祈りを知らぬ者へ
イレーヌが宮殿内の文書室に通されると、そこには書類の山と格闘するセリオ宰相の姿があった。
相変わらず整った外見。
だが今日は、彼の声に、どこか熱がこもっていた。
「……君の祈りは、確かに“何か”を伝える力があるようだ」
イレーヌは、彼がラーシャとの一件を知っていることに驚かなかった。
「見ていたのですね?」
「噂というのは早い。……それに、興味もあった。
“言葉が人の心をほどく”など、政治の世界では幻想でしかないと思っていたから」
彼は机の上の封筒をひとつ、イレーヌに差し出した。
「これは、私の“契約結婚”の書面だ。
元は外交儀礼の一環で、感情を伴わない。ただの同盟文書だ」
イレーヌは手に取らず、視線だけで問いかけた。
「それを、あなたはどうしたいのですか?」
「──試してみたくなった。
“祈りが意味を持つかどうか”を。
形式ではない“誰かの言葉”が、自分のような人間の心に届くかどうか」
それは、明らかな挑戦状だった。
政治家としての彼は、常に実利と結果を信じてきた。
だが、イレーヌの言葉や祈りに触れたあとで、“目に見えない何か”への好奇心が生まれたのだ。
「君に頼みたい。“祝福の巫女”としてではなく、“イレーヌ”として、私の式に立ち会ってくれ」
「祈ることを求めているのですか?」
「違う。“意味があるかどうか”を見たいんだ。……たとえば、心を持たない者にも、祈りは届くのか」
その問いには、理屈では答えられなかった。
けれどイレーヌは静かに微笑んだ。
「なら、その問いに答えるのは、私の祈りではなく、あなたの心です」
セリオの目がかすかに揺れる。
「……今さら心など残っているか、疑わしいがね」
「大丈夫です。疑うことも、“信じたい”という願いの裏返しですから」
*
その数日後──
ヴェゼラン王国で前代未聞の式が執り行われた。
──法に基づいた契約ではなく、“祈り”の立ち会いを伴う式。
参列者は半信半疑。
だが、セリオが“本気で”儀式を望んだと知るや、王国内の空気がわずかに変わった。
式の最後、イレーヌは祈りの言葉を紡ぐ。
契約と秩序の国で、はじめて交わされる“形式に頼らない願い”。
「──あなたが、誰かと人生を歩むと決めたその日から、
どうか、ご自分の心に誇りを持てますように。
決して愛を知らぬまま、終わることがありませんように」
そのとき──
会場に、音もなく風が吹いた。
揺れる衣。光の粒のような埃。
“祝福”と呼ぶにはあまりに淡く、だが確かにそこに在る気配。
イレーヌが目を閉じると、
──彼女の胸に、小さく響いた。
「……ありがとう」
その声は、幻だったのかもしれない。
けれど、セリオの顔に浮かんだ微笑だけは、誰にも否定できなかった。
*
式後、ふたりきりの控室で。
「……届いたんでしょうか、私の祈り」
「さあな。でも、今なら──“届いたかどうか”より、“そう思えること”が、大切な気がする」
その答えに、イレーヌは心から微笑んだ。
「あなたに、祈ってよかった」
「私も……君に、祈ってほしかったのかもしれないな」