7-2 戦場に舞い降りた「女神」
二 戦場に舞い降りた「女神」
神聖騎士団、宣教第九大隊——。
その名称を耳にした途端、シルヴァノスは歯を食いしばり、じっと一点を見つめてわなわなと震え、汗ばむ手で剣の柄を思いきり握りしめた。
「宣教第九大隊……? あの野郎、『コップフェリアの悪夢』の生き残り……か?」
ごくりと生唾を飲み込んだシルヴァノスが、深刻な顔で思わず口走る。
その著しい変化に気がついた部下のひとりが、ボスの気分を害さないよう慎重に、おそるおそる尋ねてきた。
「兄貴……。なんスか? その『コップフェリアの悪夢』って……」
その言葉でふと現実に戻ったシルヴァノスは、その場にいる部下たちの視線が自分に集中していることに初めて気がついた。
そして無意識に口走っていたことを悟ったシルヴァノスは、自分の浅慮さに閉口しながらも、面倒くさそうにボリボリと頭を掻いた。
「なんだ、てめえら。知らねえのか? なら仕方がねえ、教えてやる」
部下たちを見回してボソボソと言ったシルヴァノスは、マルキオンとの会話を続けるイズキールの方に視線を移しながら、話しはじめた。
「この島の西海岸に、コップフェリアっていう村があってよ。多神教徒の村だったんだが、ある日、一神教の教祖の誕生日を期して、いっせいに一神教に改宗すると村の長老どもが宣言しやがったんだ。今からおよそ、一年前のことだ」
伝え聞いた話ではあるのだろうが、多神教徒であるシルヴァノスは当然、多神教徒の側で話を進めていく。
聞き耳を立てる部下たちも全員が多神教徒らしく、彼らは神妙な顔でうなずいた。
「これにはさすがに、多神教を国教にしている帝国が黙っていなかったな。一応外国だから知らん顔だったが、一方ではなりふり構わず工作員を突っこんで、周辺の村々から狂信的な連中を集めて武器を与え、躍起になってつぎ込んだのさ」
「それに対し、住民を守るという名目で公都から派遣されたのが、神聖騎士団の宣教第九大隊だった……というわけですね。兄貴」
シルヴァノスの述懐に対し、長い斧槍を杖代わりに立てていた最年少の部下が、絶妙な合いの手を入れた。出し抜かれた先輩たちがつい顔を見合わせるほどの絶妙さだった。
思わぬ合いの手に、つい失笑を洩らしながらも、シルヴァノスはさらに話を続ける。
「そうだ。そしてこれが、お互い大失敗だったのさ。刃物を持った連中が敵味方に分かれて、同じ土地で睨み合う。これがどういう結果になるか……。てめえらにもわかるな?」
そう問いかけられた部下たちは、誰もが緊張の面持ちで生唾を飲み込んだ。答えるまでもなく、結果は火を見るより明らかだった。
だが、問いかけられた以上は回答しなければならない。部下のひとりが口を開いた。
「こ、殺し合い……ッスか?」
「まあ、そうだな。何かにキレた多神教徒を、騎士の誰かが斬ったのがきっかけさ。村は血の海になって、両方の死体がごろごろ転がったそうだ。そりゃあ身の毛もよだつような、地獄がこの世に現れたようだったという話だ」
「…………(ゴクリ)」
部下たちは額に汗を浮かべ、一様に固唾を呑んだ。恐怖のせいか、喉がカラカラである。
そして、そんな地獄のような戦場から生還した者が、すぐそこにいる。彼らにとってのイズキールが途端に、得体の知れない怪物に変化した。
それはどれほどの怪物なのだろうか。恐いが、見てみたいような気もする。
そう思った三人が揃っておそるおそる振り向き、怪物の方に視線を移そうとしたとき……。
「コホン。なるほど……」
怪物はすでに彼らの背後で、苦笑しながら立っていたのである。
「うわッ! で、出たぁ!」
