第38話 心残り
そろそろ行きますね――(美由紀の場合)
私は、もう随分と前に交通事故で死んだ。夫とは、仲睦まじいというほどではなかったが、かといって仲が悪いわけでもない、ごくごくありきたりな、普通の夫婦だったと思う。娘が一人いたけれど、すでに結婚し、母親になっている。娘の夫も、ごく普通の人だ。でも娘のことは大切にしてくれているようだったし、この先も大丈夫だろうと思われた。夫には特に何かを期待していたわけでもないが、大手企業に勤めていたので、老後の心配もしていなかった。
ただ――夫が定年退職した後、ずっと家にいるようになったら、何を話していいのか分からない。そんな思いはあった。夫は寡黙な人で、会話らしい会話は殆どなかった。最初はそれに不満を抱いたこともあったが、月日の流れとともに慣れてしまい、そのうち「喋らないのが普通」になっていた。
離婚という選択肢は、全く視野に入れていなかったから、定年退職が迫っても、その考えは浮かばなかった。世間では「熟年離婚」なんて言葉が流行っていたけれど、この歳になって離婚して、1人で生きるなんて想像もつかない。逆に、離婚を望むならもっと若いうちにしていただろう――私はそう思った。会話もなく、愛情がどれほどあるのかと問われると答えに詰まるけれど、長年連れ添った情はある。いい歳をして家事もろくにできない夫を、1人にしようとは思わなかった。――それでも。
長い間、2人だけで一緒にいることになると考えると、息苦しさを覚えた。夫が定年退職したら、パートにでも出ようかと思っていた。気分転換にもなるし、お小遣いもできる。何より、夫と二人きりで二24時間一緒、というのは、さすがにしんどい。
生前の私は、とあるカフェに時々立ち寄っていた。ある日、急に降り出した雨に、雨宿りも兼ねて中に入った。そこで私は、大学時代に付き合っていた彼によく似た若者に会った。
些細な喧嘩でそのまま終わってしまった人だ。ほとんど思い出すことさえなかったのに、その若者を見た瞬間、胸がちくりと痛んだ。――彼と結婚していたら、私の人生は変わっていたのだろうか。そんな思いが、胸をよぎった。
昔を懐かしんでいたわけではないが、それ以来、私はそのカフェに通うようになった。
コーヒーがそれほど好きだったわけじゃない。でも、そこのコーヒーは、美味しいと思った。それに、あの若者に会えるのが、ちょっと嬉しかった。昔の胸のときめきを思い出すようで、その午後のひとときが、私にとってはとても安らぐ時間だった。
でも――死んで何年も経った今、私は、このカフェが「普通のカフェではない」ような気がしてる。私は死んでからも、このカフェに通っている。生きている人には私が見えないけれど、マスターには、私の姿が視えている。だからといって、マスターが話しかけてくるわけでもない。ここには、他にも私のような者がやってくる。このカフェは、生者と死者を繋ぐ場所なのではないかと、私は思っている。
思いを残して死んだ者と、その死を受け入れられない生者が、集う場所。そうそう、私が死んでから、夫がこのカフェに現れたのには、少し驚いた。夫がそんなふうに私を思い出したり、心を寄せたりするとは思っていなかったから。私は、死んでみて初めて、夫との老後の穏やかな暮らしを思い描き、自分の死を嘆いた。……とはいえ、それが原因でこの世を彷徨っていたとも思えなかった。生きることに、それほど未練があったわけでもなかったから。死んでしまうと、いろいろな記憶が曖昧になる。私はなぜ、この世を彷徨っているのか――その理由が、この間ようやく分かったのだ。
私の死を、夫や娘、そして当の私以上に、胸を痛めている人間がいた。私の事故は、私が右折中に急ブレーキをかけたことで、直進してきた車がぶつかってしまった――ということだ。もちろん、その車がスピードを出しすぎていたことが大きな原因だが、そもそも私が急ブレーキをかけたには、理由があった。
いきなり飛び出してきた少年を避けたために起きたアクシデントだった。その子は、その場から逃げた。そして、自分のしたことに、ずっと怯えていた。成長したその青年を見て、私は彼の記憶と同化し、事故の全貌を思い出した。私は、死ぬ寸前、真っ青になって震えていた少年を見ていたのだった。
――ああ、そうだった。この少年が、私の心残りだったのだ。
ずっと忘れていたのに、おかしな話だけれど、死という不条理の前には、理屈などない。
「やっと、会えたわね」
でも、私がそう声をかけると、青年は怯えたような顔で逃げてしまった。……失礼な話だ、なんて思ったけれど、考えてみたら私は幽霊だ。自分のせいで死んだ女性が、幽霊になって目の前に現れ、微笑みかけてきたら――そりゃあ、怖いに決まっている。私としては優しく微笑んだつもりだったのだけれど……。
ならば、私はどうすればいいのだろう。この心残りを、私はどうやって解消すればいいのだろう。この思いが消えない限り、私は成仏できないのではないか――そんな気がしている。
こうして私は、ずっと死者として、この世を彷徨い続けることになるのだろうか。いつ果てるとも知れない、無限の時間の中を……。
でも、それからしばらく経ったある日。
ふわっと風に流されるように、身体が宙に浮いたかと思うと、私はいつの間にか自分の家にいた。そうしたら、仏壇と私の遺影の前で手を合わせている、あの青年がそこにいた。後ろには、夫と娘、そして孫の姿。私が死んだ当時、まだ2歳だった孫は、小学生になっていた。夫は「じいじ」と呼ばれて目を細めている。その光景を見て、やっぱり私も、あの光の中で、生きていたかったと、今さらながらに思った。
でも――やっと、言うことができた。
――あなたのせいじゃないから――
青年は、それが聞こえたかのように顔を上げた。すると私の前に、光の道が開けた。
ああ、やっと私も昇天するのか。そう思った。少し寂しい。けれど、踏み出そう。
目の前には、あのカフェの扉が見えた。やっぱり、ここが入り口だったんだ。
――さようなら、あなた。私、けっこう幸せでしたよ――
終
お読みいただきありがとうございます。
こちらは短編連作となります。
こちらのお話しは第4話「淡い想い」、第11話「私の席」、第23話「この世の狭間」と繋がっています。
また第1話「君の面影」、第8話「睨む女」、第15話「悪寒」、第27話「消えた女性」、第36話「後悔」と関連があります。
合わせてお読みいただければ幸いです。
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