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お姉さんが鍵を開けて駅構内へと入る。僕は一応辺りを見回した。別に悪いことをしているわけではないんだけど、もし駅員さんや通りすがりの人に見られたらややこしくなりそうだから。
ドアをゆっくり閉めるとお姉さんに鍵をかけられた。まるで誰かに見つかる前に急いでやったように。顔を見ると別に普通で、私の顔に何か付いているのかなときかれた。
いえ別に、僕はそう言った。だって本当に何も付いていないから。ゴミとか傷とか、そこにはただ真っ白で綺麗な頬やおでこがあるだけ。
真っ暗になった世界は何だか冷たい気がした。まだ暑いはずなのに、夏の終わりは残暑がキツイはずなのに。日がすっかり落ちたとしても生ぬるい空気が肌にまとわりついて鬱陶しいんだ。
「ドアを閉めたから真っ暗なのに、お姉さんはよく鍵を閉められたね」
「私は目が良いから例えどんなに暗くてもしっかりと見ることができるのよ」
「じゃあ今僕がどんな表情をしているかもわかるの?」
「わかるけど先を急がない? 時間が勿体ないわ」
手に柔らかい感触があって、それに僕は引っ張られる。お姉さんが僕の手を引っ張っているんだ。真っ暗な世界を案内してくれる、目的地へと連れていってくれる。
目的地は夜汽車。そこには僕を呼んだ依頼主がいる。その人はどんな人なのだろう。年上なのか年下なのか、男性なのか女性なのか、起こりっぽいのか温和なのか。それがわかったところで何があるってわけじゃない、僕は自分の役目をこなしていけばそれで良いんだから。
足音が響く駅構内。この足音はもちろん僕とお姉さんのもの。もうここには駅員さんも、乗客もいないだろう。もしいたとしたら足音や声が聞こえるはずだから。それが聞こえてこないということは、ここにはいないということになる。
ひょっとしたら息を殺して何処かに潜んでいるかもしれないけど、そんなことをして何になるというんだろう。ここは悪い夢だからマイナスの塊のヤツがそうやって妨害してくるかもしれないけど。でも今はヤツの存在を全く感じない。
ヤツは確かに何処かに潜んでいるだろう。しかし今は存在を消して、こっちの様子を静かに見ているはずだ。そして良い頃合いで奇妙な笑い声を出しながら登場するのだ。
いつも人の弱みにつけこむ。そうやってヤツは、ヤツらは何も汚れていない夢を悪に染めようとする。悪い夢になってしまったらやつらの独壇場。そうならないために僕がいる、悪い夢から悪を取り払うために僕はいる。
階段を一段ずつゆっくり下りる。足を踏み外すと危ないから、怪我をしてしまうかもしれないから。真っ暗な世界に目は全然慣れなくて相変わらず何も見えない。でも大丈夫、お姉さんがいるから。
足音が響く。僕の音とお姉さんの音が響く。静かな駅構内で聞こえてくるのは足音だけ。駅員さんの大きな声も、電車が駅に来ることを知らせるアナウンスも、改札機の扉が開いたり閉じたりする音も、一斉に電車の扉が閉まっていく音も聞こえない。
「お疲れ様でした、あの電車に依頼主は乗っているわ」
階段を下りたら明るい空間があった。歩くて眩しくて暖かな電気が点いている。暗闇を歩いてきたから光は眩しくてまだよく見えない。でもそこには僕を呼んだ依頼主が乗っている夜汽車が停まっているのはわかった。黒色の塗装がかっこよくて、煙をもくもくと出す煙突があって、あまり見ることがないから記念に一枚撮りたくなる。
視界がはっきりとしてきて、蒸気機関車がよく見えてきた。僕は少しテンションが上がった。電車が特別好きってわけでも乗り物が好きってわけでもない、蒸気機関車を初めて見たから嬉しいんだ。例えここが夢の中であっても嬉しい。
せっかくだからよく見ておこう、この機会を逃すと次に見れるのはいつになるかわからないから。美しい流線形のフォルム、黒で塗られた車両、お洒落でノスタルジックな雰囲気がする客車、早く僕も乗ってみたいと興奮した。
「そんなにはしゃいで子どもみたい」
お姉さんはふふっと笑う。
「僕は子どもだよ」
「そうだったわね。見た目で判断するなんて馬鹿げている、依頼主に散々言われたことなのに怒られるわ」
「依頼主は怒りっぽいの?」
「そういうわけじゃないわよ。頑固というか、めんどくさいというか、関わりたくないというか……皆そう言うわよ」
「それは酷い言われようだね」
「依頼主はただお話がしたいだけなんだけどね。それがから回るというかさ、不器用なのよね」
「……そんな人の話し相手が僕でいいの?」
「依頼主が望んだことだからね。さあ、もうすぐ出発よ、早く乗車して」
お姉さんは電車の中へと消えた。
僕は置いていかれるんじゃないかと何故か不安になって、急いで電車へと飛び乗る。そんなに急がなくても僕を置いて出発するはずはないのに。
僕は客車へと入った。等間隔に並んだ座り心地が良さそうな皮張りの椅子に、木の天井の中に幾つも丸があってそこからライトが光っている。
お客さんは一人もいなくて、ここにいるのは僕とお姉さんの二人だけ。依頼主は何処にいるのだろう。
「出発するからゆっくり歩いてね、依頼主は一つ向こうの客車にいるの」
お姉さんのその言葉を待っていたかのように、蒸気機関車はゆっくりと動き出した。音が聞こえてくる、もくもくとしたものも流れてくる、お姉さんは歩いていく。
動き出す蒸気機関車。ゆっくりと、そして力強く。車内が少し揺れたけど体勢を崩すほどではない。僕は依頼主が待っている車両を目指し歩く。
