出立の前夜(五)
眠気がすっかり覚めてしまった。暗がりのなか、慌てて靴を履き、クローゼットからジャケットを出して羽織った。隣のベッドはまだ空で、カートは戻ってきていない。
エルフリーデのあとに続いて廊下に出る。常夜灯に照らされた姿は、晩餐のために着ていたドレスのままだ。
「あのー、お嬢さま。どちらへ」
「いいから、黙ってついてくればいいの」
こちらを振り向きもせず、令嬢らしからぬ大股で進んでいく。
表廊下へと続く扉をくぐると、まだ若い従僕と鉢合わせた。パジャマ姿のトーマとエルフリーデに目を丸くすると、慌てて踵を返し、足早に去っていく。
てっきりもう真夜中だと思っていたのだが、まだ日はまたいでいないらしい。時間をエルフリーデに尋ねたかったが、取り尽くしまがなかった。
階段を上がって三階へとたどり着き、小さな木の扉を開ける。
(あれ、このドアって……)
扉を開いた先のらせん階段に覚えがあった。トーマが屋敷に来た日、エルフリーデが屋上へと案内してくれた入口の扉である。
「お、お嬢さま、なかは暗いですよ」
しかし忠告は無言で抹殺され、エルフリーデは階段をさっさと上り始めた。慌てて続いたトーマは考える。
記憶ではかなりの段数を上がったはずで、しかもあの時と違って、今は手すりも見えないほど真っ暗だ。
もしエルフリーデが足を踏み外そうものなら……。
「なによ、そんなに心配なら、おんぶするか、抱き抱えたら?」
「いえ、それはさすがに」
「なによ、だらしないわね。言っておくけど、わたしは小さい時からこの階段を上ってるの。目を閉じたって大丈夫なんだから。お前の方こそ気をつけなさいな」
「平気です……って、おおっ!?」
石段を踏んだはずがずるりと滑り、バランスを崩す。手すりにつかまっていなければ、そのまま転げ落ちていただろう。
「言い忘れていたけど、その辺に崩れた石段があるから気をつけて」
「いえ、遅いです」
記憶の通りに、階段は延々とつづいていた。明かり取りの窓を見上げても、どこに窓があるのかさっぱりだ。
もちろん終わりはある。
しかし、暗く狭い空間を歩くと、認知機能がおかしくなるらしい。
歩いているのに進んでいないような感覚にとらわれ、エルフリーデを見失わぬよう、ひたすら遅れをとるまいと足を動かし続ける。
それにしても。
以前ここを上った時はきつい傾斜に肩で息をしていたが、いまは全く応えていない。平地を歩くのと変わらないくらいだ。あれから莫耶とクラリスに散々しごかれ、体力がついたおかげである。
おもむろにエルフリーデが立ち止まった。カチャリと金属の把手を回す音がして、生暖かな風が吹き込んできた。
「へぇー、すげー」
うっそうと広がる暗い森の向こう、遠くの街並みが、星あかりをまいたような輝きを放っている。
空を見上げたが月はなく、そのおかげで頭上の星々も、地上に負けじと明るくまたたいていた。
「どう、綺麗でしよ? いまは街の灯りで見えにくいけど、真夜中になると、もっと星がたくさん見えるわ。
昔はここでフェリックスやリチャードたちと、望遠鏡を覗いたの。お父さまはたいそう大きな望遠鏡を持っていて、遠くの星の輪郭まではっきりと見えたわ」
「へえ」
「トーマは興味ない? この空のずっと上は、どんな感じなんだろうって。
月には人が住んでるっていう噂もあるわ。本当に人が住んでいるか、この目で確かめたいわね」
「ふうん」
もし彼女を、現代日本のプラネタリウムに連れていったら、きっと喜ぶに違いない。
魔法が発達したこの世界だが、同じような施設の事を耳にしたことがなかった。
それにしてもなんとも奇妙だ。
カートからきいた魔導装甲は、かなり高レベルな技術が使われている。現代日本ではまだ実現不可能な、SF小説にしか出てこないようなロボットだ。
にもかかわらず、電話(使われているのは風と雷の魔術だ)や幻灯、あるいは自動車の普及は富裕層に限られ、庶民は未だに馬車を使い、灯りはロウソクかアルコールの燭台なのだ。
《王立魔術協会》が魔導技術を軍事に集中させた結果、このように歪な格差が生まれたわけで……。
「なんか難しいこと考えてるみたいね」
