序章 見えざる鎖と神の国
深夜の秋葉原。ネオンの喧騒から切り離されたような雑居ビルの一室で、サーバーの低い駆動音だけが単調に響いている。
いくつも並んだモニターの青白い光に照らされた青年の指先が、キーボードの上で流麗なダンスを踊っていた。
彼のハンドルネームは「ロキ」。
彼は、裏社会、とりわけサイバー空間においてすでに都市伝説と化している天才ハッカーである。
年齢は20代前半。
本名を知る者は誰もいない。
画面の右側に表示されているのは、極東に駐留する在日米軍の兵站を管理する末端ネットワークの構造図。そして左側の画面には、日本の地方水源地や防衛施設周辺の土地を次々と買収している、中国系ダミー企業の複雑な資金洗浄ルートが暴き出されていた。
「……また、俺たちの国が削り取られていく」
ロキは冷たい瞳でモニターを見つめながら、誰に言うでもなく呟いた。
1945年の敗戦以来、日本は本当の意味で独立したことなど一度もない。それがロキの確固たる持論だった。
街を見渡せば他国の軍用機が我が物顔で日本の空を飛び交い、治外法権のフェンスが国を分断している。その一方で、見えない資本の侵略によって、先人たちが守り抜いてきた大地は外国勢力に買い漁られている。
彼にとって、それは耐え難い屈辱だった。
世間一般の基準に照らし合わせれば、ロキの思想は「極右」と呼ばれるものだろう。
彼は、外国の軍隊や資本がこの神聖な島国に居座り、我が物顔で振る舞うことを激しく嫌悪している。
彼が魂の底から信じ、崇拝しているものはただ一つ。
古来よりこの国を統べ、祈りを捧げてきた現人神としての天皇陛下。そして、その御威光のもとにあるべき「美しき日本」の本来の姿だけだ。
「アメリカの庇護のもとで惰眠をむさぼり、中国の札束に尻尾を振る政治家ども。……どいつもこいつも、この国を売り渡すことしか頭にない」
カチャッ、と最後にひときわ強くエンターキーを叩く。
米軍の末端サーバーと、ダミー企業のクラウドストレージの双方に、彼が独自に開発した潜伏型ワームプログラム『ヤタガラス』が静かに滑り込んだ。痕跡は完全に消去されている。
今はまだ何も起きない。しかし、いずれ来る「その日」のために、彼は国のあちこちにこの見えない時限爆弾を仕掛け続けているのだ。
ロキはヘッドホンを外し、窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。
煌びやかな光の海。しかし、彼にはそれが、見えない鎖に繋がれたことにすら気づいていない奴隷たちのテーマパークにしか見えなかった。
「待っていてください。俺が、この檻を破壊する。本当の『日本独立』のために」
サイバー空間の神・ロキによる、孤独で壮大な戦争が、今、静かに幕を開けた。




