ろく
陽子ちゃんに手を引っ張られて少年が連れていかれた場所には、美味しそうなとろとろのオムライスが三つあった。いつのまにかそこにあったテーブルと椅子、そこに少女がニコニコしながら一足早く座っている。
私はここーと陽子ちゃんは空いている椅子へと腰をおろした。少女と向かい合わせに座り、互いに目を合わせて笑顔になって楽しそうだ。
誰も座っていない椅子が一脚ある。少女が少年と目を合わせてどうぞ座ってと言う、陽子ちゃんは早く食べたいみたいでスプーンへと手を伸ばしている。
じゃあお言葉に甘えてと少年は空いている椅子へと腰をおろした。その時誰かのお腹の音が鳴った、三人は自分でないという顔で他の人を見る。
「陽子手を合わせなさい。坊やも手を合わせてね」
そう言いながら少女は手と手を合わせている。
陽子ちゃんは早く食べたいのになぁと頬を膨らませながらもスプーンを置いて手を合わせる。少年は何も言わずにただ手を合わせた。
三人は森の中で手を合わせている、蝉の声が響くなかで手を合わせている、空の色は青くて色んな形の雲がぷかぷかと浮いている。
いただきます、少女が言った。いただきまーす、陽子ちゃんが言った。いただきます、少女が言った。三人の手はスプーンへと伸びる。
そこでまた誰かのお腹の音が鳴った。美味しいからその空腹は満たされるわと少女が言った、良い匂いだし見た目も美味しそうだしお姉ちゃんコックさんみたいと陽子ちゃんが言った、ここは夢だけど空腹は満たされるのかなと誰にも聞こえない声で少年は言った。
銀のスプーンでオムライスをすくう。そこにはとろとろの卵と、人参やピーマンや玉ねぎやウインナーが入ったケチャップライスが乗っている。
それを口へと運ぶ。そして味わう。すると陽子ちゃんの顔が幸せいっぱいになった。
「美味しいよこのオムライス! とろとろでーケチャップでーとっても美味しい! お姉ちゃんいつの間にこんなの作れるようになったの?」
余程美味しかったのか口元を手で隠さずに喋る陽子ちゃん。口の中が見えるから行儀が悪いよ、それに何か口から飛んでいったよ。
「良かった、陽子ちゃんが満足してくれて。ずっと作りたかったからね、よかった……本当に良かった」
少女は目を閉じて噛み締めるようにそう言った。そして涙を流した。
「お姉ちゃん? 何で泣いているの。何か悲しいことがあったの、それとも体のどこかが痛いの?」
陽子ちゃんは少女を心配している。そりゃそうだ、突然涙を流したのだから。
少年はオムライスをすくったスプーンを口に運べずにその様子を見ていた。何か気のきいたことを言ってあげるとカッコイイのだが、二人の邪魔をしてはいけないと黙ることにした。
「私はね、ずっと……ずっと陽子ちゃんに会いたかったの。現実ではもう会うことは叶わないから、それなら夢で会うしかないから、だからね――――」
少女はそこでまた涙を流した。長い時の流れの中で心に溜まり続けた色んなもの、それは心に傷を付け続けていた。その傷は完全に癒されることはなかった、遊びで何もかも忘れられてもそれは一時の間だけ。時間がくればまた傷は疼く。
過ぎ去った時間は戻ってこられない。あの懐かしい笑顔も、あの懐かしい風景も、あの懐かしい匂いもあの日あの時の思い出としてどんどん錆びていく。
そう思うのは自分が生きているのはあの日でもあの時でもなくて今だからだ。今現在自分が生きているこの日この時も時間は流れ続けている。
