出立の前夜(六)
そういえばそんなことがあった。
「いや、あれは、なんというか勢いで」
「そう。じゃあ聞いてねトーマ」
エルフリーデの両手が胸元で重ね合わされた。目に見えない大切な何かを、そこで温めて、形あるものにするように。
「あの時からわたしは、言われた通りにあなたを信じているのよ。あなたが自分を信じられなくても、私だけはあなたを信じている。結婚するのに、これ以上の理由が必要かしら」
なんだかさらりとすごいことを言われてしまった。頭で理解するよりも身体が反応して、顔に全身の血が上る。
暗くて幸いだった。昼間だとゆでダコみたいに真っ赤で、恥ずかしいことこの上ない。
「その、ありがとう……」
フェリックスやリチャードなら、もっと気の利いた事を言えたのだろう。
でもトーマにとってはこれが精一杯で、嬉しさのあまり、塔から飛び降りたい衝動を抑えるのがやっとなのだ。
「まったく、私がこうして一から説明してあげないといけないなんて、先が思いやられるわね」
「ごめん」
「あと、そうやってすぐ謝るのもダメ。あなたは公爵家の入婿で、責任ある立場になるのよ。たぶん、外から嫌なこともたくさん言われると思う。軽々しく謝って、相手に付け入る隙を与えないことね」
「うん、分かった」
「よろしい。では本題に入るわね」
「ええ?」
随分と長い前置きである。驚いたトーマに
「なによ。あなたが寝たりせずに、私の部屋に来てくれれば、もっと話は短かったのよ。だから、ちゃんと聞きなさい」
片手を腰に当て、指をトーマの鼻先へと突き立てる。
「私たちが婚約するのは、あくまでも無事に王都へ戻れたらよ。だから、ケジメはちゃんとつけたいの。
旅のあいだ、あなたは私の下僕で、私はあなたの主人、それをお互い忘れないようにしましょう。いいわね?」
「うん、構わない」
頷いて、しばし短い沈黙がおりた。
トーマは考える。
きっと旅のあいだはこうして二人きりで、ゆっくり話をすることもないだろう。だとしたら。
言うべきことは、いま言わなくては。
差し出されたものをちゃんと受け止めなければ、きっと、あとで後悔することになる。
ごまかしも、虚勢も必要ない。必要なのは覚悟だった。
「あのさ、フリーデ」
大きく息を吸い、吐いてから、エルフリーデに向き合った。
「いろいろ考えてたんだ。それでカートさんにも相談した。
もし万が一、誰かを殺さなきゃならなくなったらどうしようとか、本当に無事で王都に戻れるんだろうか――とか。
だけど分かったよ。俺なんかにできることは限られてる。お前ほど楽観的になれないからな。だから、あらかじめ言っておきたいんだ」
拳を握りしめ、みぞおちに強く押し当てる。そうしなければ、心臓が口から飛び出しそうだ。まさかこんな形で、生まれて初めての告白をするとは。
「俺がやるべきことは、世界で一番大事なものを守る――ただそれだけだ。
もしその時がきたら、俺は迷わず、クラリスとアディさんを犠牲にしてもお前を守る。その事でお前から恨まれても、憎まれてもかまわない……って、あれ?」
くるり。
エルフリーデがおもむろにトーマに背を向け、うつむいたまま動かなくなった。
(あれ? もしかして怒った?)
