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森に住む化け物。
砂と土しかない痩せた土地に追いやられた人間たち。
今ここでは、生き残りをかけた戦いが繰り広げられている。
豊富な資源が沢山あるぬ森に突然現れた化け物は、次々に人間へと牙を向き襲いかかってきた。
人間は無抵抗のままただ血まみれになっていった。突然現れた化け物に恐れおののき何もできない。男も女も子どももお年寄りも。いつもと変わらない日々は血の雨へと変わった。
化け物が男を大きな手で掴む。掴まえられた男は青くなった顔で震えながら、抜け出そうと手足をばたばたと動かした。しかしそこから抜け出すことはできなかった。
化け物は手のなかでばたばたしている人間をじっと見ている。その目は男からすればとても恐ろしく見えただろう。俺を食べるためにこっちを見ている、もう終わりだこの命はここで終わるんだ、ああ神様俺には守らなければならない大切な家族がいるんです。
男は心の中で嘆く。その嘆きは誰にも届かない。化け物にはそんな怯えなんて別に気にしていないだろう。じたばたしてようが、泣き叫ぼうが、覚悟を決めようが、どれも同じなのだから。
次の瞬間森から叫び声が鳴り響いた。しかしどこから聞こえたのかはわからない。真っ白なものが森を包み込んで視界を狭くしているから。
その叫び声が人間たちに恐怖を与える。私もああなるのかな、僕はまだ死にたくない、見つからないように気を付けなくっちゃ、俺は怖くなんかないぞちっとも怖くなんかないぞ。それぞれがそれぞれの思いを心の中で声に出している。
化け物はその心の声を嘲笑うかのように目を光らせ、人間へと手を伸ばして大きな手で掴む。そうしたらもう人間は助からない。祈ったり泣いたり叫んだりするけど無駄なのだ。
ぎゅっと少し力を入れただけで血しぶきが飛ぶ。化け物の手は血で汚れる。さっきまで動いた人間は手の中で動かなくなっている。その姿はぐちゃぐちゃでかつてこの人間はどんな背格好をしていたのか、どんな顔をしていたのか、それらはわからなくなっていた。
ぐちゃぐちゃになった仲間の姿を目の前で見ていた人間は口をぽかんと開けていた。自分もじきにああなる、自分も潰されてしまう。人間は絶望の中に追いやられた。
一刻でも早くこの場所から逃げなければいけない。そうしなければ待っているのは死だけ。
そんなことはわかっている。ついさっき目の前で仲間が死ぬ光景を見たのだから。しかし足が動かない、いや動いてくれない、言うことを聞いてくれない。
これが恐怖というものなのか。人間はその時恐怖というものがいかに恐ろしいのかを体験し、理解して、身に染みたことだろう。
そう思ったときにはもう化け物の大きな手が人間の頭上にあった。大きな手で影ができ、その影の中心に人間はいた。
ああもう終わりだ、もう助かることはない、この命は化け物によって奪われる。目を閉じたら今までのことが目に写る。あの日あの時の様々な出来事がどれも懐かしくて楽しくて、そしてとても輝いている。
化け物は大きな口を少し開けて奇妙な笑い声を出す。人間にとってはさらに恐怖を与えられて、それと同時に辱しめを受けているような思いにもなる。
その大きな手で握り潰すんだろ? それなのに馬鹿にするのか。さっさと殺してくれよ、こんな恥ずかしい思いはしたくない。お前にとっては俺なんてただの人間の一人なんだろうが、それは侮辱になるんだよ。
強いものが勝ち弱いものが負ける。それはこの世界では当たり前のことだ。しかし相手のことを馬鹿にしちゃいけない。相手があってこその勝負なんだから。一人で勝負なんてできないのだから。
しかし化け物はそんなことは関係ないようだ。だから腹が立つ、俺は弱い立場にいるが文句の一つや二つ、いやそんなものは幾らでも溢れ出てくる。
だから言ってやったよ。さっさと殺せ! お前らにとって人間なんてただのオモチャだろ、なら早く遊んでくれよ! 腹が空いているなら食ってくれてもいいぞ! 俺は怖くない、ちっとも怖くなんかないぞ、だから今すぐぐちゃぐちゃにしろ!