人気アーティストのアルバムを一枚聴いただけでも、動画サイトでゲーム実況を観ただけでも、恋人とお洒落なレストランでごはんを食べても、新しい命が生まれて元気が良い泣き声を部屋に響かせても。時は止まることがなく動き続ける。この瞬間だってそうだ。
「陽子はね、お姉ちゃんと会えてすっごく嬉しいよ! 例え夢の中でしか会えないとしても、陽子はずっとずっとお姉ちゃんの妹なんだから!」
「陽子ちゃん……」
「だからさ、泣かないでよ。泣いたら陽子まで悲しくなっちゃうから……せっかく会えたのに悲しいのは嫌だよ」
「そうだよね、会えたことは嬉しいことだもんね。嬉しいなら泣いちゃ駄目だよね、嬉し泣きっていうものはあるけど涙を流さずに笑っていたいよね」
「そうだよ! お姉ちゃんは泣き虫なんかじゃないもん、いつも泣き虫って馬鹿にされてたのは陽子だもん」
陽子ちゃんはとびきりの笑顔だ。その笑顔で少女の心を癒していたのだろう、家族の中に花を咲かせて明るくしていたのだろう。その笑顔はお隣さんにも効き目があったのだろう、きっとはす向かいさんにも。友達や先生や村の人達、みんな皆その笑顔が好きだったと思いたい。
だからこそ、その笑顔を失ったショックは大きかった。家族の一人が亡くなったのだから悲しむのは当然なのだが、それだけでは済まないぐらい心を抉られたみたいにぽっかりと穴が空いてしまったのだ。陽子ちゃんの存在は、思っていたより自分にとって大きなことだったのだと気づく。
「私だって泣き虫だよ、ほらこの顔見てよ酷いでしょ? 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってる。お姉ちゃんは強くなんかないんだよ」
「陽子の泣き虫がお姉ちゃんにうつったのかな、陽子がいなくなったからお姉ちゃんが二人分頑張ったんだよね。ごめんね、陽子のせいで長い時間迷惑かけて」
「悪いのは陽子じゃないよ、だからそんなことは言わないで。陽子は被害者なんだから!」
「……被害者?」
小さな声で呟いた。少女は鼻をすすってそれは聞こえなかったみたいだが、少年にはその声がちゃんと聞こえた。
「ねえ、それよりオムライス食べないと! せっかく作ってくれたのに冷めちゃうよ。改めていただきまーす」
陽子ちゃんは何だが無理矢理そう言ったような気がした。
「泣きっ面に蜂とはこのことだよ」
小さな声で呟いた。陽子ちゃんはオムライスを食べることに夢中だから聞こえていないが、少年にはその声がちゃんと聞こえた。
少女は何故そんなことを言ったのだろう。長い時の流れを巻き戻して、そこで陽子ちゃんが亡くなってしまってそのことをずっと背負いながら生きていたからだろうか。幸せだった日々はその事によって終わりを告げて、そこから先は不の連鎖の始まりだったとでもいうのか。
例えば陽子ちゃんが亡くなったショックでお母さんが生きる意味を喪失してしまった、お父さんが酒や女に走った、少女は一人娘となってしまったから親からのプレッシャーが強くなってそれがストレスの原因となった。
少年はとろとろのオムライスを食べながら考える。しかし口に広がる美味しい味が考えることを止めてしまう。どんなに悩んでいても悲しくても怒っていても、美味しい料理には敵わないんじゃないのかと思えてくる。
それなら心にできたモヤモヤは何か美味しい物を食べたら綺麗サッパリ消えてくれるのか?
