女王の盾、深淵を乞う
大西洋の冷たい海に引かれた、NATOの絶対防衛線『GIUKギャップ』。
かつて世界の海を支配した大英帝国、その誇り高きイギリス海軍のソナー網が、完全に沈黙した夜があった。ロシア連邦海軍が極秘裏に放ったポセイドン級の系譜を継ぐ無人戦略潜水艇が、誰にも気づかれることなくロンドン沖の目と鼻の先まで到達していたのだ。
イギリス海軍がその事実に気づいたのは、自国の探知システムによるものではなかった。
極東の島国から送られてきた、たった1通のデータリンク。S.O.D.U.所属の超弩級原子力潜水艦『SSN-X しんえん』が、ロシアの無人艇の航跡を完全に捕捉し、親切にもイギリス海軍省へ「警告」として送りつけてきたのである。
同時に、中東ホルムズ海峡では某国によるステルス機雷の敷設疑惑が浮上。最新鋭の45型駆逐艦ですら、探知不可能な見えない脅威の前に足止めを食らっていた。
プライドでは、もはや国を守れない。
イギリス政府は、血を吐くような屈辱を飲み込み、極秘裏に日本へ特使を派遣する決断を下した。
数日後。日本国、神奈川県。海上自衛隊とアメリカ海軍が共同使用する厚木基地。
イギリス空軍のVIP輸送機が、滑走路に静かに降り立った。タラップを降りたのは、イギリス国防大臣と第1海軍卿、そして彼らを護衛するイギリス陸軍特殊空挺部隊『SAS』の精鋭たちである。
彼らを迎え入れたのは、日本の警察車両と、一切の部隊章を持たない漆黒のS.O.D.U.専用装甲SUVの車列だった。
VIPを乗せた車列は、厚木基地から横須賀基地へ向けて出発した。しかし、道中、同乗していたSASのベテラン護衛官は、背筋を這い上がるような強烈な悪寒に襲われていた。
「……サイレンを、鳴らしていないだと?」
通常、国賓級の車列はパトカーの先導と派手なサイレンで交通規制を行う。しかし、この車列は完全な無音で横須賀への道をひた走っていた。
前方を走るS.O.D.U.のSUVが交差点に近づくたび、あたかも魔法のように信号機が青に変わる。一般車両の自動運転システムは、車列を避けるように極めて自然に路肩へと寄っていく。
S.O.D.U.の戦略指揮巡洋艦『CG-X たかお』に搭載された量子AIが、都市の交通ネットワークと監視カメラをリアルタイムで完全掌握し、サイバー空間から物理的な道を切り開いているのだ。
さらにSASの護衛官は、前方を走るS.O.D.U.車両の異様な挙動に息を呑んだ。
あの装甲の厚みとタイヤの沈み込み。どう見ても車両重量は装甲兵員輸送車(APC)並みのはずだ。それなのに、スポーツカーのような軽快な加速と、物理法則を無視したようなコーナリングを見せている。メタマテリアル装甲と未知の動力源による圧倒的な性能差。
やがて車列は、アメリカ海軍第7艦隊が駐留する横須賀本港のゲート前を通過した。
星条旗がはためく同盟国の基地。本来ならばあそこへ頼るべきイギリスのトップたちが、逃げるように、顔を伏せて通り過ぎていく。車内を満たすのは、大国の凋落を象徴するような重苦しい沈黙だった。
車列は、海上自衛隊の吉倉桟橋に到着した。
巨大なヘリコプター搭載護衛艦『DDH いずも』の巨体が、灰色の壁となって彼らを見下ろしている。
車から降りたSASの隊員たちは、要人を囲むように展開し、特殊なセンサーグラス越しに周囲を警戒した。その瞬間、隊員の一人が小さく呻き声を上げた。
「……上だ。動くな」
海自の建物の屋上、補給塔のクレーンの上、さらには何もないはずの空間。光学迷彩によって周囲の景色に完全に同化していたS.O.D.U.の狙撃手たちが、一斉に不可視の照準レーザーをSAS隊員たちの眉間にピタリと合わせていた。
出迎えるS.O.D.U.の警備部隊は、階級章も国籍マークもない漆黒のタクティカルギアに身を包み、スマートスコープが搭載された独自改修型の『20式小銃』と、サプレッサー付きの『SMG』を構え、微動だにせず立ち尽くしている。
