終章 ただのエリザベートとして
湖の光が、目に痛いほど白かった。
レマン湖の水面は、細かな銀の破片を散らしたように揺れている。
風は冷たすぎず、けれどやさしいとも言い切れない。
旅先の風はいつもそうだった。
どこへ行っても、私は私から逃げきれなかった。
宮廷を離れても。
海を見ても。
山へ登っても。
知らぬ町の通りを歩いても。
私の背中には、いつも名がついてまわった。
皇后陛下。
美しい方。
お気の毒な方。
風変わりな方。
悲しみに沈む方。
誰も、ただのエリザベートとは呼ばなかった。
呼べなかったのだろう。
私自身でさえ、いつからかその名をうまく思い出せなくなっていた。
私は黒い衣の裾を押さえ、侍女の少し前を歩いていた。
急がなければならないと言われていた。
船の時間がある。
予定がある。
人目がある。
人生の終わり近くになっても、私はまだ何かに急かされている。
おかしなことだと思った。
私はずっと逃げてきたのに。
逃げても逃げても、誰かが私の行き先に名前をつけた。
皇后の旅。
皇后の憂愁。
皇后の奇行。
皇后の美。
美。
その言葉には、もう疲れていた。
若い頃は、たしかにそれが私を守るものだと思ったこともある。
美しければ、人々は少しだけ満足した。
細く、白く、長い髪を持ち、静かに微笑んでいれば、周囲は安心した。
私はまだ皇后でいられる。
まだ壊れていないように見える。
まだ誰かの夢を壊さずに済む。
そう思われているのだと知っていた。
だから私は鏡の前に立った。
髪を整えた。
食べるものを選び、体を絞り、歩き、乗り、走り、逃げた。
自分のものにならない人生の中で、せめて体だけは自分のものにしたかった。
けれど体も、やがて牢になる。
髪も、腰も、肌も、目も、全部が私を閉じ込める。
誰かが私を見る。
そこにいる私ではなく、見たい私を見る。
美しい皇后。
哀れな母。
孤独な妻。
自由を愛した女。
私はそれらすべてであり、同時にどれでもなかった。
姉さま。
ふいに、その名が胸に浮かんだ。
ヘレーネ姉さま。
あなたなら、今の私を何と呼ぶだろう。
皇后とは呼ばない気がする。
きっと少し困った顔をして、シシィ、と呼ぶ。
昔のように。
まだ私が窓の外の山ばかり見て、母さまに叱られていた頃のように。
あの夏を、私は何度も思い出した。
バート・イシュルの青い空。
姉さまの整った横顔。
母さまの期待。
若い皇帝のまっすぐな視線。
あの視線が私を選んだ時、私は何を得たのだろう。
愛。
王冠。
宮廷。
国。
名前。
そして、いくつもの喪失。
私は姉さまから何かを奪ったのだと思っていた。
姉さまの未来を。
姉さまが立つはずだった場所を。
姉さまが受けるはずだった祝福を。
でも、長く生きてみればわかる。
私が奪ったのは、幸福とは限らなかった。
姉さまは、暖炉のある家へ行った。
私は、鏡のある部屋へ行った。
姉さまは夫の手を握り、子を抱き、泣きたい時に泣いた。
私は皇后として立ち、母として泣くことさえ、どこかで形を整えねばならなかった。
それでも私は、姉さまを羨んでいた。
ええ、羨んでいたのよ。
姉さまの静かな家を。
誰かの眠りを見守れる夜を。
子を抱いて、ただ母でいられる時間を。
夫の前で弱くいられる場所を。
私には、それがひどく遠かった。
私は愛されていたのだと思う。
それを否定するほど、私は冷たい女ではない。
陛下は私を愛してくださった。
あの方なりに、誠実に、深く。
けれど愛だけでは、人は救われないことがある。
愛の向こうに国があり、義務があり、母があり、宮廷があり、歴史があった。
あの方の腕に抱かれても、その腕の向こうに帝国が見えた。
私は妻である前に皇后だった。
母である前に皇后だった。
女である前に皇后だった。
そして、いつの間にか私自身も、それ以外の自分を見失っていった。
ゾフィー。
私の小さな子。
あの子の名を思うと、今でも胸のどこかが幼いまま痛む。
私は母だったのだろうか。
ちゃんと母だったのだろうか。
抱きたい時に抱けず、守りたい時に守れず、失ったあとでさえ、十分に泣けなかった。
人々は慰めた。
天使になったのだと。
神の御心だと。
若いのだからまた子を授かると。
その言葉のひとつひとつが、私の中で冷たい石になった。
次の子が生まれても、失った子は戻らない。
新しい命は、亡くした命の代わりではない。
そんな当たり前のことを、私は誰に言えばよかったのだろう。
ルドルフ。
私の息子。
あの子を失った時、私はもう若くなかった。
若くなかったのに、悲しみ方だけは何も上手になっていなかった。
人は何度失えば、失うことに慣れるのかしら。
きっと、慣れない。
慣れてはいけないのだと思う。
けれど世界は、悲しみを待ってはくれない。
人々はすぐに意味を探す。
政治を語り、未来を語り、責任を語り、歴史を語る。
私はただ、母として泣きたかった。
でも私は、また皇后だった。
いつもそう。
何かを失うたび、私の前には私より大きな名が立ちはだかった。
皇后。
陛下。
お立場。
ご威厳。
ご責務。
そのたびに私は、自分の名前を少しずつ後ろへ下げた。
エリザベートはどこへ行ったのだろう。
シシィはどこへ行ったのだろう。
