さん
少年は両手で顔を隠した。
恥ずかしい、なんだか恥ずかしい! 僕はそんな名前で噂をされているのか。どうせ噂されるなら、もっとカッコイイやつにしてほしい。できれば恥ずかしくないやつを希望する。
ところで噂とは?
「え、何……顔隠してるけど、どうしたの?」
「王子ってのが恥ずかしくて」
少年は手で顔を隠しながら、指の隙間から女子生徒の様子を伺う。
何故に僕が王子なんだ、僕には王子的要素はこれといって一つも見当たらないと思うんだけど。外の世界で流行っているのかな、王子って付けるのが。
「恥ずかしがらなくていいよ、だって王子様なんだから!」
女子生徒はもう警戒していないようだ。
指の隙間から見えたのは、こっちのほうへと近づいてくる姿だった。
しかし少年はまだ心の整理ができていない。
だから僕のどこに王子様的要素があるのだ! 教えてほしいけど自分から聞くのは何だかめんどい。
きっと向こうから言ってくれるに違いない、だから僕は本来の目的にさっさと取り掛かろう。
ここは夢の中、女子生徒の悪い夢の中。その悪いものはこの夢を支配していたり、蠢いていたり、とにかくタチが悪い。実体として出てきてくれたら倒せばいいのだけれど、この夢自体が悪いもので出来上がっているからそれは難しい。根本的な問題なのだ。
この悪い夢を生み出してしまったのには理由がある、原因がある。それはこの夢を見ている張本人である女子生徒。外の世界で何かあったのだ、それが原因でこの夢ができてしまった。
夢は外に影響されてできる、そのできたものがこうやって夢として出てくるのだから簡単な問題ではないのだ。
「それはいいとしてさ、君は何をそんなに急いでいたの?」
女子生徒は走っていた。それはどこかへ向かうためだろう。なんとなく予想はできているだろうけど少年はいちいち聞く。
「……言いたくない」
言ってもらわなくちゃ解決できない。別に解決せずに少年がこの夢から出て行ってもいい。しかしそれでは少年の心にモヤモヤが残ってしまう。あの時助けなかったあの人は今もまだ悪夢に苦しんでいるだろうか。そうなってしまったらそれは僕のせいで僕が見捨てたからだ。
今度また助けなかった人の夢へとお邪魔できるかわからない。だからこそ助けなければいけないのだ。後悔しないためにも。
「それだと苦しむのは君だよ」
でもこの夢を見ている本人が助けを望まないのであれば、その時は潔く引くしかない。無理に解決しても意味がない。例え悪い夢から解放されたとしても、夢から目を覚ました時スッキリしているだろうか。少年がそこまで考えなければならないということはないのだが、せっかく呼ばれたのだから助けたいというのが少年のポリシーだ。
「わかってるけどさ、怖くてさ開けるのが……」
「開ける?」
「とりあえず一緒に来て。今はまだ何も起こっていないの」
「うん」
女子生徒は走らずに、歩いて目的の場所へと向かう。
どうやら少年の助けが必要みたいだ。少年はホっとして、後ろについて歩く。
二人が歩く道には桃色の花が落ちていた。綺麗な花だからここを歩いていると踏んでしまうのはなんだか可哀想な気がする。
新入生の声が聞こえてくる。僕ねーサッカー部に入ろうかなと思うんだ! 保護者の声も聞こえてくる。お兄ちゃんはレギュラーだからお前も頑張れよ、怪我だけは注意してね。
こっちからも聞こえてくる。私さやりたいことあるんだよね、おーなんだなんだやりたいことって、とりあえず委員長になって内申点もらう、頑張りなさいねお母さん応援してるわ。
あっちからも聞こえてくる。そういえば給食はなくってお弁当なんだよね、そうだねお母さん毎日作るの面倒くさいなー、お前そんなこと言うなよ、めんどい時はお金ちょうだいねコンビニで買うから。
歩きながらその様子を少年は見ている。表情は無くて、ただその光景を見ている。
「着いたよ」
女子生徒は足を止めた。少年も足を止める。二人が止まった場所は門の前あたり、在校生が新入生へと元気な声で入学おめでとうございますと言っているあたりだ。
ここはさっき来たけどとくに変わったところはなかった、少年はそう考えているがここに連れて来られたということは何かがあるのだ。
「入学式だね」
「うん……」
女子生徒は門からも、在校生からも、次々と流れてくる新入生とその保護者からも目をそらした。
ひょっとして入学式で嫌な思い出を作ってしまって、それが原因で思い悩んでいるのだろうか。少年はそう考えたがどうなのだろうか。
「私はね、何も悪くないんだ」
悪いのは全部この夢だ。眠るときぐらいゆっくりさせてほしい。
「……でもね、何故か私は悪者になってしまうの」
「どういうこと?」
「見たらわかるよ……今すぐにさ」
そう言ったあと女子生徒は門に向けて歩き出した。
門はさあお入りと優しい笑顔で新入生をむかえてくれる。在校生にも、この場所で子どもたちに色んなことを教える先生にも。
新入生とその保護者が次々と門を通って学校へと入っていく。まるで吸い込まれているように見える。