僕らの他には誰もいない電車というのは違和感しかないけど、貸し切りだと思えばそれも気にしなくてもよくなる。
貸し切りなら例えば横になってもいいよね、大声を出してもいいよね、走り回ってもいいよね。そんな妄想をするだけで実際にはしないけど。僕には依頼主に会って、お話を聞くという役目があるから。
扉の前にお姉さんは立っていて、どうぞと扉を開けてくれた。扉が開いて隣の車両が見えた。今僕がいるここと全く同じの椅子や天上がそこにはあった。しかしその中に、一つ黒色の帽子が見えた。車両の真ん中あたりに帽子はある。
あの帽子は依頼主がかぶっているものか。僕は一呼吸入れて落ち着くことにした。僕に話とは何だろう、ちゃんと理解できる内容なのかな、難しかったら着いていけないかもしれない。
依頼主が待つ車両へと入る。僕の足が歩を進める、帽子が近づいている、後ろのほうで飛び抜け閉まる音がする。
「こんばんは、来てくれてありがとう」
依頼主は帽子を目深にかぶりながら僕に話しかけてくる。手を前の椅子に向けている。
僕はすすめられた椅子に腰を下ろす。僕が座ると同時にお姉さんはごゆっくりと頭を下げて歩いていった。
「いえいえ、呼んでもらえて嬉しいですよ」
「君にはなかなか会うことができないからね。一度会ってみたかったんだよ」
「僕と会うのはあまりオススメしませんよ」
「その通りだね、君と会うということは悪い夢を見ている時だからね」
「そういうことです」
「それでも会いたかったんだよ、だから今君にこうして会えたことがとても嬉しいんだ」
「それはよかったです」
「僕のこの嬉々とした表情がわかるかな? 君にはわかるはずだ、君はただの子どもではないのだから」
「……僕はただの子どもですよ」
「そんなことはない、悪い夢を何回も救ってきたのだろう? 立派なことじゃないか。ただの子どもにはそんなことできない、大人だってそんなことなかなかできない」
「それが僕の仕事ですから」
「仕事か、君はまだ子どもなのに働いているというのか? 生活苦で働いているのか、そういう国の情勢下だからなのか、ただお金がほしいからか欲のためか満足するためか」
「……」
依頼主に圧倒されて僕は黙ってしまった。
「子どもはまず勉強しろ、言葉を学び字を学び数式を学び歴史を学ぶ。体を動かすこと、素敵な音楽を聴いたり演奏すること、風景画や人物画を描くこと、それも大切なことだ。ムダなことなんて一つもない、ムダだと思えることも役に立つかもしれない、だから今は勉強してればいい」
「僕はそこからかけ離れた存在ですよ」
「だから勉強しないとでも? かけ離れているから何をしてもいい、何をしても許されるとでも言いたいのか」
「そうは言ってませんよ。僕は普通じゃないんです」
「普通ではないということは危ないということか? 君はこのあと拳を振り上げて僕に殴りかかる、それとも懐に隠していた刃物を取り出してそれを僕の胸に突き刺すか。君はキレやすい若者ってやつか?」
「そうじゃなくって……んーどう言えばいいのかな」
「言いたいことがあるならハッキリと言いなさい。自分の意見をしっかり伝えないと何もわからない、相手は君のことを全部知っているわけじゃないのだから」
僕はさっきから依頼主に怒られているのだろうか、僕の発言にいちいち何かしら文句を付けているような気がする。いやでもさっきお姉さんが言っていた――――頑固というか、めんどくさいというか、関わりたくないというかと。
だとするなら、別に僕は怒られているわけではない。依頼主はただお話をしたいだけ、不器用なのだ、だからちゃんと聞いてあげればいい。
僕が心のなかでこうやって考え事をしている間も喋り続けている、その内容は頭に入ってこないからまた何かしら言われるかもしれない。しかし怒っているわけではない、ただお話をしたいだけだ。
「おい! 僕の話を聞いているのか。ここには僕と君の二人しかいないんだ、僕は君に話しかけているんだ、それはわかるよな。それとも無視をしているのか、そうやって嫌がらせをしているのか」
「ごめん、ちょっと考え事をしてた」
「考え事だと? 君は僕の話を聞いたいるだけでいい、それだけでいいんだよ。たまに意見もきく、君の考えを知りたい時もある、そんな時もあるが簡単なことだろ?」
「話をきくだけでいいのか、そうじゃないのかどっちなの」
「どっちでもいい、その時の流れによるだろそんなものは。僕が熱く話しているときは邪魔なんてしちゃいけない、だから黙ってしっかりと聞いておけばそれでいい。そうとは違って僕が話していることに対して何か意見をしてほしい時がある、そんな時は遠慮なく言ってほしい」
「ふーん」
ああメンドクサイ、皆にそう言われるのが早くもわかってきた。ていうか早すぎだろ。
……ひょっとして今回はずっとこんな調子なのだろうか。そう思うと気が滅入りそうになる。今までのように夢に広がる世界が、外での影響が大きく出ているもののほうがわかりやすい。
しかし今回は見たところそんな感じはない。この蒸気機関車にしても、目を覚ました時の居酒屋にしても、夜の町にしても、どれも何処にでもあるようなものだ。
僕はふと窓から外を見た。すると街灯や、家の光や、ビルの明かりが下に見えた。思わず立ち上がって窓のほうへと近づく。
見下ろした景色はキラキラしていてまるで星のようだった。町を空から見下ろすとこんなに綺麗だったんだ。皆このことに気づいているのかな、きっと気づいていないだろうな。
それにしても何故空を走っているんだ?




