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祈りを知らぬ者へ

イレーヌが宮殿内の文書室に通されると、そこには書類の山と格闘するセリオ宰相の姿があった。


 相変わらず整った外見。

 だが今日は、彼の声に、どこか熱がこもっていた。


「……君の祈りは、確かに“何か”を伝える力があるようだ」


 イレーヌは、彼がラーシャとの一件を知っていることに驚かなかった。


「見ていたのですね?」


「噂というのは早い。……それに、興味もあった。

 “言葉が人の心をほどく”など、政治の世界では幻想でしかないと思っていたから」


 彼は机の上の封筒をひとつ、イレーヌに差し出した。


「これは、私の“契約結婚”の書面だ。

 元は外交儀礼の一環で、感情を伴わない。ただの同盟文書だ」


 イレーヌは手に取らず、視線だけで問いかけた。


「それを、あなたはどうしたいのですか?」


「──試してみたくなった。

 “祈りが意味を持つかどうか”を。

 形式ではない“誰かの言葉”が、自分のような人間の心に届くかどうか」


 それは、明らかな挑戦状だった。


 政治家としての彼は、常に実利と結果を信じてきた。

 だが、イレーヌの言葉や祈りに触れたあとで、“目に見えない何か”への好奇心が生まれたのだ。


「君に頼みたい。“祝福の巫女”としてではなく、“イレーヌ”として、私の式に立ち会ってくれ」


「祈ることを求めているのですか?」


「違う。“意味があるかどうか”を見たいんだ。……たとえば、心を持たない者にも、祈りは届くのか」


 その問いには、理屈では答えられなかった。

 けれどイレーヌは静かに微笑んだ。


「なら、その問いに答えるのは、私の祈りではなく、あなたの心です」


 セリオの目がかすかに揺れる。


「……今さら心など残っているか、疑わしいがね」


「大丈夫です。疑うことも、“信じたい”という願いの裏返しですから」



 その数日後──

 ヴェゼラン王国で前代未聞の式が執り行われた。


 ──法に基づいた契約ではなく、“祈り”の立ち会いを伴う式。

 参列者は半信半疑。

 だが、セリオが“本気で”儀式を望んだと知るや、王国内の空気がわずかに変わった。


 式の最後、イレーヌは祈りの言葉を紡ぐ。

 契約と秩序の国で、はじめて交わされる“形式に頼らない願い”。


「──あなたが、誰かと人生を歩むと決めたその日から、

 どうか、ご自分の心に誇りを持てますように。

 決して愛を知らぬまま、終わることがありませんように」


 そのとき──

 会場に、音もなく風が吹いた。


 揺れる衣。光の粒のような埃。

 “祝福”と呼ぶにはあまりに淡く、だが確かにそこに在る気配。


 イレーヌが目を閉じると、

 ──彼女の胸に、小さく響いた。


 「……ありがとう」


 その声は、幻だったのかもしれない。

 けれど、セリオの顔に浮かんだ微笑だけは、誰にも否定できなかった。



 式後、ふたりきりの控室で。


「……届いたんでしょうか、私の祈り」


「さあな。でも、今なら──“届いたかどうか”より、“そう思えること”が、大切な気がする」


 その答えに、イレーヌは心から微笑んだ。


「あなたに、祈ってよかった」


「私も……君に、祈ってほしかったのかもしれないな」



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