弟くん、現実とエロゲは違うんだよ……」

 こんなん言わねぇよっつーか言えねぇよ。「ねぇねぇ今日子さん、実の弟に恋されるのってどんな気持ちですか? 参考にしたいから教えてください、てへっ」とか図々しい後輩っぽく相談でもしろっつーのかよ。考えただけで死にたくなるわ。


「なんてこと言うんだよ! まさかお前もやってんのか!?」

 やってるわけねぇだろバカ。ゲーム自体わたし自身はほとんどやらんのだ。あと『も』ってなんだよわたしはゆるオタつってんだろ。


 もっさり首を横に振ってから、今日子さんのために釘を刺しておくことにする。なんかこの勘違いコミュ障だと、うっかりやらかしかねない気がするんだよな。

「姉ものとか今日子さんにやらせても姉弟の溝が深まるだけだからね?」

「姉ものはさすがにねぇから! そんぐらいおれだってわかるわ!」

「え……やってんだあんた……エロゲ……」


 男子ってやつはまったくどうしてこう、とため息にいろいろな思いを混ぜつつ吐き出すと、弟くんがぼそっと言う。

「しょうがねぇだろ、姉ちゃんもやってんだから」

「はああああああああああああああ!!?」

 バネ仕掛けみたいにわたしは跳ね起きた。いまの聞き間違いじゃないよね!?


 パーティション付近がまたちょっとざわめいた気もするけど、あまりの衝撃発言にそんなのとても気にしてられない。今日子さん? ねぇ今日子さん?

「お前! 声! でかい! 誰にも言うなって言われてんだから!」

「じゃ言うなし! むしろ聞きたくなかったし!」

 口軽いなあんた! あとさっきのでもかなり頑張って抑えたんだよ! わたしの心の叫びはこんなもんじゃねぇわ!


「まじか……姉弟で仲良くエロゲとか……現実はエロゲだったのか……」

 信じられん。信じたくないけど嘘を言ってるようには見えない。こいつが真性のあれで妄想を垂れ流してるのでなければ、それが事実なんだろう。

 今日子さん、さっきのは撤回します。残念ながらあなたの教育は間違ってます。こいつにはふさわしいやり方だったかもしれないけど間違ってます。


「一緒にはやってねぇよ! あ、そうだお前、ひとつ勘違いしてんぞ」

 なんだ、一緒にではないんだ。良かった、いや良くないけど良かった。

「なにを? 言っとくけどいまさらシスコン隠しても無駄だからね?」

「そっちじゃねぇ! くっそ、なんでばれたんだ……」

「なんでもなにも。見たまんまじゃん。で?」


 ってこれ、今日子さん気づかないのかね。……気づいてないか。もし気づいてるなら、もうちょっと扱い方だって考えるよな。モテるわけじゃないとか言っちゃってたし、あれで自分に向けられる視線には鈍いのかも。


 いいから絶対言うなよな、とわたしにまた念を押してから弟くんは続けた。

「とにかくそっちの話じゃなくて。昨日お前さ、姉ちゃんのことゆるオタとか言ってただろ? しかもなぜかそのあとキレ始めるし」

「なぜかじゃないよ、あんたがひとの趣味バカにしたからでしょ」


 ここでそれ蒸し返すの? せっかく謝ったのに……話の流れ変えたいのかもしれないけど、もっと違う話題は考えらんないのかね。

 まぁ下手くそなやり方ではあっても、冷静になれたのは否めないか……

「してねぇよ、つーかお前なんでそうやってすぐ早とちりしてキレんの?」

 と思ってたら、どうもわたしが構えた展開とは違うらしい。


「だからキレてないし。じゃなんだっていうの……あれ?」

 まさか。あれはほんとにわたしの勘違い?

「ひょっとして今日子さんてガチ勢?」

「そうだよ。女でエロゲーマーがゆるオタのわけねぇだろうが」

「だって聞いてねぇしそんなの!」


 確かにラノベトークのときもやたら詳しくて、バトルものに学園ラブコメは言うに及ばず、ネット小説の異世界ハーレムチート無双から乙女ゲー転生ものまで網羅してたけど! ガチ勢一般にありがちなゴリ推し布教や議論という名の嫌いな作品全力ディスとかもしてこないし、あのルックスと物腰な上にあんな最高に似合うネコ耳メイド見せることすらいやがってたのにそっち側とか思うかよ!


 そうか、そうだったか……。アイリこれ知ってんのかな……。

「そのあげく兄貴呼ばれて追い出されたんだぜ? なんなんだよお前ら」

「ごめん。ほんとに。それ全面的にわたしが悪い」

 呼んでないけどな。呼ばれてないのにじゃじゃじゃじゃーんとか虫かよあいつ。


「つーかあの兄貴もキレすぎじゃね? あいつこそシスコンじゃねぇの?」

「そうなんだよね。あんたみたいにこじらせてはいないけど」

 いまさら隠すことでもないと思って素直に言うと、弟くんはなにか考え込むように黙った。わたしもそこで言葉を切り、お互いほとんど手つかずだったお茶とお菓子を口に運ぶ。


 やがて先にケーキを食べ終えた弟くんが、不思議と落ち着いた口調で言う。

「……そう言えば、お前らもぜんぜん似てなかったよな」

 そこも相似だったな。いい加減これも言われ慣れてきたわ。

「まぁね。でもあんたのとこほどじゃないよ」


「……なぁ」

 わたしも落ち着いてきて、あとで今日子さんに会ったらなにをどうツッコもう、とか考える余裕が戻ってる。

「なに?」

「さっき、家のなか昔いろいろあったって言ってたよな。もしかして」


 だからこそ余計に、そのあとのセリフは効いた。もうこれ以上びっくりすることなんてないと思ってたのに、弟くんのシスコンも、今日子さんのエロゲもどうでもよくなるほどに。


「お前らも義理の兄妹だったりすんの?」

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