第10話 帝都の空を取り戻せ(後編)
「……異常なし。次のセクターへ向かう」
英語のくぐもった声と共に、二人の海兵隊員がコンテナの横を通り過ぎようとしたその刹那。
ミコの影が、重力から解き放たれたかのように音もなく跳躍した。
「なっ――」
後方の兵士が気配に気づき振り返りかけた瞬間、ミコの手刀が暗視ゴーグルの下、頸動脈の急所を正確に打った。声すら上げさせず崩れ落ちる巨体。
その倒れる音を消すためにミコが空いた手で兵士の装備を支えたのと、前方の兵士が異変に気づいて銃口を向けようとしたのは同時だった。
「Enemy――!」
叫び声が喉から出るより早く、ミコは床を這うような極性の低い前傾姿勢から、兵士の懐へと潜り込んだ。古流武術の当身。硬く握られた拳が、防弾チョッキの隙間であるみぞおちを正確に撃ち抜く。
肺から酸素を強制的に吐き出され、白目を剥いて昏倒する兵士。ミコは二人の体を素早くコンテナの影に引きずり込み、見回りを終えたように偽装した。
『見事だ。だが時間は押している。地下エレベーターへ急げ』
「分かってる」
ミコは息一つ乱さず、基地の心臓部へ通じる地下エントランスへと滑り込んだ。
そこには、分厚い防爆扉と、網膜スキャン付きの厳重な電子ロックが立ち塞がっていた。
「ロキ、着いたわ。ロックの解除を」
ミコは電子パネルのカバーをナイフでこじ開け、そこから引き出した配線に、小型のバイパス端子を噛ませる。
『繋がった。……五秒待て。偽の生体データを流し込む』
秋葉原から遠く離れた別の隠れ家で、ロキは目にも止まらぬ速さでコードを打ち込んでいた。基地のローカル・セキュリティの監視網の隙間を縫い、アクセス権限を持つ将校の網膜データを偽造して認証サーバーへと叩きつける。
ピピッ、という短い電子音と共に、重厚な防爆扉がゆっくりとスライドした。
「開いたわ」
ミコはエレベーターに乗り込み、地下二階の「作戦情報センター(OIC)」へと降下していく。
基地の地下は、冷たい青色のLEDライトに照らされた無機質な空間だった。深夜ということもあり、巡回は少ない。ミコは監視カメラの死角を正確に縫うように進み、ついに目的のメインサーバー室へと辿り着いた。
「……これが、アメリカの頭脳ね」
ガラス張りの部屋の奥には、黒々とした巨大なサーバー群が、低い駆動音を立てて鎮座している。
ミコは一番奥にあるマスタールーターの物理ポートを見つけ出し、手の中に握りしめていた漆黒のデバイス『スサノオ』を、真っ直ぐに差し込んだ。
『接続完了だ。よくやった、ミコ!』
ロキの弾んだ声がイヤホンから響く。
外部から完全に隔絶されていた横田基地の深層ネットワークに、ロキの操作する『ヤタガラス』の群れが、スサノオの不可視トンネルを通って一斉になだれ込んだ。
「さあ、見せてもらおうか。この国を裏から縛り付けている鎖の正体を」
ロキのモニターに、これまで決して表に出ることのなかった「日米合同委員会」の極秘議事録や、日米地位協定の裏にある『密約』のデータが滝のように流れ込んでくる。
「……なるほどな。クソッたれ」
データを高速で走査していたロキの口から、激しい怒りに満ちた呪詛が漏れた。
「どうしたの、ロキ?」
『有事の際、自衛隊の指揮権を完全に米軍が掌握するプロトコル。それだけじゃない。日本の検察や警察の上層部に圧力をかけ、米軍人やその関係者の犯罪を揉み消してきた具体的な記録……さらに、横田空域の永久支配権に関する日本政府との裏合意文書だ。時の総理大臣の署名入りだぜ』
それは、日本が独立国家などではなく、アメリカの完全な「保護国」――いや、実質的な「植民地」であることを証明する、動かぬ証拠だった。天皇陛下を戴くこの神聖な国が、戦後八十年近くもの間、書類の上の密約一つで外国の軍隊に蹂躙され続けていたのだ。
『すべてのデータを吸い上げる。これを全世界のネットワークと国内の主要メディア、さらには霞が関の全サーバーに同時送信してやる。言い逃れは不可能だ。これで、日米関係は根底から覆る――』
ダウンロードのプログレスバーが80%を超えた、その瞬間だった。
『――WARNING(警告)。未知の侵入者を検知』
ロキのモニターが突如として血のような赤に染まり、横田基地の地下に、耳を劈くようなけたたましいサイレンが鳴り響いた。
「なっ……なんだと!?」
ロキが驚愕の声を上げる。スサノオのステルス性は完璧なはずだった。
『甘いな、日本のネズミども』
ロキのスピーカーから、流暢な日本語を操る、冷酷で嗄れた男の声が響いた。
モニターには、星条旗を背景にしたCIAのエンブレムと、一人の初老のアメリカ人の顔が映し出されている。CIA極東支部統括、アーサー・ケインだ。
『J-イージスを奪われた時点で、我々が物理的な侵入を警戒していないとでも思ったか? お前たちが繋いだそのトンネルは、我々が用意した「罠」だ。お前たちの現在地、逆探知させてもらったぞ』
「ロキ! 基地全体がロックダウンされたわ! 防爆扉が閉まる!」
ミコの緊迫した声がイヤホン越しに飛ぶ。
サーバー室の外では、重武装した海兵隊員たちが四方から殺到してくる足音が響いていた。
『ダウンロードはまだ90%だ……! クソッ、罠だと分かっていても引けるか!』
ロキは逆探知の防壁を全力で構築しながら、データの抽出を強行する。
「ロキ、早く! ここは私が食い止める!」
ミコはタクティカルナイフと警棒を両手に構え、サーバー室の入り口に殺到する米兵たちの前に、たった一人で立ちはだかった。
帝都の空を取り戻すための、絶体絶命の防衛戦。
天才ハッカーと古流の巫女は、ついにアメリカという巨大な帝国そのものと正面から激突した。