静かな森に俺の叫び声は鳴り響いたことだろう。どこまで響いたのか知らないが、最期のあがきを誰かに聞いてもらっていたら嬉しいよ。
俺は化け物に立ち向かったよと、逃げずに堂々と立ち向かったよと、命がけで戦ったよと。この声を聞いている仲間に向けて伝えることができる。
化け物が何やら叫んでいる。俺の叫び声を聞いて怒ったのだろう。その怒りは俺を握り潰すことでしか収まらないだろう。俺は覚悟を決めた。
さあ来るんだ。俺を掴み、その大きな手の中で強く握り、そして原型を留めないぐらい何だったのかわからないぐらいぐちゃぐちゃにしてくれ。
痛いのは嫌いだからやるなら一瞬でしてくれ。一瞬なら痛いと思う時間もなくてあっという間だろう。気づいた時にはもう俺は天国ってわけだ。
天国とはどういうところなんだろうか。お花畑がどこまでも広がっていて、時間という概念などはなくてゆっくりとした時間が流れていて、食べたい時に食べて眠りたい時に眠る。そんなところだと想像しているのだが。
そんなところなら早く天国へ行きたい。天国に行ったら化け物に怯えなくてもよくなるから。化け物がいないだけで安心だ、何の恐怖も脅威もないから安心だ。
そこには化け物によって殺された仲間もいるだろう。何だお前も殺されたのかって笑われるかもしれない、そうなったら俺より先に殺されたくせによく笑っていられるなと笑ってやる。
お前なら化け物を倒せると思っていたよと言われたら、俺だってあんな化け物ぐらい倒せると思っていたよと言ってやる。ああ早く仲間に会いたい。もうこの世にはいないけど、もうすぐ俺もそこに行くから会える。
仲間と酒を飲みたい。仲間と美味しいものを食べながら色んな話をしたい。仲間の笑っている顔を見たい。仲間と手を握りたい。失ってわかる大切なもの、普段はあまり大切なものだと思わなかった。
化け物の大きな手が俺に向かってくる。しかし何故だかとても遅い。まるでスロー再生でもしているかのようだ。
死の瞬間というのはこういうふうに見えるのか。全てがゆっくりと流れて受け入れる時間をくれる、今までの人生を振り返る時間をくれる。
だからスロー再生なんだ。時の流れはどんなことがあっても変わらないと思うけど、死の瞬間だけは特別なのかもしれない。その人の命が終わるから、もう二度と動かなくなるから。
神様がこの時間を作ってくれたのかな。もしそうだとしたらありがとうと言うべきなのか、迷惑なんだよと言うべきなのか。こっちは一瞬で終わっても構わない、覚悟はできているのだから。
しかしそうじゃないって人もいる。そんな人にとっては覚悟はできていても、受け入れる時間や人生を振り返る時間は必要なのだろう。
とにかくこの時間は良くも悪くも死の瞬間だけしか訪れないということだ。不平等な世界の中にある数少ない平等なものの一つといえるのだろうか。
国王も政治家も公務員も、サラリーマンも芸能人もギャンブラーも、おじいさんもおばあさんも子どもも赤ちゃんも、みんなみんなやがては死ぬんだ。それが遅いのか早いのか、それには違うがあるけれど人は最後には灰になる。
それだけは平等だ。それだけじゃなくてもっと平等なものを増やしてほしいものだが。
化け物の大きな手はまだ俺を掴まない。もうスロー再生はいいよ、こんなにゆっくりだと覚悟を決めたことがだんだん薄れていく。化け物に殺されるという恐怖が沸き起こってくる。
痛いってのはわかる、でもそれが一瞬の出来事なら大丈夫なんじゃないかと思えていた。しかしその一瞬の出来事にさえも恐怖が出てきた。
例え一瞬の出来事だとしても痛みは感じるわけだ。化け物の手の力がどれぐらいかはわからないが、人があんなにも簡単に潰れてしまうぐらいの力があるんだ。とてつもない力が俺にやって来る。
そのとてつもない力が俺の全身を駆け巡る。例え一瞬だとしてもその痛みは想像したくないぐらいのものだ。
死ぬのが怖い。今更そんなことを思っても遅いとわかっている。もう死から逃れられるすべはないということもわかっている。わかっているからこそ、余計に怖くなってこのスロー再生が永遠に続いてほしいと思う。
さっきはなぜさっさと終わってくれと思っていたのかわからない。こうなることがわかっていたからか、ゆっくりとした時間の中だと恐怖が沸き起こることに。