部下たちが腰を抜かすほどびっくり仰天したのも無理はない。白銀の鎧をまとった怪物が、いつの間にかすぐ後ろに立っていたのだから。
彼らの反応を受けたイズキールは複雑そうな表情を浮かべながらも、その向こうのシルヴァノスを見つめ、落ち着いた口調で言った。
「コップフェリア村の一件は、多神教徒の側では『悪夢』と呼ばれているのですね。初耳でした」
ただひとり、イズキールの動きを先刻から見ていたシルヴァノスだけが、彼の言葉を耳にするとニヤリと右の口角を上げた。
「まァ、そりゃあな……。あれほど犠牲を出したのに結局、村が一神教に乗り換えるのを防げなかった。多神教の側にすれば、『悪夢』以外の何物でもねえよな」
みずからも多神教徒でありながら、まるで他人事のような口調でそう言い捨てたシルヴァノスは、粗末な鉄かぶとをかぶり直すと、面倒くさそうな顔で首をひねった。コキリ、と乾いた音が響く。
それを見たイズキールも、持っていた仕込み杖の持ち手に手をかけた。
再び身構えたイズキールと、シルヴァノスら四人の男たちが対峙する。ここは路地が少し広くなったに過ぎない、ごく狭い空間である。
燃えはじめた家屋から発せられる、強烈な熱気が伝わってくる。異臭をともなった煙も海からの湿った潮風に乗って、彼らめがけて容赦なく吹きつけてきた。
「…………」
イズキールは純白のマントを熱風にはためかせ、腰を落として重心を低く保ち、相手の出方をじっくり構えて待つ。
それに対し、シルヴァノスは腰に手を当てたまま悠然と構えている。何を考えているのか、薄笑いを浮かべている。剣の柄に手を伸ばそうともしない。
二人はその状態でしばらく睨み合っていたが、やがてシルヴァノスは顔をイズキールの方に向けたままで右手を伸ばし、後方にいる部下のひとりに対して大声で呼びかけた。
「おい! てめえが持っている斧槍、俺によこせ!」
「……は、はい!」
声をかけられたのは、先ほど絶妙な合いの手を入れていた最年少の部下だった。
斧槍を要求された彼は突然の命令に驚いたが、すぐにその意味を理解してうなずくと、少し離れた位置から迷うことなく斧槍を投げ渡してきた。
「よし! 見てろよ? こいつを持った俺は、ひと味違うぜ!」
やや回転がつけられてはいたが、投げ渡された斧槍を右手だけでしっかりと受け取ったシルヴァノスは、やや広くなった場所であることをいいことに、斧槍の中央を持つと、頭上でヒュンヒュンと回転させはじめた。得意げな表情である。
風を切るようなその勢いを見た部下たちが、狭い空間の中でいっせいに飛びのく。
(長柄の武器を、持ち出してきましたか……)
右手に持った仕込み杖を構えなおしたイズキールは無言で考えながら、ずれたメガネの位置を左手で修正した。
そして頭上での回転を終え、斧槍の穂先を自分に向けてきたシルヴァノスの得意げな顔を、じっと注視する。
(この杖では、懐に飛び込めませんね……。さて、どうしたものか)
メガネに覆われたイズキールの褐藻色の瞳が、鋭く輝く。
形勢は不利。だがそれでも、瞳の色は透徹している。冷静さは失っていない。
斧槍はその名のとおり、穂先の側面に、鋭利な斧がつけられた槍のことである。
突くだけでなく斬撃も可能な斧槍は、当時、多様な戦い方ができる武器として普及しはじめていた。野戦では実際に、馬上の騎士を討ち取るという戦果を挙げていた。
「どうだ、この迫力に恐れをなしたか? ニケフォルス隊長から、みっちり鍛えられたからな」
そう告げたシルヴァノスは、イズキールに向けた斧槍の穂先をすばやく上下に動かした。相手の視覚を攪乱しようとする常套手段である。
