深淵からの探信音
チェックメイトですの。
太陽の光すら届かない、漆黒の太平洋・水深150メートル。
アメリカ海軍所属、バージニア級原子力潜水艦『ミシガン』の発令所は、薄暗いブルーの照明と、計器類が発する無機質な電子音に包まれていた。
「――ソナー室より発令所。頭上のターゲット、引き続き強烈なジェット音を放射中。音響紋から、F-35Bのホバリング及び発艦プロセスのものと推測されます」
ヘッドホンを耳に押し当てたベテランのソナー長が、淡々と報告を上げる。
発令所の中央で腕を組んでいた『ミシガン』の艦長、リチャード・マクシミリアン中佐は、マグカップのコーヒーを一口啜ると、薄く笑みを浮かべた。
「威勢がいいな、日本の新型空母は。上空はお祭り騒ぎだ。おかげで演習の電波も音響データも、こちらで丸見えだがな」
バージニア級原潜は、世界最高峰の静粛性と情報収集能力を誇る「深海の忍者」だ。
彼らは極秘裏にS.O.D.U.の演習海域に潜入し、その能力を測るためのスパイ活動を行っていた。頭上の『こうよう』が発するノイズに紛れていれば、探知される危険は皆無に等しい。マクシミリアン艦長はそう確信していた。
しかし。
その絶対の自信は、ソナー長の次の一言で脆くも崩れ去ることになる。
「……艦長。方位1-8-0から、未確認の推進体が急速接近! 距離およそ8,000ヤード!」
「なんだと? 魚雷か!」
「いえ、違います! スクリュー音が……ありません! キャビテーションもゼロ! ですが、猛烈な勢いで海水を押し退けて接近してきます!」
ソナー長の声が、明らかな恐怖で上ずっていた。
マクシミリアン艦長は咄嗟にソナー・コンソールへと歩み寄り、モニターを覗き込む。
水中の物体は、スクリューを回せば必ず「音」が出る。音を出さずに高速移動するなど、物理学的にあり得ない。だが、モニターに表示されたその巨大な「影」の速度表示を見て、艦長は息を呑んだ。
「速度……50ノットだと!? 馬鹿な! どんな巨大な魚雷だ!」
「魚雷ではありません、質量からして潜水艦クラスの巨大な構造物です! 信じられません……まるで、幽霊が海中を滑っているうな……!」
無音のまま、あり得ない速度で急接近してくる正体不明の影。
それはS.O.D.U.が誇る超弩級潜水艦『しんえん』であった。次世代の超伝導磁気推進(MHD)システムにより、スクリューを一切持たず、海水を電磁力で後方へ撃ち出すことで完全無音の高速機動を可能にしているのだ。
「面舵一杯! 深度を200まで下げろ! 回避行動!」
「駄目です、振り切れません! 敵影、我が艦の真後ろにピタリと張り付いています! ……あっ」
発令所の空気が凍りついた。
ソナー長の画面から、50ノットで追尾してきていた『しんえん』の反応が、フッと完全に消失したのだ。
「消えました……! 周囲に一切の音響反応、なし!」
「そんな馬鹿なことがあるか! 1万トンクラスの鉄の塊が、瞬きする間に海中で消滅するわけが――」
マクシミリアンが怒鳴りかけた、その瞬間だった。
――ピィィィィン!!
腹の底を直接殴られたような、鼓膜をつんざく強烈な高周波音が『ミシガン』の船体を激しく揺さぶった。
アクティブ・ソナー(探信音)
潜水艦同士の戦いにおいて、これを発信するということは「お前の位置は完全に把握した。いつでも撃てるぞ」という、絶対的な死の宣告を意味する。
「探信音探知! 真下からです!!」
「距離と深度を読め!!」
叫ぶ艦長に対し、ソナー長はモニターに映し出された数値を何度も見返し、そして、幽鬼を見るような目でゆっくりと振り返った。
「……深度、3,000メートル。距離およそ2,800メートル下方の海底から……我が艦を見上げています……」
発令所が、水を打ったように静まり返った。
乗員たちの顔から一気に血の気が引いていく。
「……あり得ない。絶対にあり得ない!」
マクシミリアンはコンソールを力任せに叩きつけた。
「我がバージニア級の圧壊深度の何倍だと思っている! そんな深海を這い回れる原子力潜水艦など、この地球上に存在するはずがない!」
水深3,000メートルの水圧は、1平方センチメートルあたり約300キログラム。いかなる高張力鋼の船体であろうと、一瞬でひしゃげて紙屑のように押し潰される死の世界だ。
「ソナーの故障だ! システムを再起動しろ! でなければ説明がつかん!」
「し、しかし艦長、音波の反射角は間違いなく――」
――ピィィィィン!!
乗員たちの現実逃避を嘲笑うかのように、二度目の無慈悲な探信音が、再び深淵の底から『ミシガン』の船体を叩き上げる。
「……ッ!」
それは機械の故障などではない。
アメリカ海軍が誇る最新鋭原潜が、手も足も出ない暗黒の底から、完全に「狩られる側の獲物」として遊ばれているという、紛れもない事実だった。
上空ではF-35Bが空を舞い、深海では『しんえん』が米原潜を絶望の淵に追い詰める。
この日、太平洋の覇権は、静かに、そして完全にS.O.D.U. 、北斗打撃群の手へと渡ったのであった。
米軍クルーの常識が破壊される絶望感が表現できたかと思います。