我に返ると、エルフリーデの顔がすぐ前にあった。
「もう少し肩の力を抜きなさいよ。せっかく屋敷を出て、いろんな街に行けるのよ。お前だって、王都以外知らないでしょ」
「まあ、たしかに。お嬢さまはその、心配はしていないんですか。いろいろと」
「心配してどうにかなるわけじゃないでしょ。私は一人も欠けることなく、みんなでここに戻ってくるって決めたんだから、そうなるに決まってるの。分かった?」
「はあ……」
トーマは感心してしまった。度胸という点では、彼女の方がよほどある。それに――。
こうして間近で見ると、改めて綺麗だと思う。視線が合うと鼓動が速まって、思わず顔が赤くなった。
「トーマ、私はね、ずうーっと王都から出て、どこか遠くへ行きたいって思ってた。知らない街で、見たことのない景色や建物を見て、食べたことのない料理を食べるの。
アディはね、いろんな街や場所のことを話してくれたわ。それを聞くのが何より楽しかった。ここから南の大陸にはね、鏡みたいに空を映す湖があって、夜になると、湖が満天の星で埋め尽くされるんですって。一度でいいから見てみたいわ」
胸をそらして空を仰ぎ、手を真っ直ぐに伸ばす。
「無事王都に戻れたら、やることが山積みで旅行なんてしばらく出来ないわよ。だから、せっかくの機会を逃したくないの」
「そのことなんですが……」
「なによ」
「王都に戻ったら……俺はその……お嬢さまと……」
どうにも照れくさくて、最後まで言葉に出来なかった。そもそもエルフリーデはこの話をどう思っているのだろう。
どうせ家を継ぐための結婚だとしたら、家同士のしがらみや面倒な親戚づきあいのない、しかも御しやすい相手の方が良いという、消極的な理由なのか。
「そうだ、そうよ、そうなのよ」
エルフリーデの口調が一変し、表情がたちまち不機嫌さを顕にした。
「あの……俺……なんかまずいこと言いました?」
「そもそもお前」
困惑するトーマを睨みつけ、人差し指を鼻先へと突き出す。
「明日出立だというのに、私になんの断りもなく先に寝るってどういうこと?」
* * *
「いえ、そのフラウ・マイヤーがもう寝てもいいと言ったので」
「お前の主人は私なのよ。いつまでたっても部屋に顔を出さないから、クラリスを呼びに行かせたら、もう寝てるって言うじゃないの。いったいどういうつもり?」
柳眉を逆立てるとはまさにこの事か。暗闇に慣れた目にも、彼女のふくれっ面がわかる。
ということは、
――もしかして、寝ないで俺のこと、待っててくれたってこと?
しかしそんなことを尋ねようものなら、怒りの火に油を注ぎそうだ。
「その、一応、旦那さまと奥さまとの水入らずのお時間を邪魔してはいけないかなと。やはりご家族の……」
「お前バカ? 無事に帰ってきたら、お前もその家族の一員なのよ。少しは自覚を持ちなさいよ」
「あ……」
た、たしかにそうだよな――そんな表情のトーマに、エルフリーデは大げさなため息をついてみせた。
「いいこと? 私と結婚するなら、これだけは覚えておいて。私より先に寝てはいけないし、私より後に起きてもいけないから」
「えええ……」
なんかそんな歌詞の曲があったような……。困惑するトーマを、エルフリーデが睨みつける。
「なによ、不満なの?」
「い、いや、その……頑張ります」
「あとそれから。いまだけは、私のことをフリーデと呼んで、対等に話すことを許します。いいわね?」
「はあ……」
「これも練習よ。結婚したらさすがに《お嬢さま》は変でしょ」
「たしかに。でもさ……えーと……」
面と向かって尋ねるのが恥ずかしく、遠くの街並みを見つめた。
「その……フリーデはいいのかよ」
「なにが?」
「いやさ、結婚相手が俺なんかで……。お嬢……じゃなくてフリーデなら、もっといい男がいるだろ。リチャードとかさ。次男なんだから」
ぷっ――とフリーデが吹き出すのを聞いて、思わず顔を見てしまった。
「なんだよ。可笑しいのか」
「べつに。ただ思い出しただけよ。パシャに襲われた時、言ってくれたわよね『俺を信じて逃げろ』って。あの頼もしいあなたは、いったいどこに行ってしまったのかしら」