「そうら……。それじゃ、俺の方から行くぜ!」
その構えのまま勢いよく足を踏み出すと、シルヴァノスは激しい突きを繰り出してきた。
直後、イズキールは身体を斜め前方に滑らせ、槍の穂先と斧を皮一枚でかわした。
それと同時に仕込み杖から白刃を引き抜くと、激しい金属音と火花を残し、斧槍による突きを果敢に打ち返した。
「——隙あり、です」
繰り出された突きを受け流し、呟いたイズキールは、仕込み杖を握り直すが早いか、滑らせた身体を即座に攻撃態勢へと移行させる。
渾身の突きを受け流すことができれば、シルヴァノスの脇腹は隙だらけとなる。ここに斬撃を加えれば、容易に勝負がつくだろう。
だがその瞬間——。イズキールの耳には、シルヴァノスの不敵な声が入ってきた。
「へっ。それは……どうかなァ?」
次の刹那。イズキールの目に映ったのは、目前に迫ってくる斧槍の柄だった。
シルヴァノスは突きを繰り出した直後に斧槍を回転させ、懐に入ろうとしたイズキールに対し、斧槍尾部の石突きによる一撃を見舞ってきたのである。
「……くっ!」
イズキールはすぐに刃部を縦向きにし、左手で支えると、柄による打撃を正面から受け止めた。再び激しい金属音が鳴り響き、鮮烈な火花が散る。
斧槍はすべてが金属製であった。その打撃には、容易に肉体を引き裂くほどの威力がある。
斧槍による打撃をすんでのところで受け止めたイズキールだったが、その威力はすさまじく、受け流すことができずに後方へ飛びのいた。
このまま金属による打撃をまともに受け続ければ、非力な仕込み杖は耐えきれないかもしれない。イズキールは冷静にそう判断し、間合いをとったのである。
「……なかなか、やりますね」
「はっ、当然だ。俺を誰だと思っていやがる。威力斥候に選ばれるくらいの使い手だぜ?」
斧槍を右肩に担ぎ、胸を反らせたシルヴァノスは自慢げにうそぶいた。彼自身、斧槍の扱いなら誰にも負けないという矜持があるらしい。
「ちょっと予定は狂ったけどよ、幸いなことに、ここは戦場だ。てめえを殺った後でゆっくり、マルキオンの野郎も『敵にやられたことにして』料理してやる」
「そんなこと……。わが主に誓って、わたしがさせません」
「へっ。勇ましい文句をほざくなら、その心細い武器で俺に勝ってからにするんだな」
シルヴァノスは嗜虐的な笑みを浮かべると、再び斧槍を構え、槍の穂先をイズキールに向けてきた。鋭利な槍と斧の研ぎすまされた刃に、炎の色が赤く反射する。
背後にいるマルキオンたちはもちろん、シルヴァノスの部下たちも固唾を呑んで、この勝負のゆくえを見守っていた。緊張感に満ちた空気が周囲に満ちる。
「…………」
ところがイズキールは何を思ったか、いきなり仕込み杖の刃部を逆さにしたかと思うと、しっかりと鞘へ戻した。
そしてポケットの中を探り、薄紫色の透明な石がついた金の鎖のネックレスを取り出し、元に戻した仕込み杖にそれを巻きつけたのである。
「……少し早いのですが、これもわたしの未熟さですね」
いぶかしげに眉根を寄せたシルヴァノスを筆頭に、突如として始まったイズキールの不可解な行動を、誰もが奇異の目で見つめてきた。
彼は一神教の聖職者である。何かの儀式を始めるのではないかという好奇心もあった。
刺すような視線が集中する。だがイズキールは、そんなことを気にする気配もない。
やがて準備を終えたイズキールは、おもむろに、右の耳に下げた紫色の耳飾りに手を触れた。
「——聞こえますか? メル。予定どおり、あなたの杖と交換です」
落ち着いた口調のイズキールが、何もない空間に向けてそう言った、次の瞬間——。
