はち
少女はさっきから声をかけ続けている。声をかけられている陽子ちゃんは、明後日の方向を見ていて、上の空といった感じで、魂はここにはなくて別のところへと飛んでいったみたいになっていた。
体を揺すっても頬を軽く叩いても無反応で、まるでお人形になったかのようだ。突然どうしたのだろう、何か考え事をしていてそれで静かだったのかなと思ったけれど。
そうなるまでは二人であんなに楽しそうにお話をしていたじゃないか。だから僕がそこに入り込む余裕なんてなかった。ただひとりで黙々とケーキを食べていた、三つも食べてしまったからお腹がいっぱいだ。
そんなことより心配だ。少年は食後のデザートを食べるのをやめて、陽子ちゃんのもとへと近寄った。
陽子ちゃんの背中を擦りながら少女は声をかけていた。どうしたの、大丈夫なの、何かあったの。その姿は妹のことを心配しているお姉ちゃんだ。
それはどこにでもある姉妹の姿に見えた。姉が妹のことを心配するのは当たり前のことだから。
「ケーキを食べていて、そして急に黙りこんだよね」
少年は少女へと声をかける。声をかけられた少女は、不安そうな顔をしながら少年の目を見た。
「そうなのよ、楽しそうにしていたのに急にどうしたんだろう」
どうしていいのかわからずに狼狽えている少女。今にも泣き出してしまいそうな、そんな気さえする。
大丈夫だよと少年は元気付ける。きっとすぐに戻ってくるよと前向きに考える。不安になった時はどうしても後ろ向きに考えてしまう、そうしたら余計は不安は膨らんでいく。
破裂しそうなぐらいに膨らんだ不安はとてもこわいものだ。もし大きな音を響かせながら破裂してしまったら、何かが手のひら零れ落ちてしまうかもしれない。そうなったら不安が押し寄せてくる。
そうなるのが嫌だ。だからちょっとのことでも不安になる。
「陽子ちゃんはね、私の大切な妹なのよ。とても可愛くて、小さな体で、抱きしめたら包んでしまうの」
「わかっているよ」
「手も小さくってさ、触ると柔らかくて可愛いんだよ。力を入れたら折れてしまいそうなぐらいに脆そうなのよ。だから大切に、大事に扱わないといけないの」
「それもわかっているよ」
「私はねあの日のことをずっと後悔していたの。子供たちとわざわざ一緒に遊ばなくても良かった、遊ぶのは二人でもできることだって。そうしておけば私の前から消えることはなかったのよ」
「もうわかったから落ち着こうよ」
「陽子ちゃんを愛してあげたい、姉としての愛を女としての愛を、丁寧に優しく時間をかけてあげたい。陽子ちゃんは私のもの、陽子ちゃんは誰にも渡さない、陽子ちゃん陽子ちゃん陽子ちゃん陽子ちゃん――――」
少女も明後日の方向を見ていて、上の空といった感じで、魂はここにはなくて別のところへと飛んでいったみたいになりそうな気がした。
そんなことじゃダメだよ、陽子ちゃんのお姉ちゃんなんだろ? お姉ちゃんはしっかりしないと、お姉ちゃんはしっかりと前を向いておかないと、お姉ちゃんは陽子ちゃんの手をずっと繋いでおかないと。
「しっかりしてよ! お姉ちゃんでしょ!」
少年は大きな声で少女の体を揺らす。
すると少女は我にかえったのかハッとする。そしてお人形のようになっている陽子ちゃんのへと目を向ける。
「……危ないところだった。持っていかれそうになった」
「持っていかれる?」
「何者かわからない、得たいの知れないものに引きずり込まれそうになった。それはニヤニヤと不気味に笑っていた気がする」
「奴等のお出ましか」
それはこの夢を悪に染めようとしているもの。人の弱味につけこんで悪さをして生きているなんとも卑怯なやつら。誰にも妨害されない夢へと勝手に足を踏み入れては夢を見ている人へ嫌な思いをする。
夢のなかに広がる世界にわざわざ見たくないものを作り出す。人だったり建物だったりを作って夢の中でも逃げ道を塞いで追い詰めていく。悪い夢を見てしまう人は外で何か嫌なことがあったからだ。
奴等は人の苦しんでいる姿が大好物。落ちていくその様子が大好き。人の不幸は蜜の味ということなのだろう。
「ねえ、私はどうすればいいの? 陽子ちゃんは何処に行ったの、ちゃんと戻ってくるの、迷子になってるんじゃないの」
「焦っちゃいけないよ、深呼吸して落ち着こうよ」
少女が冷静な判断ができない今、少年だけが頼りだ。やっと出番がきたような気がする。
