幽兵(ユウピン)
実に予想外の展開であった。エルフリーデとアディの作戦が、こうも上手くいくとは。
まずはサージドに接触し、その人となりを探ること。《蠍》の若頭で、やり手の商人である彼が、なにを求め、なにを苦手とするのか。
アディ曰く、人には必ず弱みがある、サージドにとってそれがなんなのか、探ることが出来れば勝機が見えるかもしれない――と。
莫耶に白羽の矢がたったのは、人工精霊としての経験もある。しかしなにより、人の常識がまるで通じない破天荒ぶりが適任とされたわけだ。
人を殺せないという制限はあるものの、めっぽう腕はたつし、たいていのことには物怖じしない。おまけにミッテに来てから、たいそう暇を持て余していた。
少しくらいなら暴れても大丈夫――。
エルフリーデのお墨付きを得て、意気揚々と殴り込みをかけた姿は、まさに水を得た魚である。その結果、店があのような惨憺たる有様になった訳だが。
莫耶が言った借金を肩代わりする話も、始めから断られることを前提とした要求だった。
――どんなに金を積まれても、サージドはこの店の権利を手放さないだろうね。だけど話してみる価値はありそうだ。
おそらく彼は、莫耶が誰の代理人なのかを知りたがるだろう。
アディの予想通り、こちらの要求はけんもほろろに断られて、計画ではそのままエルフリーデの元へと帰る予定だったのだが……。
「羊肉と香辛料が絶妙に調和しておる! このような味わいは初めてじゃ! これはなんという料理なのだ?」
「これはシシカバブといいまして。うちはスパイスの調合にもっとも時間をかけております」
「たしかに……肉の臭みが消え、旨みが引き出されておる。お主の料理人はたいしたものじゃ」
莫耶……もとい藍璃はそう感嘆し、葡萄酒に口をつけた。
「この葡萄酒もしごく美味じゃのう」
「特別に作らせたものでして、他では飲めない一級品です。こちらの白チーズの春巻きとも合いますよ」
「ほほう……なるほどこれは最高じゃ」
広い木卓の上、トーマたちの前にずらりと並べられたのは、どれも手の込んだ料理ばかりであった。
香辛料をきかせた羊肉のローストに、黄金色に揚げられた春巻き、新鮮な野菜に刻んだチーズをかけたサラダ。
一匹丸ごと石窯で焼いたという魚は、朝に港で獲れたものを氷をつめた箱で運ばせたという。
「肉も魚も新鮮で素材の味が良くなければ、意味がありません。うちほど食材に気をつけている店は、他にありませんよ」
「たしかに、味わってみればよく分かるのお。香草の香りが効いて、食欲がそそられるわ」
実に呑気なものである。これではまるで餌付けをされているようなものではないか。
トーマは半ば呆れながら、口に溜まった唾をそっと飲み込んだ。
警戒しているのは毒を盛られることだった。
人ならぬ莫耶は心配ないとして、敵地で供されたものを無邪気に食せるほど、トーマも世間知らずではない。
舌鼓を打つ莫耶を横目に、内心ため息をついた。こんなことなら、ウサーマのホテルを出る前に何か食べておくのだった。まさかこんな形で引き止められることになろうとは。
――おい、俺のことを考えて、少しは遠慮しろ。
恨めしげな視線を莫耶へ向けても、一向に意に介さない。それどころか
「しかし藍璃さま……、従者の方はよろしいのですか?」
遠慮がちにサージドが尋ねても、
「なに、こやつは先程たらふく飯を食っておるのじゃ。気遣いは無用ゆえ……ああ、この赤いのはなんじゃ、甘さと塩気が程よいの」
「そちらは赤レンズ豆のチョルバス……スープでございます」
「うむ、実に美味!」
まるでお構いなしなのだ。
「しかし、実に豪快に食されますな。食いっぷりの良い人間は、私は嫌いではありませんよ」
「うむ、そうじゃな。しかし、こうしてもてなすのは、なにも妾の健啖ぶりを眺めるためではあるまい?」
莫耶はそう言って、残骸となった海老の尾をつまむと、遠くの皿へちょいと放り投げた。
「お主らはこの従者の顔を見たとたん、なにやらひそひそと話をしておったな。そして態度を豹変させた。違うか?」
「さすが、慧眼恐れ入ります。どうやらおかしな搦手など無駄なようです。それでは、こちらも腹を割って話すことと致しましょうか」
「ふん、どこまでが本音か分からんお主の、腹など割っても意味なかろう。しかし話は聞いてやる。前置きはいいから、さっさと本題に入れ」
サージドは振り向いて、控えていた従僕たちを下がらせた。扉が音もなく閉められ、おもむろに空気が秘密の会合めいてくる。
「ご覧の通り、私は丸腰でしてね。しかも荒事はまるきり苦手ときております。この状況ではあなたがたの方が圧倒的に有利だ」