彼の右手に包まれた紫色の耳飾りが、ぽっと光を放った。その光はランプに火が灯るかのような、おぼろげなものだった。
だが、不思議な現象は、それで終わりではなかった。
光が現れてからしばらく経つと、今度はどこからともなく、くぐもった感じの人の声が聞こえてきたのである。
『…………こえ、ますわ……。イズキー……ル様』
聞こえてきたのは、どうやら少女の声らしい。
この展開を予想していなかった周囲の男たちはキョロキョロと周囲を探し、不思議さのあまり互いの顔を見合わせるしかなかった。
「女の声、だと……? いったい、どこから……?」
突然起こった不思議な現象に、シルヴァノスの頭は混乱した。その間にも、くぐもって途切れがちだった少女の声が、どんどん鮮明になっていく。
『では……わたくし、同時に……空に、投げ上げて……ださい。行きますわよ』
どこからともなく聞こえてくる声は、イズキールに対して何らかの指示をしたらしい。
イズキールはその指示にうなずくと、ネックレスが巻きついた仕込み杖を、天高く垂直に投げ上げた。
『——智と霊気を司る精霊よ、汝らの力をもって、我らを隔てる境界に繋索を成したまえ』
イズキールが仕込み杖を投げ上げると同時に、少女の澄みきった詠唱がはっきりと淀みなく、清冽な涼風が吹くかのように裏路地に響きわたる。
上空に投げ上げられた仕込み杖と、そこに巻きつけられたネックレスが、流れる詠唱に翻弄されるかのように回転し、炎の光を受けて空中で赤く染まる。次の瞬間——。
「うわッ! ま、眩しっ……!」
何の前ぶれもなく、薄紫色の石から強烈な閃光がほとばしり出た。その場にいた傭兵の誰かが、驚いて悲鳴をあげる。
天に浮かぶ月よりもはるかに明るい輝きが空中に発生し、その光が赤黒く染まっていた路地をありありと照らし出す。
その光は数秒もの間、消えることなく家々の壁や石畳を照らし続けた。
『「空の境界を突き通す氷の針」——。どうやら、交換成功……のようですわね』
強烈な輝きがまだ消えないうちに、術者の少女——メルの魔法名解放と安堵の声が、嬉しそうな感情をともなって路地に響いた。
その声に対し、イズキールが普段どおりに会話するかのように応答する。
「いつもながら見事な手際です、メル……。術式の行使を、誰にも見られていませんね?」
『ご心配なく。これは魔術ではなく、あくまで魔具の行使ですもの』
やがて、激しい閃光が急速に収束していった。それなのに、これほどの超自然的現象を引き起こしたイズキールとメルが、平常どおりに会話を交わしている。
「くそ……。いったい、何が……?」
目くらましを受けたシルヴァノスがようやく視力を回復させ、悪態をつきながらイズキールの姿を見たとき、先ほどまでとは違う武器が、彼の右手に握られていることに気がついた。
剣身が短い仕込み杖はどこかに消え、代わりに若干の反りをともなった、すらりとした長剣になっていたのである。
「小娘、てめえも魔術師なのか……? あの仕込み杖に、何をしやがったんだ……?」
いまだ状況が飲み込めない傭兵たちが多い中、一連の出来事が魔術的なものであることを理解したシルヴァノスは、姿が見えない相手であるメルに対して問いかけた。
イズキール以外の人間から思いがけない問いを受けたメルは、いったん言葉を切った。だがもともと真面目な性格であるメルは、質問を受けたら答えざるを得ないらしい。
『……小娘という失礼な呼び方は、許してあげます。そしてわたくしは、魔術師ではなく魔術研究家です。いまイズキール様に、本来の武器をお渡ししましたの』
