鏡のなかの他人
フランク医師が退室し、残った看護師に訊ねると、フリーデはもう帰った後だった。
外はまだ明るかったが、ほんのり空が赤味を帯びている。時刻を訊ねると五時を過ぎていると言われた。
トーマの世界ならまだ遊べる時間だが、お嬢さまなら門限が厳しいのかもしれない。
また顔が見られると期待していただけに大いに落胆した。しかし、ワゴンにのせられた食事が運ばれてくると、そんな憂いもきれいに吹き飛んでしまった。
焼きたてのパンに湯気を立てたシチューのパイ包み、鉄板の上で音を立てるステーキ。デザートにクリームがのったプリンまでついている。
香草と肉に焼ける匂いに食欲をそそられ、激しい空腹を覚えた。考えてみれば朝から何も食べていない。
添えられたスプーンを取り、おそるおそるシチューを口にする。もぐもぐもぐ。
うん、うまい。というよりめっちゃ美味しい。
看護師の母親から《病院食は不味い》と聞かされていたが、トーマがそれまで食べたどんなレストランよりも美味しかった。さすがセレブ御用達の病院である。
あっという間に全て平らげると眠気が襲ってきた。寝るには早すぎる時間だが、看護師にゆっくり休めと言われたので素直に従うことにする。
掛布にもぐりこむと同時に眠りに落ちた。
* * *
胸のあたりに苦しさを覚え、目を開けたときあたりは真っ暗で、しかも身体の自由がきかない。
いわゆる金縛りという現象だが、以前もなったことがあるせいか怖くはなかった。
父親の話では脳が目覚めているのに身体が眠っていると起こるらしい。だからもう一度眠ってしまえばなにも問題はないのだと。
再び目を閉じて眠ろうとする。そのとき、傍らに誰かの気配を感じた。暗闇のなか、息をひそめた何者かが立っていて、じっとトーマを見下ろしている。
心臓の音が耳元でうるさく鳴り、恐怖で息が出来ない。
落ち着け――。
トーマは自分に言い聞かせた。
落ち着け。金縛り状態では幻覚や幻聴が起きることがある。あくまで脳の作用で心霊現象ではない……はず……。
幻覚ならそのうち消える。恐怖に飲み込まれぬよう、トーマは必死に深呼吸を繰り返した。
そうだ、俺は冷静だ。そもそも幽霊とかオカルトとか信じないし――。
己を叱咤するトーマの努力も空しく、それはいっこうに消える気配を見せなかった。
ひやり。
冷たい手のひらがトーマの頬を撫でる。叫び声をあげたくても体の自由がきかず、トーマは完全な恐慌状態におちいった。
ごめんなさい、すみません、信じないとか嘘です! だから成仏してください。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、般若波羅蜜多――。
そんな彼の耳元で女の声が囁かれる。
「契約のこと、忘れないでね」
けいやく?
なんのことかさっぱりなのだが。
「あなたはあの時、胸を打たれて死にかけた。それを助けたのは私。あのとき私とあなたは約束した。覚えてる?」
刹那。
トーマの脳裏から鮮やかに記憶が浮かび上がる。忘れていた夢の内容を思い出したみたいに。
みぞおちを打たれた感触と血の匂い。
倒れ込んだ石畳の硬さ。
全身が動かなくて、もう何も見えない聞こえない。
死にたくないと必死で祈った。誰でもいい、何でもする、助けてくれと。
だから――。
本当になんでもしてくれる?
長い黒髪と抜けるような白い肌。
切れ長の瞳は明るい琥珀色で光りの加減で金色にも見えた。
長いまつげも鼻筋も唇も、作り物みたいに整っていて。
まだ死にたくないのよね。じゃあ、私と取引をしましょう。私の願いを叶えてくれたら、あなたを生き返らせてあげる。
そうだ。確かに言った。それから――。
わたしを、殺して、欲しいの。
* * *
看護師に起こされた時、室内は明るい光に満ちていた。
「よく眠れなかったの? さ、早く顔を洗って来て」
昨日とはちがう若い看護師でなかなかの美人だ。
清潔なタオルと石鹸を手渡され、部屋の隅にある洗面台で顔を洗う。
窓の外は明るいが、トーマは憂鬱だった。正直なところ、今すぐにでもここから逃げ出したい。
フリーデのことは気になる。それでも家に帰りたい。全く知らない異世界で、おまけに訳の分からぬまま、変な契約を結ばられて。
あの女が何者かは知らないが、まともな存在でないことは明らかで、自分がとんでもない事に巻き込まれていることは理解できる。
だからこそ平穏なあの日に帰りたい。
いつものベッドで起きて、パンと目玉焼きの朝食にスマホでSNSのチェック。学校に行き、友人たちとバカ話に盛り上がり、授業が終われば家に帰って寝る。
なんてことの無い日常が、今はただ懐かしい。
トーマがここに来て向こうの世界はどうなっているだろう。向こうで両親と姉に心配をかけていないだろうか。
そんなことを考えながら顔を拭き、鏡を覗くと、青い瞳と視線が合う。端正な顔立ちの、同じくらいの年頃の少年がトーマを呆然と見ていた。
一瞬声を上げそうになり、グッと飲み込む。
ここで
――この顔は俺じゃない。ぜんぜん知らない顔なんです!
