じゅう
悪に染まりきってしまった夢の中とはとても恐ろしいところだ。
そこには希望の光なんて一筋も射し込まない、どこもかしこも闇で悪でマイナスで恐怖で……とにかくこの場に留まることは絶対にオススメしない。
この場にもし居続けたら、どうにかこの恐怖の大波に耐えようという強い心はそのうち呆気なく壊れてしまう。ヒビが一直線に入って割れるのだ、粉々になるのだ。そしてそれは風が吹くと何処かへと飛んでいって闇の中へと消えていく。
人から心を取ったら人はどうなってしまう?
感情を見事に忘れ去ってしまうのか、生気を吸いとられてしまい何のやる気も出なくなってしまうのか、人ではない何か恐ろしいものへと変わってしまうのか。
どのようになるのかは人それぞれ、心を取られなければわからない。
それが気になって、好奇心を止めることができなくて、自ら心を取ってしまうことだけはやめてもらいたい。そんな事をやって自分がどうにかなったら馬鹿みたいだ、自分で自分を傷つけるのはその分痛みも強いだろう。
悪い夢に溺れてしまったらその人はもう帰ってこられない。
「ねえお姉ちゃん、何でアイツに罰を与えなかったの? それをするチャンスは何回もあったでしょ。それなのに何で、どうして、何故しなかったの」
「……そんなこと言われても」
少女は震えていた。
陽子ちゃんをあんな目に合わせたアイツは到底許すことができない。だからこの手で罰を与えたい、すれ違うたびにそう心の中で煮えたぎっていた。
でもあの時、私は何もできない子供だった。あの頃、大人に立ち向かう勇気なんてものはなかった。あの日、陽子ちゃんを殺したのがアイツだとわかって怖くて怖くてしょうがなかった。
「ねえ、泣いても意味ないよ」
「……」
優しいおじさんだった。
お父さんとお母さんともお話したことがある、もちろん私と陽子ちゃんも。村の人達皆もおじさんは心優しい人だと思っていた。
おじさんは二人のお年寄りと住んでいた。その二人とはおじさんのお父さんとお母さん、というわけではなかった。奥さんがいない、旦那さんもいない、頼る身内もいない、そんな一人寂しいお年寄りとにそっと手を差し伸べたのだ。
寂しい思いをしていたお年寄りはさぞかし嬉しかっただろう。おじさんにありがとうありがとうと手を強く握りながら感謝して、白くなった髪の毛を下げながら感謝して、救ってくれてありがとうと。
何故おじさんはそんな事をするのか。それはおじさんもまた、一人で寂しい思いをしていたからだ。奥さんはいない、子供もいない、頼れる身内もいない。それは寂しい思いをしているお年寄りと同じだったのだ。
だからこそ気持ちがわかったのかもしれない、だからこそ手を差し伸べたのかもしれない、だからこそ皆から優しいと思われていたのかもしれない。
「お姉ちゃん、その涙にはいったい何の意味が含まれているの? 教えてほしいな、陽子が納得できるようにさ」
「納得?」
「そうだよ、わざわざ陽子を甦らせたのだからそれ相応のものは必要だよ。ただ会いたいからってこんなことは許されないよね、死者に対する冒涜だよね」
「私は……そんなつもりはなかった……」
その優しさは本当の自分を隠すための演技だったのかもしれない。
だっておじさんはたまにおかしかった。お酒を真っ昼間から呑んで、そこら辺をフラフラになりながら歩いて、言葉になっていない叫び声をあげていた。
私はお父さんとお母さんにこの事を話した。そうしたらお父さんは、おじさんの心はお前がわからないぐらい複雑なものなんだよと言われた。お母さんは、今はそっとしておきなさいまたその内いつもの優しいおじさんに元通りになるからと言われた。
村の人達はおじさんを心配していた。もしこのまま元通りにならなかったらお年寄りはどうなるのだろうかと、お年寄りも村の大切な仲間なのだがうちにはそんな余裕はないと、私は一人ぐらいいいんだけど旦那が赤の他人を何で面倒見ないといけないんだとうるさくてと。
おじさんは、一人寂しくしていたお年寄りの面倒を見てくれる優しい人。ただそれだけの人だったのかもしれない。厄介なことを嫌な顔せずに引き受けてくれる便利屋みたいに。
だから例えおじさんがおかしくても誰も悪口は言わなかった。悪口を口走って、それがおじさんの耳に入ることを恐れていた。せっかくお年寄りの安心できる場所ができたのにそれを奪うことは誰にもできない。
「ただ陽子ちゃんに会いたかっただけなの……大好きな陽子ちゃんに、会いたかっただけなの……」
「その気持ちは充分わかっているよ、それならアイツに罰を与えるということで陽子を弔ってほしかった。いつまでもいつまでも、何日何ヵ月何年とその思いを伝え続けられたのは正直しんどかった」
「……えっ?」
「お姉ちゃんのその思いは本当に嬉しかったよ、でもね居なくなった人にいつまでも執着してるのはおかしいよ。大切な人を忘れないのはとても良いことだよ、だけどお姉ちゃんは生きているんだよ前を向いてほしかったよ」
陽子ちゃんは無邪気に笑いながら泣いているような、そんな複雑な顔をしていた。
少女は陽子ちゃんのことを思い続けたが、それを陽子ちゃんが否定したかのような言葉は少女にとって信じたくないものだ。
こんなにも思っているのにどうしてわからないの?