「ふむ、用心棒すら同席させぬとはな。 度胸だけは認めてやる。して、そこまでお主が話したいこととはなんじゃ」
サージドが腰帯に指を差し入れ、何かを取り出した。
「こちらでございます」
それは丁寧に折りたたまれた紙で、それをサージドはゆっくり開いた。そして広げたものを二人の前に差し出す。
「この人相書きはひと月前、私を訪ねてきた東方人の二人組が置いていきましてね。なんでも彼らにとって、とても重要な人物らしい」
たしかに。
そこに描かれていたのは一人の少年であった。莫耶とトーマにとって見慣れた顔であり、特徴的な青く塗られたふたつの目が、二人を無機質に見つめ返している。
「これは……お主じゃな」
トーマは無言でうなずいた。
「心当たりは?」
今度は首を横に振った。しかし確信めいたものはあって、おそらく、この身体の元の持ち主の縁であり、なんらかの事情で彼を探しているのだ。
しかし、いまは中身が違う。
もし彼らが、ようやく見つけ出した相手の中身が別人と知ったなら……。
おそらく、ひどく厄介なことになるだろう。
「なるほど……。たしかに見た目といいこの目の色といい、この人相書きはこやつに相違ない」
藍璃こと莫耶は、人相書きをサージドの方へ押しやった。
「しかし、じゃ……あいにくと、こやつは昔の記憶をなくしておっての。その二人組とやらにも、心当たりはないようでな。そやつらが何者か分からぬうちは、こやつをホイホイと引き渡す気にもなれぬ。こちらも大金を払って手に入れた故」
「そこなのですよ。問題はその二人組なのです」
太い人差し指が、描かれた額ををトントンと叩いた。
「その二人組がどこぞの馬の骨とも分からぬ相手なら、私もこんな話をあなた方にしないでしょうな。彼らはとても流暢な公用語を話しましたが、お互いの会話では東の言葉を話しましてね」
そこでサージドは薄荷茶で口を湿らせた。
「向こうは分からないと思ったのでしょうが、あれは間違いなく蘭陀の訛りがあった。これが何を意味するか、藍璃さまならお分かりになりますでしょう」
「なんと、蘭陀じゃと! それは……間違いないのであろうな」
「いまはここに落ち着いておりますが、昔はあちこちを流浪し、いっときは宮中と縁がありましてね。だから分かる。あれは間違いなく蘭陀の訛りですよ」
「しかし……そんな物騒な連中が血眼になってこやつを探すとなると……。いったい紫金ではなにが起こっておるのだ」
「現皇帝は齢十七になりますが、年を経るごとに病弱となり、今では外戚の朱里一族の専横が目に余るとか。そこで私は考えたのです。この人相書きの人物を担ぎ上げて、現皇帝に禅譲を迫る動きがあるのではないかと。そうでなければ《幽兵》が動く謂れがない」
一瞬。サージドと莫耶のあいだに鋭い火花が散ったように見えた。双方の思惑と計算がぶつかり合い、渦を巻いている。
困惑したのは蚊帳の外に放り出されたトーマだ。明らかに自分のことなのに、話が勝手に進んでいる。流石に黙っていられなくなり、
「あのさ、俺にも説明して欲しいんだけど」
と口を開いた。
「そもそもなんだよ、そのユウ……なんとかって」
「《幽兵》。皇帝直属の禁軍のなかでも、文武に優れ、功夫を詰んだ手練ばかりを揃えておっての。
表向きは宮中の警護を担っておるが、その実は皇帝に邪魔な存在を処す、暗殺実行部隊じゃ」
「暗殺……で、でもさ、その二人組がその《幽兵》だって証拠はあるのかよ」
「蘭陀の訛りは宮中勤めの証拠じゃ。太祖駈那之院の出自は謎に包まれておるが、強い蘭陀訛りがあったそうじゃ。
大陸の東の果て、拉祜の地に住む少数民族の言葉じゃが、王朝開闢以来、この訛りは宮中の公用語として使われておる」
「藍璃どののおっしゃる通り、あの二人組が宮中となんらかの関わりがあることは間違いないでしょう。腕前は言うに及ばす、雇っていた用心棒が一人やられましてね。つまらぬ行き違いから、死人を出してしまいましたよ」
サージドは両手のひらを天井に向ける。
「良い用心棒でしたが。残念です」
「ふん、その口ぶりでは仕掛けたのはそっちの方であろう?」
「あの凄腕とただならぬ気配、あれは間違いなく幽兵と判断したのですがね。私もそこまで宮中言葉に詳しいわけじゃない。だからあの二人の会話から分かったのは、二つだけで」
「もったいぶらずに言え」
「ひとつは二人がどうも兄と妹らしいことです。女の方が男を『兄上』と呼んでいました」
「で、もうひとつは」
「この人物があの二人にとって、主に等しい存在ということです。女がこう言ってましたよ。『兄上、私たちは命に替えても蔵人さまを見つけなければならないのです。あの男を信用したのは、一生の不覚でした』とね」