少年にできることはもう、少女と陽子ちゃんの二人を離さないようすることだけ。例えそれが奴等の思う壺であってもそれを望んでいるのだからしょうがない。だからって投げやりは駄目なのだ、少年はこの夢から出ていくその時まで与えられた役目をしっかりこなさなければならない。
少女はゆっくりといっぱい息を吸い込んだ。そうするとお腹が少し膨れたのがわかった。吸い込んだ空気がそこにはあるのだろうか。
今度はゆっくりと息を出していく。そうするとお腹の膨らみは少しずつなくなっていく。吸い込んだ空気が外に出されたのだろうか。
「落ち着いた?」
「ええ、そんな気がする」
少女は自分を取り戻したようなそんな気がする。少女の出番はあっという間に終わったのかもしれない。冷静な判断ができたなら少女と陽子ちゃんの二人の世界に部外者はいらないから。といってもまだ夢から出ていく時間ではない。
ふと見上げた少年は、木と木の間から見える空の色が青からオレンジに変わっていることに気がついた。
ここは森の中、木があちこちに生えているここは例えどんなに良い天気であっても暗く感じる。それは木が太陽からの光を遮っているからだ。そんな森の中では夕焼けは益々暗く感じるだろう。
しかしそう思ったら違った。夕焼けの明るくて眩しい光によって、森の中をまるで絵画のような世界へと誘う。それは美しくて幻想的で、思わず見とれてしまいそうになる。
そうしているうちに日は沈み、森を暗闇が覆うのだ。あんなに美しくて幻想的な世界はあっという間に恐ろしくて不気味な世界へと変貌する。
「陽子ちゃん、私はここにいるよ。だから安心していいんだよ、何も怖がることなんてないんだから」
少女は優しい口調で話しかける。
「陽子ちゃんの悩みや悲しみや寂しさは私も一緒になって立ち向かうよ。だって私はお姉ちゃんだから、もう二度と手を離さないから」
少女は陽子ちゃんの頭を優しく撫でている。
「私の可愛い可愛い陽子ちゃん。さあ戻っておいで、私のもとへ戻っておいで。何も心配することなんて無いのよ、私達の絆は世界一なんだから」
そのお姉ちゃんの優しい言葉で、妹の陽子ちゃんは大きく口を開けてあくびをした。ふわぁという眠そうな声を出している。
目を擦ってまだまだ眠たいご様子。少女はニコニコしながら待っている。別に急かない、急いても意味はないから。この世界は二人だけのものだから。
ごにょごにょと何か喋った陽子ちゃん。おかっぱ頭を左右に振っている。そうすることで眠気を飛ばそうとしているのだろうか。それは本人しかわからない。
陽子ちゃんはお姉ちゃんと声を出した。その声は甘えている。呼ばれたお姉ちゃんは、はあいと優しく言う。
すぐ側にお姉ちゃんがいたことがわかった陽子ちゃんは、一気に眠気が覚めたかのようにニコニコになった。お姉ちゃんの胸に抱きついて甘えている。
「よしよし、陽子ちゃんは甘えたさんですね」
「えへへー、陽子はお姉ちゃんが大好きなんだもん」
二人はとても仲良しな姉妹なのだ。
「そう言ってくれてお姉ちゃんはとても嬉しいよ、ありがとうね陽子ちゃん」
「いえいえ、そんなに気を使わないでください。陽子の可愛さにお姉ちゃんがくらくらーってしただけなのです」
「何そのしゃべり方? 面白いね」
「面白くなんてないでざますわ。ほら慶子さんも陽子さんみたいに、背筋をびんと伸ばして美しい姿勢で座りなさいな」
「ふふふ、また可笑しなしゃべり方してる。無理しなくていいのよ、いつも通りでいいのよ」
「無理なんてしていませんのよ、陽子さんは常日頃から言葉遣いや所作が美しいことで有名なお方なのです。だから慶子さんも見習いなさいな」
「ふふふ、面白くてお腹が痛いわ。もうやめてくれない、このままじゃ笑い死んじゃうから」
少女はお腹に手をあてて笑っている。我慢なんてしたくてもできないぐらい面白いみたいだ。その様子を見て陽子ちゃんはいたずらっ子の顔になる。
こしょこしょーとニコニコしながら少女の両脇を攻める陽子ちゃん。あはははと声を出して笑い続ける少女。もうやめてーと言われても終わるわけがなく、脇から脇腹へと攻める場所は変わった。
あはは、ぎゃはは、笑い声は森の中によく響いている。いつの間にか蝉の声は止んでいた。
今まで鳴き続けていたその声が聞こえなくなると、途端に違和感が漂う。あんなにうるさく鳴いていた蝉たちはいったい何処に行ってしまった?