「アイツはね、何処か遠くの方から引っ越してきたでしょ。それは何でだと思う? そんなこときかなくてもお姉ちゃんは知っているよね」
「……そんなこといいよ、陽子ちゃんに会えたんだから」
「よくはないよ、アイツが何か犯罪を犯してあの村に逃げてきたんだよ。それを隠すために優しくしていたんだ、だから本性に気づかなかったんだ。たまにおかしくなるのはストレスだと皆思い込む事にしたんだ」
「陽子ちゃん、それより何か楽しいことをしようよ! おままごとしよっか」
「皆わかっていたんだよ、大人たちは知っていたんだよ。それなのに何故アイツを捕まえなかったのかわからない」
陽子ちゃんは無邪気に笑いながらギュッと手に力を入れた。そしてその手は再び少女の首をしめていく。
やめてよ、苦しいよ、少女の声は力なく聞こえてくる。
「お姉ちゃんも知っていたんでしょ? お姉ちゃんだけじゃなくて同級生も、みんな皆知っていたんでしょ。何も知らなかったのは陽子だけだったんでしょ!」
叫び声が森に響き渡る。
それが何かの合図だったかのように、大人しく静かにしていた蝉たちの大合唱がまた始まった。それに合わせて怪しい目と大きな口を開かせた木々が左右に揺れて躍り狂う。
ミンミンミン、暗闇の森は騒がしい。
ミンミンミン、無邪気な笑顔と苦しんでいる顔がある。
ミンミンミン、少女と陽子ちゃんに蝉時雨が降り注ぐ。
ミンミンミン、坊や助けておくれという声が聞こえたような気がする。
木々は二人を包み込む、悪に引きずり込むために。
二人の声は何も聞こえない。二人がどうなったかは誰にもわからない。
聞こえてくるのは蝉の声だけ。
◇
目を開けた少年はロフトで横になっていた。
すると口を開けて欠伸をして、目をこすりだした。眠たいのだろうか。それならそのまま目を閉じてしまえばいい、そうしたらいい夢を見られるだろう。
しかしそんなことはせずに体を起こして辺りを見回す。ここには季節ものの衣類を直している箱や、読まなくなった本が入っている箱や、いるのかいらないのかよくわからないものを詰め込んだ箱といった様々な箱が綺麗に並べられている。
少年は数ある箱のなかから一つを開けてみた。するとそこには夏に必要になるであろう物が詰め込まれてあった。
名前がはみ出している半袖半ズボンの体操着、可愛い動物たちのイラストが描かれているうきわ、色褪せているうちわ、小さい時に履いていただろう小さなサンダル、風が吹くと涼しい音色を響かせてくれる風鈴、金色の砂が落ちている砂時計、スイカ柄のタオルとハンカチ、体操しているような格好をしている写真、湿気ていそうな蚊取り線香、力強い字体で祭と書かれているはっぴ。
少年はその中から、可愛い動物たちのイラストが描かれているうきわを手に取った。
「まだ泳いでいるのかな、ユミちゃんとシュウ君は」
少年はうきわを下に落とした。落ちたことを確認すると梯子に足をかけた。足を滑らさないように気を付けながら下りていく。
下りたらうきわを持って、それを頭からかぶった。少年は海にいた時と同じ格好をしている。白の水着に、猫のキャラクターが描かれた黒のTシャツという格好。
ベランダへと出ると、空を見上げて目を眩しそうにしながら指を口の方へともっていき音を鳴らした。指笛というやつだ。そんなことをしていったいどうするつもりだと思っていたら、果てしなく広がる青の中に鳥が飛んでいた。
鳥はどんどんベランダへと近づいてくる。そんなに勢いよく向かってきたらぶつかってしまいそうだと思っていたら、減速してぶつかるのとはなかった。
「今度は海に連れていってくれないかな? 僕も泳ぎたいんだ」
少年はニコっとしながら大きな鳥へとそう言った。
「お安いご用ワッシー! さあしっかり掴まるワッシー!」
大きな鳥は鷲で、ワッシーという名前を少年に付けられている。
鷲は大きな翼を羽ばたかせて少年を宙に浮かせた。少年を落とさないように慎重に飛ぶ。
