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祈りを拒まれた者

謹慎処分が下って三日。

 イレーヌは誰の許可も得ずに、王都の一角──

 ある小さな書庫の地下にある読書室を訪ねていた。


 そこは、上流貴族の青年アーシェル=ヴォルトが個人で所有する、政治思想と宗教哲学に特化した書籍ばかりを集めた秘密の空間だった。


「……来ると思っていました」


 アーシェルは机から顔を上げることもなく、ページをめくった。


「あなたが祈りを止めた瞬間、私たちの結婚が“真実ではなかった”と証明されたような顔を、あの場の全員がした。……でも私だけは、驚かなかった」


 イレーヌは、黙って彼の対面に腰を下ろした。

 この人が、“祝福されるに値しない”とは、今も言えない。

 だが、自分の心が拒んだのは確かだった。


「どうして……あのとき、祈れなかったのか。私自身も、まだ答えを出せずにいるんです」


「では逆に訊きます。あなたは“誰のために”祈っていたんですか?」


 アーシェルの声は静かだった。

 だがその問いは、鋭くイレーヌの胸を抉った。


「神のため? 教会のため? 新婦のため? 国のため? あるいは、自分のため?」


「……私は、ずっと“ふたり”の未来を祈ってきたつもりです」


「なら、僕たちの未来が“偽り”に見えたと?」


「……」


 沈黙。

 イレーヌは、初めて自分の胸の奥にあるものを見つめる。


(あのとき──ミランダ様の目には、“祈り”を求める気配がなかった)


 彼女はただ形式をこなした。

 祈られることすら、権力を示す道具にしていた。


 ではアーシェルは?

 彼の心には、何があったのか。


「私は、式が“政治”の一環になることに反対ではありません。制度や象徴には意味がありますから。……でも、あなた自身は、あの結婚に納得していたんですか?」


 アーシェルの手が止まる。


 しばらく沈黙した後、彼は本を伏せ、ようやく視線をイレーヌに向けた。


「……あれは、“取引”です。僕の家とミランダ家との。それ以上でも、それ以下でもない」


「取引に、祈りは必要ですか?」


「……正直、僕は祈ってほしくなかった。けれど、彼女が“社会的な信頼の演出”として、あなたの祝福を組み込みたがった。……それで、僕は引いた。相手の意志を優先させた」


 イレーヌは息を呑んだ。


(つまり──私が祈れなかったのは、アーシェル様が“本心を隠したまま”立っていたから)


 祈りとは、心と心の間に橋をかけるものだ。

 しかし、どちらか一方が心を閉ざしていれば、橋は完成しない。


 イレーヌは、やっとわかった気がした。


「アーシェル様……もし、あの式に、あなた自身の願いがほんの一言でも込められていたなら、私はきっと祈れたと思います」


「……」


「でも、あなたは祈りを拒んだ。私ではなく、自分自身に対して」


 アーシェルは目を閉じ、深く息を吐いた。


「……あなたの祈りが本物である証拠ですね。欺瞞には届かない。……それが、あなたの“強さ”か」


 イレーヌは静かに立ち上がった。


「祝福を拒んだのは、神ではありません。

 あなたの心です」


 そう告げて彼女は、読書室を後にした。


 扉を閉めたその瞬間、背後から小さく呟く声が聞こえた。


「……もし、最初から“自分の願い”を語っていたら──祈ってくれていましたか?」


 イレーヌは振り返らず、ただ答えた。


「ええ。その時は、間違いなく」



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