★5★ ある奴隷の初恋。
奴隷商の男は頭を抱えていた。元から決して良くはない頭だが、それでも抱えていれば多少は妙案でも浮かぶかと思い、男は頭を抱えていた。何についてか。当然売り物についてである。
その売り物は……いや、まだ売り物とも呼べないそれは、奴隷商がどれだけ蹴り上げても、鞭で叩いても一歩も動こうとしなかった。もうすぐこいつを客の前に連れていって競りを始める時間だというのにだ。
足元で蹲るガタイだけが取り柄の木偶は、先の国境の小競り合いで捉えられた蛮族の一人で、ここにくるまで抵抗しないよう、毎日散々に痛めつけて尊厳を奪った甲斐もあり、暴れることはしなくなったものの、自分で立ち上がることもないウスノロに成り果ててしまった。
奴隷として主人の命令を聞けるよう最低限の語学も学ばせた。このままでは仕入れ値の方が高くついてしまう。そのことに苛立ち、無駄と知りつつ再び巌のような背中を蹴りつけようとしたその時――。
『ねぇ、そこの貴方。その足蹴にしている男は売り物なの?』
フードで顔を隠していても、声だけでそれと分かるほど美しい女だった。そんな女の目に、無抵抗な奴隷を蹴りつけようとしている自分がどう映るのか。
柄にもなくそんなことを考えた奴隷商の男は、蹴りを放とうとしていた足を地面につけ、彼女に向かって『いえ、お嬢さん。こいつは売り物にもならないような見掛け倒しの木偶でして。うちには他にもっと良いのがおりますよ』と愛想笑いを浮かべて言った。
けれど女は小首を傾げて『そう、でも構わないわ。売って頂戴。荷物持ちが欲しいの』と答えた。しかし荷物持ちが欲しいと言う彼女のその細い手首には、小さな紙袋が一つぶら下がっているだけである。
だが紙袋に捺された店の名前は、現在男が持つ奴隷を全員買ったとしても、お釣りが出るような高級店のものだ。
〝これはもしかすると、とんだ加虐趣味のある金持ちの娘では?〟と思った奴隷商は、周囲の気配を探った――が、人気の少ないこの薄暗い路地裏にいるのは、自分達の気配だけだと気付く。
そこでふと、男の心に魔が差した。世間知らずなのか護衛も連れていない、しかもとびきり美しいだろうと想像がつく若い娘。足元にいるのはガタイは良いが無気力で、背中に刃を突き立てても反応しなさそうな奴隷。
ゆらりと無言で奴隷から離れ、自身の方へと歩み寄る奴隷商の男を見て、彼女はローブを脱ぎ去ると口を開いた。
『私をどうにかしようと思わないことね。邪な気持ちで指一本触れてご覧なさい。貴方の身体はバラバラになるわ。この首飾りが何か分かるかしら?』
妖しい笑いを含んだ声音の、この世のものと思えない美貌の女。その彼女が白く細い指先で差すのは、レース編みの如く華奢でありながらも、溜息が溢れる華やかなデザインをした金の首飾り。
それを見て奴隷商の男は彼女に歩み寄る足を止めた。この国でこうした首飾りをつけるのは、何も貴族の奥方や子女だけではない。というよりも、彼女の首を飾り立てるものは、下手をすればそれ以上の代物だ。
この首飾りを一部の女性達は〝見栄えの良い首輪〟と嘲る。与えられるのが上級貴族の公妾や、それに準ずる地位にある高級娼館の娼婦だからだ。女達が出かける前に店側がこれを纏わせるのは、下心を覚える馬鹿共への慈悲でもある。
もし仮にここでこの女を上手く攫えたところで、すぐに追手がかかるだろう。恐らく地の果てまでも。
男の膝が震えるのを見た彼女の美しい双眸が細められ、歌うように『ねぇ、売ってくださるわよね?』と囀れば、奴隷商の男はもう彼女から紙袋を受け取り、この場から足早に逃げるしかなかった。
据えた匂いの路地裏に残されたのは、物好きな高級娼婦の女と、使い物にならない奴隷だけだ。彼女は服の裾が汚れることも構わず奴隷の前にしゃがみ込み、天気のことを語るくらい気負いなく、傷だらけの奴隷に向かって言った。
『ねぇ、お前に持たせる荷物が失くなってしまったから、店まで私の護衛をしてくれる?』
そう、少しの嘲りも含まない朗らかな声音で。彼女の声で奴隷は無言のままのそりと立ち上がり、彼女もするりと流れる仕草で立ち上がる。どちらも自由であって、自由でない。見栄えの良い首輪が白い肌に眩しいほどに輝くのを、伸び切った前髪の隙間から奴隷は眺めた。
当然奴隷は彼女の店の場所など知る由もない。ただ彼女に導かれるままに、一言も言葉を交わすことなく、娼館が立ち並ぶ中でもかなり立派な館の裏口に辿り着いてしまった。
彼女は『送ってくれてありがとう。報酬を持ってくるからここで少し待っていて頂戴』と言い残し、裏口から館の中に消える。時折不躾に眺めてくる通行人の視線に耐えて待つこと少し。
『はい。お前のお陰でおかしな連中に声をかけられないで済んだわ。それからちょっとおつかいも頼まれてほしいの。あの坂の上にある石造りの建物が見えるでしょう? あそこまでこの封筒を届けて頂戴。それじゃ、よろしくね』
言いたいことだけ言い終わると、彼女は奴隷に興味を失ったようで、一度も振り返ることなく館の中へと消えていった。
奴隷は謝礼の入った麻袋を懐にしまい込み、上質な紙を使った封筒を手に、律儀にも指示された石造りの建物までそれを届けたのだが、封筒を届けたそこは、平民出身者の多くいる下級騎士達の宿舎で。
訓練を終えて宿舎に戻る途中だった騎士の一人に封筒を渡すと、封筒は慌ただしく誰かの下へ持っていかれ、何故か老練な騎士がそれを手に『あの店からの推薦状とは珍しいが、確かに鍛えがいがありそうだ。良かろう。うちに来なさい』と言って、素性の知れない奴隷を招き入れた。
氏族を失い、戦士としての誇りを粉々に砕かれ、捕虜として尊厳のない死を迎えるのだろうと思っていた奴隷は、数年後、この国で誰も敵わない騎士となり、一人の娼婦を求めて店に通い詰めることになる。