エステル(下)
アディの視線がトーマからそらされた。
「王都に来てから、いろいろと情報を集めたよ。同胞には聞けなかったけど、都会にはいろいろ手段があるから。どうやら《翠玉楼》という娼館で働いていたらしい」
「しょうかん」
「高級娼婦宿さ。娼婦のほとんどが東方人で、館はまるで紅蘭民の後宮みたいに豪華だそうだ。だから王都の貴族や色好みの金持ち連中が通っている」
聴いているうちにトーマの頭が鈍く痛んだ。それに翠玉楼という名前に聞き覚えがある。いったいどこで聞いたのだったか。
「姉さんは二年ほどそこにいて、楼の金を持ち逃げしたらしい。いまは何処にいるか見当もつかないよ。でも出来ればキミ達との旅で、少しでも手がかりがほしいんだ。キミにも手伝ってもらいたい。そのかわり、ボクはキミとフリーデを命にかえても守り抜くよ」
そういえば。
トーマはもう一人からも人探しを頼まれているのだった。莫耶の弟、干将。このことをエルフリーデはもうアディに話したのだろうか。
「そのことなんだけど。ちょっと困ったことになってね」
トーマの問いに、アディの表情が厳しさを増した。
「実はフリーデにどう話そうか迷っていた。伝説の双剣《干将・莫耶》、これについての記憶に、どうやっても接触できないんだ」
「接触できない?」
「うん。どれだけ《アカシャ》に祈ってもだめだった。大巫女さまにもお願いしてみたし、ほかの商隊にいる巫女や預言者にも手紙を書いて尋ねたよ。でも、だめだった。
こんなのありえない。《干将・莫耶》は名の通った名剣だ。それについての記憶を授かることができない。これがどういうことか分かるかな?」
つまり、それは……。トーマは数秒考え、答えた。
「誰かが、意図的に記憶に接触できないようにしている、とか?」
「そう、ボクもそういう結論にたどりついた。何者かが《アカシャ》の記憶に介入している。その何者かが、姉さんから力を奪ったんじゃないかって、ボクは考えているんだ」
「でも、それって……」
「うん、ボクたちゲルド族にとっては一大事だ。《アカシャ》は神聖な侵されざる存在で、魂の拠り所でもある。それが誰かの介入を受けているなんて……。たぶん、姉さんは四年前、そのことに気がついていたんだ。いや、それだけじゃない。おそらく賢者べドガーはこのこと見越していたんだろう」
アディはトーマの眼前に三本の指を立てて見せた。
「ボクたちに示されたあの記憶。あれはたぶん、不完全なまま《アカシャ》に記憶されていた。それだけでは記憶として認識されない。ボクのローゼンクロイツの血と巫女の力、フリーデに残されたノートと魔法円陣、そしてキミ。この三つが揃わなければ記憶として完成しないように細工がされた。だからこそ、介入した何者かの目をかいくぐることができた」
「じゃあ、ベドガーはこうなるってことを、予測していたってことですよね」
「うん、さすが大賢者……といいたいところだけど、こうなってくると大賢者の考えていることも分からなくなってくる。《アカシャ》に介入してきた何者かの存在を、大賢者は知っていた。でも誰にも話さないまま死んだ。いったい彼はなにを企んでいる」
アディは軽く咳き込んで、言葉を継いだ。
「正直ボクは怖いんだ。なにかがこの世界を、ゆっくりと歪めていくような感覚を覚えるんだよ。ボクたちの敵は《協会》なんかじゃない。おそらく、本当の敵は別にいる」
ふと、トーマは考えた
そもそも、なぜ自分はこの世界に呼ばれたのだろう。
もし自分がここにこうして存在していることも、エルフリーデと出会い、彼女を好きになったことも、その得体の知れないなにものかの意思で、手のひらでただ弄ばれているのだとしたら――。
冷たいものが背筋を通り抜け、喉元に苦い液体が迫り上がる。
「だめだよ、トーマ。迷っちゃいけない。キミのフリーデへの気持ちはそんなもので揺らぐものじゃないだろ。今は自分の気持ちを信じるしかない。彼女を守りたいなら、絶対に迷っちゃダメだ」
アディの拳がトーマの胸を叩いた。
「照れずに答えなよ。好きなんだろフリーデのことが」
「はい」
頷いたトーマに、アディはやれやれと肩をすくめて見せた。
「若いねえ。その気持ちを忘れちゃダメだ。キミがどんな理由でここにいるとしても、キミの気持ちはキミだけのものなんだからね。さて、ボクはそろそろ部屋に戻るとするか。キミにも仕事があるんだろ、あんまり時間を取っちゃうと、フリーデに怒られちゃうからね」
「は、はい……」
「なんだい、ボクの顔になにかついてるかな」
「いえ、その……」
トーマは顔を赤らめて言った。
「意外と真面目なんだなあって」
「おいおい、そりゃないだろ。ボクはいつだって真面目さ。でもトーマ、もし気が変わったらいつでも言ってくれよ。いろんなこと、教えてあげるからさ」
からかうように目を覗きこみ、にやりと笑う。すっかり《エロいお姉さん》に戻ってしまった。そういえばクラリスがアディを避けていたが、これが原因なのかもしれない。
ふと。
トーマにある考えが浮かんだ。ずっと頭の片隅にありながら、敢えて目を逸らし続けていたことに、そろそろ向き合わなければならないのだろうか――。
「アディさん、ひとつ訊いてもいいですか」
「なんだい?」
トーマは一呼吸おいて、己のなかの迷いを吐き出すように言った。
「その《翠玉楼》に、青い目の東方人が、俺に似た奴が働いていなかったか、調べることは出来ますか」
アディの目が細められた。
「もちろん、調べることは出来る。でもトーマ、それを知って、キミは平気でいられるかい。もしキミが……」
* * *
アディが去り、一人残された鍛錬場でトーマは考えた。
今こそ、彼の過去を知るべきなのだろう。
なんとなく気づいてはいたのだ。《翠玉楼》の名前はエルフリーデから聞いたことがある。青い目の東方人は貴重で、それ故に高値で取引される。買われるのは大方そういう類の店で、それは男とて例外ではないと。
もちろん、それはこの身体の過去で、トーマには関係がない――ずっとそう思っていた。さっきまでは。
しかしアディの姉から力を奪い、《アカシャ》に介入した存在のことを知った以上、こう考えるのが筋なのだ。自分がここにいるのは、その存在が関係しているのだと。
それの目的がなんであれ、理由が知りたい。なぜ自分が選ばれて、ここに来たのか。
この少年が何者でどんな理由で《翠玉楼》にいたのか。そしてなぜ再び売られることになったのか。それを知ることが出来れば、答えにわずかでも近づける。
知ってしまえばもう元には戻れないだろう。もしかしたら、思っていたよりショックを受けるかもしれない。でもこれだけは言える。どんな過去であれ、エルフリーデは気にもとめないだろう。
きっとこう言うに違いない。
だからなに? いまのお前は私の所有物なのだから関係ないでしょ。
トーマは微笑み、頷いてから鍛錬場を後にした。中庭に満ちた花の香りが湿り気を帯びている。
雨が降るかもしれない。