「なに……? 仕込み杖は、坊さんの本当の武器じゃなかったってことか……?」
『当たり前ですわ。いやしくも神聖騎士の佩剣が、旅人用の仕込み杖であるわけがありません。由緒正しき、聖別された名剣です』
自分のことではないにもかかわらず誇らしげなメルが、鼻息を荒くして答える。
だがその声は、全身に嫌な汗をかきながら眼を剥き、イズキールを見すえるシルヴァノスの耳にはもう届いていなかった。
「神聖騎士……! くそったれが。こうなりゃ、全力で殺るしかねえ」
武器の優位を半分失ったことを知ったシルヴァノスは、手のひらの汗を服でぬぐうと、あらためて斧槍を握り直した。
その一方で部下たちに目配せをし、うなずき合って次の行動を示し合わせる。
その行動を知ってか知らずか、鞘に巻きついていたネックレスを慎重に取り外したイズキールは、それを大事そうにポケットに入れた。
「しかし……、メル。このわたしの剣……」
ネックレスをポケットに入れた後、外されていた剣帯と佩環をつないで剣を腰に帯びたイズキールだったが、剣の変化を目ざとく察知し、落ち着いた口調で尋ねた。
「鞘が、新しいものに変わっていますね……?」
聖剣「正義なる裁きの女神」の鞘は当初のものがすでに失われており、褐色の代用品を使っていたはずだった。
それなのに現在イズキールの手にある剣の鞘は、柄の部分の色により近い、乳白色の高級品に変わっている。イズキールはそれを見いだしたのである。
『イズキール様が出て行かれてから、第十七区のギルド長であるピウスおじいさまが武器庫を探して、ちょうどいい感じの鞘を見つけて、あつらえ直してくださいましたの』
「なるほど、ピウス殿が……」
『座長さんも、これなら聖なる剣にふさわしいと、喜んでくださいましたわ』
メルも嬉しそうである。装飾などは剣とまったく合っておらず、制作年代も違っていたが、それでも剣の鍔の部分は手直しされ、ぴったり合うように調整してある。
短時間でこの手直しを実現させたピウスの技術に、イズキールは素直に舌を巻いた。
一方、このやり取りを背後で聞いていたマルキオンは、別の驚きとともにイズキールの後ろ姿を見つめていた。そしてどこか落胆したような口調で、言葉を投げかけてきた。
「司祭イズキール、お前はやはり、第十七区……リーヴェンスからの回し者だったのか。丸腰で帝国軍から隠れていたというのは、偽りだったのか……?」
「…………」
イズキールはその問いを受けても、振り向こうとしない。無言のままでいる。
だがマルキオンはなおも語気を強め、みずからの剣に手をかけながら詰問を続けた。
「見損なったぞ。お前は聖職者という身分でありながら、世界の富を独占し、破壊と戦乱を振りまく死の商人どもの、手助けをしていることになるのだぞ。それが、わかっているのか……?」
リーヴェンスに侵攻軍を派遣した帝国は、その行動を正当化するため、この都市の商人は腐敗の極みにあり、世界の富を独占し不和を助長しているという宣伝を国内外で行っている。それはイズキールも、道中で何度も耳にしていた。
「…………」
だがそれでも、イズキールは無言のまま答えようとしない。ただシルヴァノスの方を見すえ、構えもとらず直立するのみである。
部下とともにそれを正面から見ていたシルヴァノスは、底意地の悪い笑みを浮かべると、あらためて斧槍を構え、小刻みに動かしながらイズキールを揶揄した。
「へっ。商人どもにカネをもらって、生活のために用心棒をやっているに決まっているさ。大義は俺たちにある。『ヒューリアック解放戦線』は、義においてこのクソ坊主を討つ!」
そう叫ぶなり、シルヴァノスは左手を大きく振って、部下たちに散開を命じた。