などと騒げば、最悪、正気を疑われかねない。
フリーデに目が青いと言われていたから、てっきり瞳の色だけが違うのだとばかり思っていた。
しかし、鏡に映っているのは、トーマとは似ても似つかないイケメンで、形の良い瞳を不安そうに見開いている。
お前……いったい誰だよ……。
黒髪と、やや浅く焼けた小麦色の肌。
東洋系の顔立ちだが、目鼻のバランスが文句の付けようがなく、それにこの藍色をたたえた瞳である。
トーマのいた世界なら、間違いなくヒエラルキーのトップに君臨するはずだ。
女の子にモテまくって、モデルから俳優になってバラエティー番組のレギュラーになる。
いや、もしかしたらバンドなんかをやってヒット曲をバンバン量産する売れっ子に……。
「どうかしたの?」
ずいぶん熱心に鏡を見ていたせいか、若い看護師がからかうように声をかける。
「まあ、自分の顔に見とれるのも無理ないか。でもそろそろ朝ごはんにしなくちゃ。今日のお昼には退院するそうよ。あとでお屋敷の人が迎えに来るそうだから」
「あの……エルフリーデ……お、お嬢さまは来るんですか?」
「たぶんいらっしゃらないわ。もともと忙しい方だし、あんなことがあった後だもの」
トーマの胸に、孤独が波のように押し寄せてきた。強く握っていた手を振り払われたような寂しさを覚え、周囲の景色が色を失う。
なにを勘違いしていたんだ、俺。
トーマは自分を嘲笑った。
フリーデが俺を買ったのはたしかに恩返しという意味もあっただろう。
だがそれよりも、奴隷の俺に借りを作りたくなかった――というのか正しい。俺を買えば、誘拐犯から助けられたという大きな借りをチャラにできる。
しかも、こいつは俺と似ても似つかないイケメンだ。彼女にしてみればデザインの良い家具を買うくらいの気持ちなのだろう。
そもそも。
もし売られていたのがこいつではなく、そのままの俺だったら。
フリーデは全く興味をひかれなかったに違いない。何しろ俺は、起きていても寝てるみたいだと言われるくらい、パッとしない見た目なのだから――。
そう考えると情けない気持ちになり、穴があれば入りたくなった。昨日、彼女に抱きつかれいい気になった自分を殴りたい。
結局、異世界だろうがどこだろうがイケメンが正義なのだ。中身などどうでもいい。
昨夜同様、朝食もホテルのような贅沢さだったが、食欲がまったく湧いてこなかった。
ふわふわのスクランブルエッグもカリカリに焼いたベーコンも、きっと美味しいのだろう。
だがトーマの気分は屠殺場に連れていかれる牛のそれで、これから連れていかれるであろう公爵邸のことについて、頭を悩ませていた。
なにしろ字も読めない異国人の奴隷なのだ、使い捨てにされるに決まっている。めちゃくちゃブラックな待遇でこき使われ、病気になって死ぬかもしれない。
それに。
たとえお屋敷に行ったって、フリーデの顔を見られるとは限らなかった。そんなのは執事とか従者とかの勝ち組の特権だ。
奴隷上がりの俺のようなやつは、日の当たらない地下で一生、虫のように暮らすのだ。
たしかに娼館などに売り飛ばされるよりはずっといいのだろうが、一瞬でも甘い期待を抱いて、それが幻想だったと思い知らされるのは辛かった。
そのとき
「なにをそんなうっとうしいため息をついているのかしら」