白鳥(シュヴァン)島の夏(一)
王都から南西、車で一時間もかからぬ所に白鳥島はある。
ファウエン川の中洲にこの名をつけたのは、《神聖カロリング帝国》の皇帝、遊興王と呼ばれたカール一世だ。
晩年(とは言ってもまだ五十代であったのだが)、寵愛していた若い愛人のため、この土地に美しい庭園を造成し、瀟洒な館を建てた。
館は大陸の西から運ばせた白大理石を用いて作られ、小規模ながら可憐なその姿は、小さな白鳥を思わせる。
白鳥は皇帝にとって特別な鳥であった。
古い神話の太陽神は美しい女神で、たびたび白鳥に姿を変えたと言われている。
そして皇帝は愛人をその《エーディン》になぞらえ、崇拝した。愛人に女神風の装束を着せ、画家に肖像画を何枚も描かせては館に飾り、愛の詩を捧げたのは有名な話だ。
なお、この若い愛人はこれまた皇帝に寵愛された愛人、マリールイズの義理の娘であった。この母娘による皇帝を巡る愛憎劇はいまでも語り草である。
そんな醜聞も今は昔。
現在はカルタリア皇家の所有となり、避暑のための離宮として使われている。皇帝一家が水入らずで過ごすための場所であり、本当に気心のしれた、気のおけない友人たちだけが招かれた。
「つまり、ここに来られるってことは、フェリックスの本当に親しい間柄だけってことなの。お前にとってはとても名誉なことなのよ。ま、もっとも、表向きは私のおまけってことなのだけど」
「はあ」
カートが運転する車は正門で返した。衛兵による入念なチェックを受け、敷地へと足を踏み入れる。
中洲に作られた庭園は驚くほど涼しい。川に囲まれている上に、植えられた木々が濃い影を作って強い日差しを遮ってくれていた。
館までの道のりは徒歩15分ほど。その間、歩きながら島の由来を語ったエルフリーデが、足を止め、左を指差した。
「あれが通称《愛の神殿》。昔はあそこに、愛人がモデルになった女神像が立っていたらしいんだけど。《大厄災》で混乱していた時に、誰かに破壊されたらしいわ」
水辺のほとりに作られた東屋は、今はその台座のみを残す。エルフリーデいわく、良いテーブル代わりになるとのことだ。
それにしても、その皇帝に女神とまで讃えられたその女性は、確かに魅力的だったのだろう。いささか常軌を逸した溺愛ぶりだとは思うが、トーマはすこしばかり羨ましくもあった。
それまで興味深そうに周囲を見回していたアディが、感心したように口を開く。
「しかし、地図で見ると小さな島に見えたのに、意外と広いんだね」
「敷地の広さは、うちよりずっと狭いわ。でも木の配置や池に仕掛けがあるの。だから実際より広く見えるというわけ」
さすがにアッシェンバッハ邸ほどの規模ではないが、よく手入れされ、作り込まれている。池の水鏡が揺れる木々をうつし、のんびりと白鳥立ちが泳いでいた。
「ここで半分くらいまで来たかしら。今日はお天気がいいから気持ちいいわ」
「クラリスがこないのが残念だよ、ボク、てっきり一緒に行けると思ってたのにさ」
たしかに。
いつもならエルフリーデに影のように付き添っているクラリスが、今日はいないのだ。そして莫耶も。
クラリスは旅の支度で忙しいという。昨日からせっせとエルフリーデの着替えやら靴やら、細々したものをスーツケースに詰め込んでいる。
長い旅になるし、途中で何があるか分からないので、最低限の荷物しか持っていかないとエルフリーデは言うのだが、
「お嬢さまのような高貴な方が、あまり粗末な格好で自治区に行くのは、かえって一族のものたちの反感を買いますので」
そう言って、クラリスは聞く耳をもたなかった。エルフリーデの護衛はアディとトーマに任せ、朝から忙しく動き回っている。
アディに良い感情を持っていないようだが、意外と信頼しているのかもしれない。
莫耶は莫耶で、エルフリーデに北の塔に入らせてもらい、なにやらいそいそと調べものに熱中している。しかしなにを調べたいのか尋ねても、
――古い記録を探しておるだけじゃ。せっかくの皇太子からの招きじゃ。楽しんでこい。
と答えて肝心なことは教えてくれない。
しかしトーマはあえて莫耶の言葉に甘えることにした。
こうして白鳥島に来たのは、フェリックスの心遣いだ。自治区まで行程ならまだ安全だが、グダニスク城への道のりは何があるか分からない。せめて美味しい昼食でもご馳走になって、ともすれば心を奮い立たせたかった。