「坊やの口には合ったかな? さっきからずっと黙々と食べているから」
少女はニコッとしながらそう言った。言い終わるとガラスのコップにつめたいお茶を入れてそれを飲んだ。
「美味しいよ、まさか夢の中でこんなに美味しいものが食べられるなんて思っていなかった」
「ふふふ、それは褒めすぎなんじゃないのかな。嬉しいけどねそう言ってくれるのは。夢の中だからこんなにも美味しいのかもしれないよ、ここは何でもありだから」
「そんなことはないよ! お姉ちゃんはよく私に作ってくれたもん。焼きそば、ホットケーキ、チャーハン、野菜炒め、カレーやお味噌汁も!」
「そうだったわね、私は色々作っていたね。今は作ってあげる相手がいないからもうしていないけど」
「.…お姉ちゃんには旦那様はいないの? 言ってたじゃんあの時、私は大人になったら素敵な男の人と結婚するんだって」
「そうだっけ? 昔のことだから思い出せないわ」
少女は陽子ちゃんから目をそらした。
「そうなんだよー! こんな家に住みたいとか、子供は何人欲しいとか男の子にはこんな名前で女の子にはこんな名前って決めてたじゃない! あんなに楽しそうに話していたのに忘れたの?」
「そんなことを私は言っていたのね、なんて可愛いのかしら」
「お姉ちゃんどうしたの? また悲しい顔をしているよ、そんな顔したら幸せが逃げちゃうよ」
「幸せかー」
その一言を最後に誰も何も喋らなくなった。
楽しくしたかっただろうお食事会はスプーンの音と蝉の声しか聞こえない。皆黙々とオムライスを口に運んでいる。こんな雰囲気では何だか食べづらい。
しかしこのとろとろのオムライスの美味しさは変わらない。何でこんなに美味しいんだよと腹がたってきさえする。美味しいものを食べると笑顔になるが今は誰も笑顔じゃないから。
お皿の上に乗るこの美味しいものがどんどん少なくなっていく。食べているからのだから当たり前なんだけど、これを全部食べきったらどうする。この後はどうする。
少女が陽子ちゃんとやりたいことはまだ色々あるだろう。それを一つずつやっていくのだろう。そうやって心にぽっかりとできた穴を埋めていくのだろう。
ずっと会いたかった陽子ちゃんがそこにいる、例えここが夢の中だとしてもそこにいる、ここなら永遠に陽子ちゃんと一緒にいられる。もう手を離さないもう二度と離さない。
それならこの後のことなんて自ずと見えてくる。そんなのはわかっていたけど、見えてしまうと無力なのを実感してしまう。
やがてお皿の上は何も無くなった。皆お残しすることなくちゃんと食べた。そんなにお腹が空いていたのかと他の人を見て笑う。
その笑みがまたこの空間に楽しい時間を運んできたような気がする。少女は食後のデザートを食べましょうと席を立った、今食べ終わったばっかりなのに太るようと陽子ちゃんがお腹を撫でる、別腹だよねと少年はお皿を重ねてシンクへと持っていく。
少女の中に長い時の流れで出来た傷が残ってはいるけど、陽子ちゃんと楽しい時間を過ごしたいというのは望んでいることだ。だからできれば涙なんて見せたくない、笑っていたい。
そう上手くできないのはあの日の悲しみを忘れられないからなのか、あの時手を離したことが許せないからなのか。だから陽子ちゃんにたいして気を使うというか、どう接したらいいのかわからないというか。
とにかく久しぶりに会う妹に慣れていないのだ。昔は気を使うことなんてなかった、どう接したらいいのかわからないと悩む必要もなかった。
だって陽子ちゃんは妹だから。少女にとって大切な妹だから。いつも自分の背中を追って走って着いてきていた妹だから。少女に甘えて少女がいないと寂しくて泣きでしまうような妹だから。
私達姉妹は世界でただ一つ、私と陽子ちゃんだけ。その言葉と映像が何処から聞こえてくる見えてくる。
すると少女は陽子ちゃんのほうへと目を向けた。陽子ちゃんも少女のほうへと目を向けている。
言葉なんていらないよ、私達は仲良し姉妹だもんね! だから心と心で通じあっているんだ。その言葉と映像が何処から聞こえてくる見えてくる。
二人は抱きしめあった。少女は陽子ちゃんを包み、陽子ちゃんは少女に包まれる。
二人の絆はどんなに時間が流れたとしても変わらない。
大好きよ陽子ちゃん、陽子もお姉ちゃんのことだーいすき!