そこにもあっちにも生えている木にまだいるんじゃないのか、それなのに何故鳴かないんだ黙っているんだ。ひょっとして隠れてこっちの様子を伺っているのか。
それは何のために……昼間は元気よく鳴き続けている蝉は、夜になると森の中に迷い混んだ動物に襲いかかるとでもいうのか。今森の中にいる少女と陽子ちゃん、そして少年は彼らのターゲットとなっているのか。
風が吹いて木を揺らす。ざあと音を響かせて左右に揺れて、まるで踊っているみたいだ。
木々が三人を見下ろす。森の一部にしてやろうと笑っているように躍り続ける。その様子に少女と陽子ちゃんは気づかない。
いやそうじゃない、気づいてはいるが気にしていない。少女はこの夢がどうなったっていいのだ、ずっと陽子ちゃんのといられるならそれでいいのだ。だから森の一部になることも構わないと思っている。
それにこの夢から目を覚めたら陽子ちゃんに次会えるのはいつのことになるのかわからない。陽子ちゃんのことを思い続けても夢に出てくるとは限らない。
だから少女はここが悪い夢の中だとしても気にしない。
「ここはもう悪に染められていく。本当にこのままでいいの?」
少年は楽しそうに陽子ちゃんと喋っている少女に話しかける。
「陽子ちゃんは何でこんなに可愛いのかな? 私にもその可愛さを少し分けてほしいな」
「嫌だもーん、私は可愛いさでできてるんだからね! だから少しもあげられないんだよーう」
二人には少年の声なんてもう届かないのか。
空は暗くなり、少女と陽子ちゃんと少年がいるこの辺りも暗くなっていく。
「僕は誰彼構わず助けようとは思っていない。その人が拒めば僕は助けない。夢から目を覚ましたくないという君のような人は珍しくはないから」
少年は楽しそうに陽子ちゃんと喋っている少女に話しかける。
「ここはもう悪に染められていく。本当にこのままでいいの?」
少年は楽しそうに陽子ちゃんと喋っている少女に話しかける。
「陽子ちゃんは何でこんなに可愛いのかな? 私にもその可愛さを少し分けてほしいな」
「嫌だもーん、私は可愛いさでできてるんだからね! だから少しもあげられないんだよーう」
二人には少年の声なんてもう届かないのか。
空は暗くなり、少女と陽子ちゃんと少年がいるこの辺りも暗くなっていく。
「僕は誰彼構わず助けようとは思っていない。その人が拒めば僕は助けない。夢から目を覚ましたくないという君のような人は珍しくはないから」
少年は楽しそうに陽子ちゃんと喋っている少女に話しかける。
「そんなこと言わずにさ、ちょっとだけでいいからちょうだいよ。お姉ちゃんは陽子ちゃんみたいに可愛くないんだからさ」
「お姉ちゃんは鏡を見たことがあるの? お姉ちゃんは可愛いよ、陽子にはちょっと負けてるけど可愛いんだよう!」
二人には少年の声なんてもう届いていない。
少年はふぅと息をはいて頭をかいた。そして躍り続けている木々へと目を向けた。
木には怪しい目があった、笑っている口があった。奴等がこの夢を悪に染めるために笑っている。
少女も笑っている、陽子ちゃんも笑っている。その顔は楽しそうだし嬉しそうだ。
少年は一人笑っていなくて二人に背を向けて歩き出した。