(一応、表向きは夏休みの自由研究ってことになってるんだよな)
夏の休暇は二ヶ月。
自治区まで行き、ガイドをつけて干河を抜け、東の港町ニダヘ。
調達した舟でグダニスク城へとたどり着いて封印を解き、件の勅令を探し出して、行きと同じルートで王都へ戻る。
エルフリーデ曰く、なにか大きなトラブルさえなければ、二ヶ月あれば充分らしい。
大きなトラブルさえなければ。
* * *
表向きは民俗学的アプローチのための、フィールドワークということになっていた。
国境戦で生まれたシルヴァ族自治区が、今後、カルタリア皇国にとってどのような役割を担うか、それについての考察も兼ねている――担当教師に出す夏休みの課題にもそう書いた。
だから誰にも怪しまれず、堂々と自治区へ行けるのだ。もっとも、あの老獪な宰相がどこまで騙されてくれるか。
ただ状況はトーマたちに有利に働いている。
フェリックスによれば、宰相もここのところ身体の加減が悪いらしく、急激に老け込み、公務に差し障りをきたしているらしい。
正確な記録が大厄災で失われてしまったが、推定年齢は百歳以上である。さすがにそろそろ寿命が尽きる頃合いか。
――不謹慎かもしれないが、彼がこのような状況にあるのは僕たちにとって千載一遇のチャンスかもしれない。宰相と《協会》の目を引かずに行動するなら今をおいて他ないだろう。
フェリックスの言葉通り、またとない好機だ。上手くいけばこのまま彼らの目を逸らしたまま、グダニスク城まで行けるかもしれない。
トーマにとってはありがたい話だ。たとえ正当防衛とはいえ、なるべく戦闘は避けたかった。
これだけ《莫耶》が手になじんでもためらいは消えない。誰かの命を奪わなくてはならない時、迷いなく剣を振るえるかも分からなかった。
クラリスには甘いと怒られるだろう。それでも、誰かの命を奪うのは、最後の手段にしておきたいのだ。
「ちょっと、なにぼーっとしてるのよ。私がこんなに説明してあげているのに、ほかの考え事?」
気がつけばエルフリーデに間近で睨まれていた。
「す、すみません。ちょっと色々と考えてしまって」
「言っておくけど、フェリックスがお前を呼んだのは気晴らしをさせるためなの。きっと今みたいに、うじうじ考えてばかりいるだろうって」
「わ、分かってます」
「だいたい、お前、肝心なものを見ていないのよ。お前の目は節穴かしら」
白いドレスのひだを手にして胸を反らせる。純白の絹地に、緑の糸で刺繍された繊細な花たち。
スカートの裾やふくらませた袖にはレースがたっぷりと使われて、なんだかウエディングドレスみたいだった。
そのドレスをまとったエルフリーデは眩しいほどに美しい。同じ絹地で作らせた日傘も似合っている。トーマ顔を赤らめながら言った。
「えーとそのドレス、とてもよくお似合いで……」
「なに言ってるのよ。それは今朝言ったでしょ。使い回しとはいい度胸ね」
「い、いやでも。他になんて言えば」
「この美しい庭園にたたずむ様子を褒めなさいって言ってるの。ここは太陽と美の女神に捧げられた庭なのよ。
『お嬢さまの美しさは、かのエーディンを思わせ、この愚かな下僕は胸を打たれ、ただただ感激に打ち震えるばかりでございます』とかあるでしょ」
「いや、むり」
「はあ? お前、自分の立場が分かって」
「まあまあ、痴話喧嘩はそれくらいにしてさ。ほら、見えてきた」
アディが指さす先に、白い小さな館が見えた。アッシェンバッハ邸よりはるかに規模は小さいが、たたずまいがどこか似ている。
白い石材と、白鳥が羽を広げたような両翼。優雅なシルエットを保ちながら大きく横に引き伸ばし、時計塔や東と西棟を加えれば、アッシェンバッハ邸にそっくりだ。
そのことをエルフリーデに伝えると、満足げにうなずいた。
「よく気がついたわね。カルタリア建国のあと、この屋敷を参考に建てられたのが、うちのお屋敷ってわけ。というより、建国のあと王都に移り住んだ貴族たちの間で、この様式が流行ったらしいわ」
「ふーん」
「もっとも、この屋敷はカール一世亡きあと、忘れられて廃墟になってたの。それを皇妃アリアが改修させて、夏の離宮にしたのね。大厄災のときも壊れずに今でも残っている。ここはフェリックスの一番のお気に入りよ」
「きれいだなあ。フリーデのお屋敷より小さいけど、なんだか親しみのある感じがするよ」
そういったアディに、エルフリーデがうなずいた。