ボスの意を受けた部下たちは、片手剣や棍棒、ナイフなどを持ってすばやく横に広がり、半円形となってイズキールの前に立ちはだかる。
背後ではマルキオンとその部下も剣を抜き、イズキールを完全に包囲する陣形となった。
『ちょっと、あなたたち! 何を勝手な論理を……! イズキール様はですね……!』
音声だけで、この場の険悪な雰囲気を察したのか、メルが思わず声を上げる。
だが、メルがすべてを言い終えないうちに、イズキールは静かな口調でさえぎった。
「いいのです、メル。神の名による正義は、わたしたちのものだけとは限りませんから」
メルにだけ聞こえるよう耳飾りに向け、呟くような口調でそう言ったイズキールは、純白のマントを右腕で、ばさっと派手に払った。
ついで左腰に装着した剣の鞘を左手で持ち、柄に右手をやりつつ、つかむ寸前で手を止める。イズキールはその姿勢のまま、ぼそりと言った。
「わたしの思いについては、諸兄らのご想像にお任せいたします。しかし——マルキオン様、ひとつだけ、よろしいでしょうか」
イズキールは剣の柄に手を添えただけの、構えの姿勢をとったまま。少しも隙がない。
そして背後で剣を構えるマルキオンに対してのみ、振り向きもせずにこう問いかけた。
「あなたは先ほど、ご実家が治める領地に住む無辜の民に、危害を加えられたことにお怒りでしたね? それはなぜですか?」
「聞くまでもないだろう。俺の領民の平穏な暮らしを奪うことなど、断じて許せんからだ」
「なるほど——。このリーヴェンス『第十七区』に暮らす人々も、戦禍から逃れて住みついた無辜の住民です。あなたは、彼らには危害を加えても構わないと、なぜお考えなのでしょうか?」
「そ、それは……」
「誰にでも、平穏な暮らしを送る権利があるはずです。自分の側のみ守り、相手にはそれを認めない——。その不公平は、わが主の思し召しに沿いません。だからわたしは、立ったのです」
プライドは高いものの根が純粋なマルキオンは、イズキールの思いに反論しようとしたものの、そのまま黙ってしまった。帝国が宣伝する論理の弱さを悟ったのだった。
しかしシルヴァノスの方ではもはや、そんな善悪の思考すら停止していた。挑発的な口調を弄して、なおもイズキールを煽ってくる。
「はァ? てめえ、何言ってやがる。依頼主の帝国が潰せと言うなら、潰すのが俺たち傭兵の仕事なんだ! きれい事でやっていけるほど、戦争は甘くねえんだよ!」
「……残念です。世に聞こえた『ヒューリアック解放戦線』の名も、地に堕ちましたね」
「何だとコラぁ! 俺たちの隊を侮辱するのか! 殺すぞてめえ!」
罵詈雑言を受けても、遺憾だと言わんばかりに目を閉じ、首を振ったイズキールは、ここで初めて剣の柄を右手につかんだ。そして小さな声で、剣に向け語りかけた。
「聖なる剣よ。我が前に、汝の真の力を示せ」
イズキールが短く、そう唱えた瞬間——。
優美な反りをもつ片手剣が、彼の左腰でおぼろげに光を帯びはじめた。
発生した光は乳白色の鞘をも通し、赤黒く薄暗い路地でもくっきりと、やや反った剣の形を闇に浮かび上がらせていく。
「『正義なる裁きの女神』——始動せよ」
そして剣の名前を呼んだイズキールは、同時に右手を引き、鍔と鞘の口をわずかに切った。
その途端、少し露わになった剣身から、眩しいほどに強烈な光が一気にあふれ出る。
「またあの光か……ちくしょう! 行くぞ、てめえら! 一気に畳みかけるッ!」
「おっ……おおッ!」
得体の知れない光に脅威を感じたシルヴァノスは斧槍を握りしめ、一歩を踏み出すやいなや部下たちに襲撃を命じた。部下たちもそれに応じ、いっせいに武器を振り上げる。