自衛隊でも警察でもない、完全に独立した暴力のシステム。SASの精鋭でさえ、一歩でも怪しい動きをすれば即座に脳天を吹き飛ばされるという無言の圧力に、冷や汗を流すしかなかった。
『いずも』の艦内。士官次室を改装した特設会議室。
イギリス代表団が席についた直後、SASの通信担当官が、本国のダウニング街10番地(首相官邸)と結ばれた最新鋭の量子暗号通信機を立ち上げようとした。
しかし、デバイスの画面が突如として乱れ、砂嵐の直後、冷酷な『S.O.D.U.』のエンブレムが表示されてフリーズした。
「ああ、申し訳ありません。デバイスの電源はお切りください」
会議室の奥から現れた特命担当官の深山が、冷たい笑顔で眼鏡を押し上げた。
「すぐ隣に停泊している『たかお』の電子戦システムが、半径50km圏内の未登録の暗号通信を、自動的に焼き切ってしまったようです。ここでは、我々の許可なく本国へ助けを呼ぶことはできませんよ」
通信担当官が青ざめる中、上座に座る天城少将が静かに口を開く。
「それに、頭上を気にする必要もありません。現在、東京湾の入り口に浮かぶ防空護衛艦『DDG-M01 ずいうん』が、この『いずも』を中心とした完全な防空ドームを形成しています。たとえ貴国が弾道ミサイルを撃ち込んできたとしても、我々の会議のティーカップが揺れることはありませんから」
電子の檻と、絶対の盾。完全なS.O.D.U.の支配領域。
イギリス国防大臣と第1海軍卿は、完全に場を呑まれた状態で交渉のテーブルにつかざるを得なかった。
「……単刀直入に申し上げよう」
第1海軍卿が、重い口を開いた。
「我が国が計画中の次世代駆逐艦『TYPE 83』。その船体設計から推進システム、火器管制に至るまで……S.O.D.U.の技術をベースに、共同開発、あるいは一括購入させてほしい」
主権国家、それも国連安保理の常任理事国としては異例中の異例のオファーだった。
天城少将は、微かに口角を上げて嗤った。
「かつて七つの海を支配した大英帝国の誇りは、大西洋の海底にでも捨ててきたのですか?」
屈辱的な言葉に、イギリス側の将官たちが拳を握りしめる。だが、第1海軍卿は首を振った。
「……誇りでは、潜水艦の一隻も沈められない。我々が必要なのは、過去の栄光ではなく『現在の勝利』だ。貴国らの技術がなければ、我が国の海軍は10年以内に鉄屑の集まりになる」
沈黙が下りた。
深山が、手元のファイルを開き、冷徹なビジネスのトーンで条件を突きつける。
「条件は2つです。1つ、我々が提供するのは完全にブラックボックス化された『完成品』のみ。船体の分解やリバースエンジニアリングは、国際法を超越したS.O.D.U.条項により厳禁とします。違反した場合は、遠隔操作でシステムを自壊させます」
イギリス側が息を呑む。それはつまり、イギリスの国防の心臓部を、永遠にS.O.D.U.に握られることを意味していた。
「そして2つ目。対価は資金ではありません。……大英帝国が過去の遺産として世界中に張り巡らせている、海底ケーブル網。その中枢へのアクセス権の30パーセントを、我が部隊に譲渡していただきます」
「なっ……! それは、世界の情報の喉首を差し出せと言うことか!」
国防大臣が立ち上がりかけたが、天城の氷のような視線に射すくめられ、力なく椅子に崩れ落ちた。
拒否権など、最初から存在しなかった。
ロシアの潜水艦の影に怯え、中東で足止めを食らう現実への恐怖が、大英帝国のプライドを完全にへし折ったのだ。
歴史的な盟約が、海自の艦内で静かに結ばれた。
世界のパワーバランスが、アメリカ主導の既存秩序から、特務機動艦隊『北斗打撃群』を中心とした新たな深淵のルールへと書き換えられた瞬間であった。