姉さまなら、見つけてくれただろうか。
あなたの手紙は、いつも不思議だった。
宮廷の言葉ではなかった。
慰めとして整いすぎてもいなかった。
時々、痛いほどまっすぐだった。
泣いていい。
母でいていい。
美しさだけがおまえではない。
そんなことを言われるたび、私は困った。
困って、泣きたくなった。
だって本当は、誰かにずっとそう言ってほしかったから。
あなたは私を人として見てくれた。
皇后ではなく。
肖像画ではなく。
噂ではなく。
美しさでもなく。
ただの、あなたの妹として。
私はそれに、何度も救われた。
それなのに私は、あなたの最期に間に合わなかった。
姉さま。
あなたがこの世を去ったと聞いた時、私は何を思ったのだったかしら。
悲しい、より先に、置いていかれたと思った気がする。
あなたは暖炉のある場所へ行ってしまった。
私はまだ、風の中に残された。
あなたは私より先に、重いものを下ろしたのだと思った。
ずるいわ、と少し思った。
でも同時に、よかったとも思った。
あなたはきっと、自分の人生を抱いて逝けたのでしょう。
夫のこと。
子らのこと。
泣いた夜のこと。
幸福だった朝のこと。
全部を、自分の胸の中に持って。
私はそれが羨ましかった。
私は何を持って逝けるのだろう。
王冠は持っていけない。
髪も持っていけない。
肖像画の中の顔も、噂も、称賛も、嘆きも、何ひとつ持っていけない。
それなら私は、何を持っていくのだろう。
湖の光が、また目に入った。
侍女が何か言った。
船に遅れます、と言ったのかもしれない。
私は歩き出した。
その時だった。
誰かが近づいてきた。
見知らぬ男。
通りすぎる影。
ほんの一瞬の重なり。
胸に、小さな衝撃があった。
痛みというほどではなかった。
誰かがぶつかったのだと思った。
ただ、それだけだった。
私は足を止めなかった。
不思議ね。
あれほど長く生きた人生の終わりは、もっと大きな音を立てるものだと思っていた。
王冠が落ちるような音。
扉が閉まるような音。
馬車が遠ざかるような音。
けれど実際には、とても小さかった。
胸の奥で、何かが静かにほどけただけだった。
少し歩いたあと、体が軽くなった。
軽い。
あれほど軽さを求めていたのに、こんな軽さは知らなかった。
髪の重みが遠のく。
黒い衣の重みが遠のく。
名前の重みが遠のく。
皇后。
陛下。
母。
妻。
美しい方。
可哀そうな方。
どれも、私の体から少しずつ離れていく。
私は誰になるのだろう。
いいえ。
誰に戻るのだろう。
姉さま。
あなたなら、今の私を叱るかしら。
また無茶をして、と。
少しは落ち着きなさい、と。
それとも、もういいのよと言ってくれるかしら。
私は、疲れたわ。
この言葉を口にすることさえ、ずっと許されない気がしていた。
疲れた。
皇后でいることに。
美しくいることに。
強く見えることに。
誰かの悲劇であり続けることに。
逃げても逃げても、名前に追いつかれることに。
私は少し眠りたい。
ただの眠りではない。
朝になればまた髪を結われ、黒い衣を着せられ、誰かの視線の中へ出ていく眠りではなく。
もう何者にも戻らなくていい眠り。
もし神さまが本当にいらっしゃるなら。
もし死の向こうに、姉さまの言っていたような暖炉のある場所があるなら。
そこではどうか、私を皇后と呼ばないでください。
陛下とも。
美しい方とも。
お気の毒な方とも。
ただ、エリザベートと呼んでください。
いいえ。
シシィでもいい。
窓の外ばかり見て叱られていた、あの頃の名で。
私はもう、王冠はいらない。
扇もいらない。
黒い衣もいらない。
髪の重みも、細い腰も、誰かを安心させる微笑みもいらない。
私はただ、息をしたい。
ずっと昔、バート・イシュルの山を見た時のように。
空が広くて、まだ何も決まっていなかった時のように。
姉さまが隣にいて、私はただ妹でいられた時のように。
体が沈む。
人々の声が遠くなる。
誰かが私の名を呼んでいる。
でもその声は、こちらへ届く前に水の光へ溶けていく。
私は目を閉じた。
遠くで、暖炉の火がはぜる音がした気がした。
そんなはずはない。
ここは湖のそばで、空気は冷たく、私の家ではない。
けれど確かに、火の音がした。
それから、懐かしい声が聞こえた。
「遅かったわね」
私は笑ったのだと思う。
もう顔が笑えたのかどうか、自分ではわからない。
けれど胸の奥は、たしかに少しゆるんだ。
姉さま。
私は言った。
ごめんなさい。
ずいぶん遠回りをしたわ。
声になったのかはわからない。
それでも姉さまは、きっと聞いてくれただろう。
だって姉さまは昔から、私が言葉にする前のことまで、時々わかってしまう人だったから。
暖炉の光が近づく。
そこには王冠も、鏡も、宮廷もない。
誰かの視線もない。
私を測る声もない。
ただ、あたたかな火がある。
そして、姉の声がある。
私はようやく、名前のない重い衣を脱ぐ。
皇后ではなく。
悲劇でもなく。
肖像画でもなく。
ただのエリザベートとして。
姉さまの、少しわがままで、風ばかり追いかけていた妹として。
私はそこへ、帰っていった。
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