祈りの光
皇居・宮殿「松の間」。
戦後八十余年。
日本が国際連合安全保障理事会の常任理事国として、新たな責務を担うこととなった歴史的な節目。
その日、皇居では三権の長や閣僚らを前に、静かな式典が執り行われていた。
華美な演出はない。
勝利を誇示する音楽もない。
まして、軍艦も戦闘機もここには存在しない。
広い松の間を満たしているのは、人々が息を整える微かな気配と、張り詰めるほどに清冽な静寂だけだった。
やがて。
天皇陛下がお立ちになった。
居並ぶ者たちは、一斉に姿勢を正す。
陛下はゆっくりと会場を見渡された後、静かで穏やかな、しかし芯のある御声でお言葉を述べられた。
「戦後八十有余年、我が国は一貫して平和を愛し、国際社会との調和を重んじて歩んでまいりました。今日の我が国の平和と繁栄は、先人たちの並々ならぬ努力と、幾多の尊い犠牲の上に築かれたものであることに、深く思いを致します」
その御声が、静かな空間へ染み渡っていく。
誰一人、身じろぎしない。
御子柴総理もまた、最前列で深く頭を垂れたまま、その一言一言を受け止めていた。
「現在、世界は大きなうねりの中にあり、国内外において困難な課題が山積しております。争いや対立が絶えない地域に思いを馳せるとき、深く心が痛みます。
しかし、この度、我が国が国際社会の新たな柱として、より一層大きな責任を担うこととなったと聞き及んでおります。これは誇りであると同時に、重き責務の始まりでもありましょう」
御子柴は、静かに目を閉じた。
これまでに起きたことが、脳裏をよぎった。
荒れた海。
炎上する艦。
帰ってこなかった者たち。
外交のテーブルで交わされた、決して表には出せない言葉。
日本がここへ辿り着くまでに、あまりにも多くのものが、光の届かない場所へ沈んでいった。
だが。
陛下のお言葉には。
「勝利」という言葉はなかった。
「覇権」もない。
「報復」も。
「武力」も。
そして当然。
S.O.D.U.の名もなかった。
そこにあったのは、ただ国を想い、人々を想い。
争いのない未来を願う、静かな祈りだけだった。
「我が国がこれまで培ってきた叡智と寛容をもって、世界の国々と手を携え、人々が安心して暮らせる平和な海と、対話による穏やかな未来が築かれることを、切に願っております。
国民一人一人の安寧と、世界の平和を、心から祈念いたします」
御言葉が終わった。
しばらく。
誰も動かなかった。
拍手さえ、すぐには起こらない。
静寂そのものが、その言葉を受け止めているようだった。
御子柴は、深く頭を垂れた。
視界が滲んでいた。
頬を伝った一筋を、拭おうとはしなかった。
――そうか。
ようやく分かった気がした。
自分たちが何を守ろうとしてきたのか。
国家の威信ではない。
世界に威張るためでもない。
どこかの国を屈服させるためでもない。
朝になれば人々が仕事へ向かい。
学校へ行き。
店が開き。
漁船が海へ出て。
誰かがくだらないことで笑って。
家族が夕食を囲む。
そんな、何でもない一日。
その「何でもない」が続く国。
陛下が願われるのは、きっとそういう国なのだ。
御子柴は、胸の内で静かに思った。
陛下のお手が、血に濡れる必要などない。
ここに、硝煙の匂いが届く必要もない。
政治が背負うべきものは政治が背負う。
そして。
あの海の底で生きる者たちが背負うと決めたものは、彼らが背負う。
その先に。
この静かな場所が残るのなら。
それでいい。
式典が終わり、陛下が御退席になる。
御子柴をはじめ、居並ぶ者たちは深々と頭を下げ、その御姿を見送った。
扉が静かに閉じた後も。
誰もすぐには顔を上げなかった。
やがて御子柴は、ゆっくりと息を吐く。
その表情には、これまでの高揚も、勝ち誇った色もなかった。
ただ。
一国の責任を背負う者としての、重い覚悟だけが残っていた。
「……平和な海、か」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
御子柴は窓の向こうに広がる東京の空を見た。
「簡単に言ってくださる」
ほんの僅かに。
苦笑する。
だが。
その目は、どこか晴れていた。
同時刻。
陽光が一切届かない、地下深く。
S.O.D.U.極秘地下基地・第一ドック。
皇居の静謐とは対照的に、ここには鉄の音が満ちていた。