動き出す前のイズキールを袋だたきにし、一挙に決着をつけてしまおうというのである。
「聖剣技・第三——」
そのとき。イズキールの口から、静かで抑制的な声が漏れ出した。
だがその静かな声は、引きつづいて飛び出した、裂帛の気合にかき消された。
「剣よ、唸れ! 『疾風迅雷』!」
光る剣身をすべて露わにしたイズキールが、一歩を踏み出した瞬間——。
少しばかりの砂塵が地面に残ったかと思うと、その場からイズキールの姿が見えなくなった。
「き、消えた——!」
驚愕したシルヴァノスが斧槍を引き、とっさに防御の姿勢に移りながら悲鳴のような声を絞り出したとき、彼の眼前で、光の白い帯が凄まじい速さで展開した。
次の瞬間、つむじ風のような衝撃波が発生し、空気の塊のようなものが身を縮ませたシルヴァノスの肉体に当たる。そして彼の全身をもてあそびつつ、稲妻のように通り抜けた。
「う……。あ……?」
想像を絶するような体験をした数秒後、シルヴァノスが防御の姿勢をとったままでそっと目を開けると、彼は自分の足元に、棒状の何かが二本、転がっていることに気がついた。
目をこらしてよく見ると、それは鋭利な刃物で切断された斧槍の上半分だった。しかも、落ちている部分も二本になっている。斧槍は二度、きれいに切断されていた。
「ばっ、バカな! ぜんぶ鉄で作られた、帝国製の斧槍をッ……!」
斧槍の下半分をなげうち、驚きのあまり絶叫するシルヴァノスの向こうでは、巻き起こる砂塵が晴れていく中、彼の部下たちが尻もちをついている。
部下たちも何が起こったのか理解できないような顔つきだったが、誰もが切断された武器の下半分を力なく持っている。鉄かぶとを両断された者もいた。
「こ、この、怪物がッ——!」
いまいましげに叫んだシルヴァノスは、自分の腰に帯びている剣の柄に手をかけ、どこかに姿を消したイズキールを探し求めようとした。
だが、シルヴァノスはその矢先、動きを停止した。
淡い白色に光る剣の切っ先が、いつの間にか自分の眉間に突きつけられていたのである。
「くっ……。ちくしょう」
「——勝負、ありましたね」
うなだれるシルヴァノスの眼前に立ち、切っ先を突きつけているのはイズキールだった。あれほどの動きを見せながら、イズキールの息はまったく乱れていない。そればかりか微笑すら浮かべている。
剣身には特別な力でも宿っているのか、鉄製の装備品を何度も切断したにもかかわらず、刃こぼれひとつ見られない。反撃もなく、その証拠に鎧はまったくの無傷であった。
「……さあ、本部に帰って、この状況を上官に復命してください」
徐々に光が薄れていく剣身を鞘におさめたイズキールは、しゃがみ込んだシルヴァノスを起き上がらせようと、笑顔で手を差しのべようとした、その時——。
「いいや、その必要はないッスよ。下手こきましたねえ……。シルヴァノス先輩?」
路地を構成する建物の向こうから、ほがらかな若い男性の声が伝わってきた。
それとともに鼻息を噴き出す馬の声と、停止する馬のひづめの音がする。さらに十数名のものと思われる、大勢の人間の気配が伝わってきた。
シルヴァノスの顔が、一瞬で引きつった。それを見たイズキールは、一度おさめた剣の鞘を左手で握り、斜に構えると、その姿勢のままで相手の登場を待つ。
やがて、細い路地を通って、馬に乗った状態の若い騎士が従者も連れず、一騎で姿を現した。
「俺は『ヒューリアック解放戦線』で副隊長をやってる、キュリロスっていう者ッス。あの嫌な予感のもとは、どうやら、あんただったようッスね」