化け物の顔が少しずつ笑っていくのがわかる。手の中で人間を握り潰すことが快感なんだろうか、楽しいのだろうか、嬉しいのだろうか。だから笑うのだ、人間を殺すことが面白いから笑うのだ。
これが絶望というものか。どうすることもできずただ死を待つだけで、自分だけが恐怖におののきどうにか助かりたいと神に祈る。助かったら何でもします、この命が動かなくなるその時まで。人様の役に立つことを何でもします。
だから助けてください。死にたくありません、生きて生きて生き続けてまだまだこの世界を見たいです。
大きな手が俺を囲む。ああもう終わりだ。このあと思い切り掴まれて潰されるんだ。痛いのは嫌だな、痛みを感じないぐらい一瞬で終わらしてほしい。
生きたいと祈る自分と、さっさと終わらしてくれと投げやりな自分が交差する。どっちか選べるのならそりゃ生きたいほうを選ぶ。しかし化け物はそうさせてくれない。
俺が潰れるのを早く見たいのか、とても怖い笑顔を見せてくる。この笑顔を何人の仲間が見たのだろうか。怖かっただろう、悲しかっただろう、助けを祈っただろう、生きたいと願っただろう。
俺は目を閉じた。もう化け物の笑顔は見たくない。何も見えない世界で終わるほうがまだマシだ。それにこの世界には懐かしい顔がそこら辺にいてくれる。
なんだ、みんなこんなにも近くにいたんじゃないか。暫く会っていないお父さんとお母さん、この前六人目の子どもが産まれたと言っていた幼馴染み、よく美味しいおかずをくれるご近所さん。
それと化け物によって命を奪われた仲間たち。天国に行かなくても仲間たちはここにいる。それなら俺がわざわざ天国に行かなくてもいい。
生きたいと強く望む、生きたいと強く願う、生きたいと強く思う。こんなのは死を覚悟した男の姿ではない、カッコ悪くてズルくて最低なのかもしれない、しかしそんなの生きていたら何とかなる。
死んでしまったら何もかも終わりだ。その先はもう何もない、皆悲しむだけだ寂しがるだけだただそれだけ。そこには沢山の涙が流れるだけで笑顔なんて一つもない。
生きて帰ったらそこには笑顔がある。無事でよかった、あなたの顔をまた見れてよかった、帰ってきてくれてありがとう。
俺は死にたくない。化け物に握り潰されて俺の人生終えたくない。助かりたい、だから俺は動かなくなるその時まで諦めない。
俺は再び覚悟を決めた。懐かしい顔とさようならして目を開けた。化け物と戦うために。
◇
少年は次のページを捲ったがそこから先は何も書かれていなかった。その先は真っ白なページが続いている。
ふぅと息をはいて読んでいたノートを本棚にしまう。本棚にノートはその一冊だけで、他は小説やら図鑑やらが並んでいた。
部屋には少年と眼帯をしている女の子の二人だけで、他の二人はここにはいない。二人は自室で休憩しているのだろう。誰の目も気にしなくていいプライベートな空間は心と体をゆっくり休める。
「ねえ、この本に出てきた男の人はこのあとどうなったの」
「知りたいの?」
「まぁ読んでしまったからね」
「別に読まなくてもよかったのに」
「そう言うけど綺麗な本の中に汚いノートがあったら気になるし読まずにはいられないよ」
「それが狙いなのよ」
「狙い?」
「この家に来た客人がそのノートを読むこと」
「皆に読んでもらいたいの?」
「さあね、こっちからは読んでくださいとは頼んでないから。不思議なことに皆勝手に、自分の意思で読むのよね」
「……何かまんまと狙い通りになったみたいで悔しい」
「ふふ、別に悔しがることはないよ」
「絶対何かあるとは思っていたよ、でもさ確認してみないことには何もわからないからさ」
「皆そうなんだよね。だから皆読んじゃう」
「で、男の人はこのあとどうなったの」
「そんなこと聞かなくてもわかってるんじないの?」
「そんなことないよ」
「全部読んだよね、あのノート」
「うん、最後まで」
「じゃあわかるよね」
「最後のページに薄い字で書いていたね」
「なんて書いていた?」
「俺は握り潰されなかった。化け物にとって俺は殺す価値がないということだ。それはつまり生きている価値も……」
「読んでるじゃん」
「で、男の人はこのあとどうなったの?」
「さあね、私は化け物と戦うことで頭がいっぱいだから」
「そっか」
「それより早く休みなよ。夜にまた森に行くんだから」
「そうだったね。おやすみ」
「おやすみなさい」