溶接機が火花を散らす。
クレーンが低く唸る。
焼けた装甲を切り取る工具の音が、巨大な地下空間に何重にも反響している。
その中央に。
一隻の巨艦が横たわっていた。
戦略打撃護衛艦『てんかい』。
かつて世界中の海軍を震え上がらせた、北斗打撃群の「矛」。
しかし。
今、その姿に無傷だった頃の威容はない。
黒いステルス装甲は各所で焼け。
何枚もの外板が剥がされ。
船体には応急修理の痕跡が残る。
艦首の長大な電磁投射砲も、砲身の一部を分解され、整備員たちが群がっていた。
それでも。
『てんかい』は浮いている。
沈まなかった。
帰ってきた。
巨大な防爆ガラスの前。
天城少将は一人、その姿を眺めていた。
手には自動販売機で買った紙カップのコーヒー。
高級なものではない。
冷えた地下基地では、十分だった。
背後から足音がした。
如月二佐だった。
「式典、始まった頃でしょうか」
「もう終わった頃だろう」
「中継、ご覧にならなかったんですか?」
「見たよ」
天城は目を離さない。
「少しだけな」
如月も隣に立ち、『てんかい』を見上げた。
しばらく二人とも黙っていた。
やがて天城が言った。
「陛下は」
一度、言葉を止める。
「平和な海を、と仰った」
「はい」
「世界と手を携えて、対話による未来を、と」
如月は小さく頷いた。
目の前では。
巨大な装甲板がクレーンでゆっくりと吊り上げられている。
その裏側には。
敵弾によって抉られた、深い傷が残っていた。
天城はそれを見る。
「……随分と難しい注文だ」
如月が僅かに笑う。
「司令なら、もっと物騒なものをご所望になると思っていました」
「勘違いするな」
「?」
「俺たちが物騒なのは」
天城は紙コップに口をつけた。
「平和な方が楽だからだ」
如月が一瞬、言葉を失う。
その直後。
小さく吹き出した。
「それ、隊員に言ったら呆れられますよ」
「構わん」
天城も僅かに笑った。
だが。
その表情はすぐに消えた。
視線の先。
『てんかい』の艦体。
あの傷の一つ一つの向こうに。
帰ってこなかった人間がいる。
『ずいうん』が沈み。
星野が死に。
大山たちは生き残った。
北斗打撃群は。
無敵ではなかった。
そして。
無敵である必要もないのかもしれない。
必要なのは。
最後まで立っていることだ。
守るべきものが残っている限り。
天城は紙コップを持った右手を僅かに上げた。
乾杯というほど大袈裟なものではない。
ただ。
傷だらけの『てんかい』へ。
「聞いたか」
誰にともなく言った。
「平和な海だそうだ」
当然。
巨大な鋼鉄の艦から返事などない。
整備の音だけが響いている。
天城は薄く笑った。
「なら、そうしてやろう」
声は静かだった。
力を誇示する響きもない。
憎しみもない。
ただ。
軍人として。
一人の日本人として。
決めたことを確認するような声だった。
「誰かが朝、何も知らずに海を見て」
「今日も平和だな、と言えるくらいにはな」
如月が隣で、小さく息を吐いた。
「相変わらず、仕事量だけは簡単に増やしますね」
「嫌なら転属願を出せ」
「受理していただけるなら考えます」
「しない」
「でしょうね」
二人の短いやり取りをよそに。
ドックでは再び、溶接の青白い光が弾けた。
一つ。
また一つ。
傷ついた艦体を繋ぎ直していく。
地上では。
人々が皇居から流れるニュースを見ている。
誰かが夕食の支度をし。
誰かが仕事から帰り。
どこかの港では、明日の漁に備えて船が整備されている。
その誰も。
地下深くで。
一隻の巨大な軍艦が修復されていることなど知らない。
知らなくていい。
ここは光の当たる場所ではない。
褒められる必要もない。
名前を覚えてもらう必要もない。
ただ。
陛下が願われた。
「人々が安心して暮らせる平和な海」。
その言葉を。
誰かが現実にしなければならない。
天城は傷だらけの『てんかい』を見上げたまま。
冷め始めたコーヒーを、静かに飲み干した。
そして。
「よし」
短く言った。
「直すぞ」
その一言を合図にしたわけでもないのに。
地下ドックに、再び鋼鉄を叩く音が響いた。
それは勝利を祝う鐘ではなかった。
世界を威圧する砲声でもなかった。
明日もまた。
日本のどこかで。
何事もない朝を迎えるための音だった。