女子生徒が門へと近づいたその時、門が勝手に動いて閉まった。ついさっきまでここにいた在校生、新入生、その保護者の姿は綺麗さっぱり無くなった。ここには女子生徒と少年の二人だけ。
風が吹いて二人の髪を揺らす。
少年はじっと女子生徒を見て、閉まった門も見た。髪や葉っぱや花は今もなお揺れているだろうが、彼女の心は酷く傷ついているだろう。だからこそこんな夢が出来上がったわけで、少年が呼ばれたのだ。
「私は嫌われているんだよ」
その後ろ姿は悲しげだった。
「門が閉まるのはそういうことだよ」
風がやんでしんとしているから女子生徒の声がよく響く。
「私は何もしていないけどさ、どうやったって悪者にされる」
そして振り向いて少年にその顔を見せた。涙でぐちゃぐちゃになった顔を。
少年はその顔をじっと見て、女子生徒が涙を流しながら口を開けて心に溜まったものを吐き出した。
◇
胸をときめかせて、新しい場所での新しい毎日。昨夜は緊張してなかなか眠れなかった、眠ろうと思えば思うほど胸をドキドキさせて目が覚めてしまう。やっと眠れたと思ったら目覚まし時計が鳴って、それも結構早めに。外はまだ暗くて、でも今日はもう始まっていて、数時間後には新しい場所でのスタートラインに立つわけで。
そうしていたら頭が痛くなってきたような気がして、お腹も痛くなってきたような気がして、もうダメだこんなんじゃ万全な状態で行けないとイライラして。そしたら声をかけられて、お父さんとお母さんも早めに起きていて。二人とも自分に合わせてくれたのかなと思ったり、二人の顔を見たら頭が痛いのもお腹が痛いのもどっか飛んでいったような気がしたり。
暖かい飲み物を飲んだり、テレビを点けたり、新聞を読んだり、皆毎朝している事を普段通りしている。私は普段毎朝何をしていただろう、毎朝しているはずなのに何故かわからなくなる。でもとりあえず暖かい飲み物を飲んで心を落ち着かせよう。
そしてゆっくりと流れていたと思っていた時間は案外早くて、もう新しい場所へと向かわなくちゃいけない時間になっていたわけだ。新しい服、新しい鞄、それらを身につけ持って部屋を出て廊下を歩いて階段を下りたらもう二人は待っていて。準備できたかなとか、その服似合ってるねとか、なんでもないことが嬉しく思えてきて。そして玄関のドアを開けて暖かな光を浴びる。
目的地に着くまでの道中はなんだか足が重くなったような気がして。ここにきてまた頭が痛いような、お腹が痛いような、もうわけがわからなくなりそうな気がしてきて。そうしていたら何だか泣きたくなってきて、急に不安で不安で仕方なくなってきて。何も怖いことなんてないのに、何故かとても怖いことのように思えてきて。
気がついたら私は足を止めて、来た道を引き返していて。心の中ではそんな事しないでよと叫んでいる、でも両足は言うこと聞いてくれなくてどんどん歩いていく。不安だけどそれは緊張しているだけ、私がこんなにも弱い人間なんだと今わかったの、だから信じられなくて信じたくない気持ちはあるけど逃げ出すのだけはしたくない。私はずっと心の中で叫ぶ、ひょっとしたら本当に叫んでいたかもしれない。
すると手を握られた感覚があって、私の両足はようやく止まった。私は振り向いた、するとそこにいたのはお父さんだった。どうしたんだ急に、私が突然引き返したことに驚いている様子だった。そりゃあ驚くよ、お父さんの娘である私がこんな事したら。皆も同じように緊張しているわよ、お母さんはため息をつきながらそう言った。
そしてお父さんはこう言う、お前は俺に恥をかかせるのか。母も言う、しっかりしなさいよ笑われるのは嫌よ。これは幻聴か何かなのかな、私の耳へと聞こえてきたその言葉は信じられなかった。
あれ? 何なのこれは。さっき家で見た二人はあんなに優しかったのに、二人の顔を見たら不安なんてどっかに飛んでいったのに。でも今は全然そうならない、これは何でだろう何か嫌な予感がする。
早く行くぞ、お父さんに手を引っ張られた私は引き返せなかった。今思えばここで引き返していたら良かった、この時の嫌な予感はすぐに当たったのだから。
でもそんなこと言われても私は何も知らなかった、だからどうする事もできなかったし知っていたとしても私は何も言えなかっただろう。やっぱり私は弱い人間なんだ、弱いから何も言えないんだ。
私はお嬢様学校に入学した。品があって、美しくて、輝いていて、憧れの場所。そう言っている人が何人もいる、私もそう思っていた。しかしそんな場所ではなかった。
そう見えるだけ、そう思うだけ、そう見えたほうが夢があって良かったしいつまでもそう思っていたかった。
合格した時はとても嬉しかった、嬉しくて涙を流したのは多分この時が初めて。お母さんも喜んでくれた、お姉ちゃんだってお爺ちゃんだってお婆ちゃんだってみんな喜んだ。お父さんも喜んでいたのに、あんなにも優しい笑顔だったのに。
涙なんて流さなければ良かった、嬉しくて流すものは大事にとっておけばよかった。だって私はお父さんの力で合格したんだから。