「まったく……」
エルフリーデが呟きながら向き直る。
両手で頬を抑え、嬉しいような怒ったような、判別しがたい表情で。
「なんでこんな時だけかっこいいのよ。ずるいわよ」
そう抗議して唇を尖らせた。
「え? いや、その……」
「それにあなた、すごい勘違いしてる」
慌てるトーマにぐいと近づき、己から外した手を挟むように頬に押し当てた。
彼女の熱が手のひらを通して伝わってくる。温もりにトーマの鼓動がまた速くなり、耳元でうるさいくらいに響いた。
「言ったわよね、あなたを信じてるって。もしあなたがどんな選択をしても、絶対に非難しない。そのことで憎んだりも恨んだりもしない。
たとえ世界があなたの敵に回ったとしても、私はあなたの味方だから」
不思議だ。
暗闇なのにエルフリーデの瞳がきらきらと輝いて見える。澄んだ紫色の瞳が、微かな熱をたたえてまっすぐトーマを見ている。
――お前、ねえ……そこのお前よ。こっちを向きなさい。
はじめて会ったのは檻のなかだった。
あのとき思わず見惚れてしまったのは、繊細な顔の造形もさることながら、好奇心をいっぱいにたたえた双眸が美しかったからだ。
一見しとやかな風貌に隠し持った、恐れを知らぬ心と自由な魂。それらに一瞬で心を奪われた。
その瞳がいますぐそこにある。いつの間にか胸の鼓動が収まり、感じたことのない静けさと安寧がトーマを包んでいた。
とても懐かしい感じがした。
そうだあの時も。
はじめてここで二人で夕焼けを見たとき、同じ感覚を抱いた。ずっと昔、こうして二人で沈む太陽を眺めたような既視感が。
エルフリーデの息が鼻先をかすめた。食後に噛むフェンネルの香りをかいだときには、そっと唇が触れ合っていた。
わずか数秒の口付け。
顔を離すとふいと横を向き、
「言っておくけど、これ以上はないから。これは、お前が今日のことを忘れないためよ。忘れっぽいお前のためなんだからね、感謝なさい」
いつものわがままお嬢さまに戻っていた。
「ああ、うん。ありがとな」
「じゃあ話はすんだから。もう寝るからお前が先に戻りなさい」
「え? いや、せっかくだから一緒に――」
「なに言ってるのよ。二人で戻ったところを誰かに見られてごらんなさい。変に勘ぐられるじゃないの。気が利かないわね」
「わ、わかった。おやすみ」
「おやすみなさい。それと、このことを誰かに漏らしたら承知しないから」
「はい」
首をすくめ、階段へと続く扉を開く。足を踏み外さないよう慎重に降りて、ようやく表廊下にたどりついた。
記憶を頼りに使用人棟へ戻る。部屋の扉をそっと開けると、寝る支度をすませたカートがベッドに入り、羽根枕を叩いて伸ばしていた。
「なんだ、帰ってきたのか」
トーマを見るなり、ニヤリと笑った。
「さっきとずいぶん面構えが違うじゃねえか。スッキリしましたって顔して……さてはお前、お嬢さまとやった──」
「ち、違いますよ! 一応、結婚まではケジメはつけるつもりで……」
「あーはいはい。まったく、青春ってやつはいいよな。寝るぞ、灯り消せ」
* * *
その夜トーマは夢を見た。
唐風の意匠を凝らした室内で、美しい女性が自分に微笑みかけている。
長い黒髪のひと房を高く結い上げ、薄桃色の着物をまとって、毛並みの良い白猫を抱いていた。
艷やかだか、どこか儚さを感じさせるのは、並ならぬ苦労をしたせいだろうか。優しげに細められた瞳が、微かに哀しみをにじませている。
それが保護欲をかきたてるのだろう。一目見て守ってやりたくなるような、抗えない魅力をかもし出していた。
彼女が口を開き、何事かを語りかける。そしてトーマの方へ抱いていた白い猫を差し出した。
膝立ちになり、そのまま彼女へと近づいて猫を受け取る。しかし猫は嫌がり、身をよじってトーマの手を離れ、傍らへと着地するなりどこかへと消えていった。
彼女の方へ視線を戻すと、姿がなく、着ていた着物だけが残されている。広がった布地には点々と、真っ赤なシミが、醜い瘡のように広がっていた。
――あれは、血?
とたんに恐怖が押し寄せ、そこで目が覚めた。心臓が耳元でうるさく鳴り響き、首筋に汗をかいている。
起き上がり、いつもの部屋にいることがわかってほっとした。室内の暗さからまだ真夜中なのだろう。
(やれやれ、なんであんな夢……)
ため息をついた。いろいろあったせいで変な夢を見たに違いない。急に喉の乾きを覚え、枕元の水差しに手を伸ばしかけ、
(あれ?)
気がついた。頬をそっと撫で、濡れているのを確かめる。
(俺……、どうして泣いてるんだろ)