砂浜には砂遊びをしている二人がいた。ユミちゃんとシュウ君だ。二人はまだこっちには気づいていないみたいで、山を作ったり家を作ったり砂を丸めたりして楽しんでいる。
二人から少し離れたところにはパラソルがあった。ここにはおばばがいるだろうが、パラソルが邪魔をしてその姿はここからじゃ確認できない。
「ねえワッシー。やっぱり僕は重くないかな?」
少年は鷲のワッシーと空中散歩をしている。
「そんなことないワッシー、頼られるのは嬉しいことワッシー」
鷲は大きな翼を羽ばたかせて砂浜の真上にやってきた。少年は今すぐにでも海へ入りたいが、波打ち際に下ろされた。
「ありがとう、もう着いたね」
そう言うと少年は手をはなした。あちっと言って足を動かす。あつい太陽の光に照らされた砂は裸足ではキツイところがある。
突然空からやってきた少年に驚いているのは、砂遊びをしているユミちゃんとシュウ君だ。少年はそんな二人にただいまと笑顔で言った。
「お兄ちゃんお帰りなさい! ねえ見てよこの砂のおうち、可愛いでしょ、よく出来てるでしょ、芸術的でしょ!」
「そうだね、鯱があったりテニスコートがあったり大きな門があったり中庭があったり。これ作るの大変だったんじゃない?」
「この天才建築家ユミ様にかかればこんなことは朝飯前なのよ!」
ドヤ顔で決めポーズを決めたユミちゃん。
少年は凄いねと誉める。そうするとユミちゃんはえへへと幸せそうな顔になった。
その様子を見ていたシュウ君は、力の弱いパンチを少年へと向かわせた。
「なに! どうしたのシュウ君?」
少年は急にやって来たパンチに驚いたが痛くも痒くもないという感じだった。
「ユミちゃんは僕と遊んでるんです、邪魔はしないでください。お兄さんにはもっといい人が見つかりますから」
恥ずかしそうにモジモジしているシュウ君。
「でもさ、三人で遊んだほうが楽しそうだよ。ほらユミちゃんが水鉄砲でこっちを狙ってきてるし」
「わわわ! 僕ばっかりターゲットになるのはもう嫌だよ!」
シュウ君は少年を盾にして隠れた。なんてせこいやつだ、そんなことをすればシュウ君には水がかからないじゃないか。
ユミちゃんはほっぺたを膨らませてブーイングをする。シュウ隠れるな! それでも男の子か! 水鉄砲の銃口はターゲットに向けられている。
波打ち際で遊ぶ子供たち。その様子を二ッと笑いながらおばばは見ていた。
シートにはスイカが置かれている。少年の今回のご褒美はこれなのだろうか。夏だし海だしこれしかないだろう。
おばばはサングラスを外して、アロハシャツにショートパンツというこれぞ夏という格好でパラソルから太陽の光がこれでもかと当たる砂浜へと出てきた。
裸足だからあついはずなのに、おばばはそんなことは気にせずに歩いていく。少年とユミちゃんとシュウ君はおばばの接近には気づかない。
少年はぷかぷかとうきわで海に浮いている、ユミちゃんは少年のうきわにご一緒している、シュウ君は水鉄砲を少年にだけ当たるように撃っている。
おばばは砂浜に作ったおうちや山を見ることなく、真っ直ぐに波打ち際までやってきた。三人を見て、海を見て、そして口を開いた。
「三人とも出てきな! スイカを食べるよ。お姉ちゃんが甘くて美味しいスイカを持ってきてくれたんだよ」
その言葉に三人は一斉におばばのほうを向いた。波打ち際に佇むおばばは何だかカッコイイ。
ユミちゃんは少年のうきわから出ていき、スイスイと泳いでいく。シュウ君はガッツポーズをして泳いでいく。少年は一人その場でパラソルのほうを見てみる。
するとそこにはナチュラルショートヘアーで、ビキニ姿で手を振っている女性がいた。
梓さんだ、少年は足をバタバタさせて砂浜へと急いだ。
海から出てきた少年へとおばは近付き、海に入る前は準備運動をちゃんとしなと怖い顔を見せた。
少年はすみませんと後退りしながら謝った。
☆蝉時雨のナカ おわり☆




