紅蘭民(コランダム)奇譚抄 その二
彼が《それ》と邂逅したのは閹割のさなかのことだった。閹割とは彼が生まれ育った部族の言葉で去勢を指す。
行われたのは十二歳の誕生日。彼を紅蘭民初代皇帝に献上すると決めた、一族の意向だった。
まだ暗いうちに起こされ、湯で身を清めた。草原の暮らしで湯あみは滅多にない贅沢だ。これから我が身におこることのへの不安が少し和らいだものの、彼の表情がほころぶことはなく、母親に身体をふかれている時も頬をこわばらせたままだ。
母親は彼の髪を優しく撫で、儀式で身につける白衣を少年に着せながら言った。
――大丈夫だよ、すぐ終わる。痛みもほとんどない。なにしろアマルは閹割の名人だ。馬だって羊だって、なにが起こったのかわからないうちに終わっちまう。お前も見たことあるだろ。
母親のささくれた指が、彼の見事な金色の髪をすいた。そして明るい青い瞳をのぞきこみ、細い肩に両手を置くと、耳元に唇を寄せる。
――皇帝にお仕えできるんだ。これほどの名誉はないのさ。そのための閹割なんだ。今は辛いかもしれないけど、あんたにもそのうち分かる。あんたは間違いなくあたしと父さんの子で、族長テムレンの孫さ。だから誇りをもってお仕えするんだ。いいね。
彼は頷き、母の浅黒い顔を見返した。
彼女が彼を産んだのは十六のときだ。まだ二十代のはずなのに、心労のせいか髪に白いものが混じっている。母は六人目の妻だったが、彼を産んだせいで第一夫人から妬まれて、なにかと辛くあたられていた。
――あんたは特別なんだオドゥ。星読の婆さんも言っていた。この子は部族の希望の星だって。皇帝に献上すれば、一族は安泰だろうって。
細めた母の目は黒い。草原の民が大抵そうであるように、黒い髪と瞳に浅黒い肌の両親は、彼とはまるで似ていなかった。
祖父のテムジンから何度聞かされたことだろう。彼が生まれた時のことを。
六番目の嫁が産んだ赤ん坊は、両親とは似ても似つかぬ、人とは思えぬほど美しい男子であった。
金色の髪と青い瞳、白磁のような肌。産婆をはじめ、周囲が困惑したのも無理はない。
――こんな赤ん坊が生まれるはずがないだろう。いったい父親は誰なんだ。
そんなことを言って、嫁の姦通を疑うものまで現れる始末。赤ん坊の父親、つまり母親の夫ですら、そんな荒唐無稽な話を信じかけていたほどだ。もし族長のテムジンがその場を収めなければ、母親と赤ん坊の命はなかったに違いない。
頭に血の上りかけた息子を諭す口調で、テムジンは皆に言い聞かせた。
――結婚前に嫁の純潔は証明されている。万が一、嫁いだ後にこのような外見のよそ者と交わったとしたら、必ず誰かの目にとまるはずだ。息子には他に五人の妻がいて、その妻たちの目をかいくぐって他の男と逢瀬を持つことは、不可能と言っていいだろう。
テムジンの言うことはもっともで、だが息子はそれでも納得しなかった。
――そもそも純潔の証明が偽りであったなら? 嫁いだ日にすでに子種が彼女の腹にあったのだとしたら、自分はとんだ道化ではないか。
父は息子に言った。
――ならば星読を連れてくる。彼女なら全てを明らかにしてくれるだろう。それまで決して母子に危害を加えてはならぬ。これは父親ではなく族長としての命である。それに――。
皮の厚くなった指先で、赤ん坊の頬にふれ、テムジンは言葉を継いだ。
――この赤ん坊は母親にもまるで似ていない。あまりにも美しい。まるで星の光が落ちて人になったようだ。儂はこれを天からの恵みと見ている。それも星読が明らかにしてくれるだろう。
* * *
馬に乗って草原を出たテムジンが、星読みの老婆を伴って帰ったのは二週間後のことだった。
老婆は赤ん坊を見るなり、好奇心一杯の目で赤ん坊と母親を眺め回した。そしてテムジンを振り返り
「大丈夫だ。この子は間違いなくあんたの息子の子、れっきとした孫さね」
にやりと笑った。そして安堵の表情を浮かべた母親に優しい口調で語りかける。
「痛くもない腹を探られて辛かっただろう。だがね、あたしはあんたに、もっと辛いことをこれから言わなくちゃならないんだ」
頬をこわばらせた母親を横目に、老婆はテムジンに告げた。
「この子が十二歳になったら、紅蘭民の皇帝に献上するがいい。閹割を施し、宦官として皇帝にお仕えさせる。それがこの子の宿命さ。この子は一族に繁栄を与えるだろう、だがそれだけじゃない。もっと何か、大きな使命を抱えているようだ」
「星読、その使命とは?」
「それはあたしにも読めない。だが、皇帝にお仕えするくらいだ。おそらく歴史を変えるくらいの大きな役目をしょっているのさ、この子は。たしかあんたの娘が後宮に上がっていたね」
「左様にございます」
「その伝手を頼るといい。もっとも、そんな必要もないかもしれないが。これだけ目立てば、そのうち帝の耳にも入ろうさね」
無名の道士が新たな皇帝に即位し、十年ほどがたっていた。即位の祝いに、テムジンは一番器量の良い娘を後宮に入れている。しかし皇帝の寵愛は薄く、まだ子に恵まれていない。
そろそろ新たな貢ぎ物を考えなくてはならない矢先、たしかにこの赤ん坊は、めったにない上等な献上品と言えた。
「《オドゥ》、それがこの子の名前だ。これ以上相応しい名前はないよ」
夕星と同じ名前をつけられた赤子は、何も知らずに母の腕で眠っている。彼女の顔から表情が消えたのと対照的に、テムジンはめったに浮かべない笑みを赤子に向けた。
三歳になったら都から教師を呼び、礼儀作法と教養を仕込まねばなるまい。貴族の令嬢にも劣らぬ優雅さと気品を身につけさせなければ。
母親はテムジンの背後にたつ夫へと顔を向けた。いつの間に現れたのだろう、かすかな嫌悪のまじる視線を赤子へと注ぎ、無言で天幕を出ていく。この日から今日まで、夫が息子に声をかけたことは一度もない。徹底的に存在を無視し、その母親のことも避け続けている。
「さ、そろそろお行き。みんな待っている」
靴を履き、天幕を出ると部族のものたちが集まっていた。みな一様に好奇心と憐憫が混ざった表情を浮かべていたが、話しかけることはしない。
これは人に閹割を施す儀式で、世話人と執刀者、長以外との会話を禁じられているからだ。
白い礼服に身を包み、湿った長い髪は背中まで届いている。おとぎ話に出てくる水妖を思わせる美しさだが、不安と怯えを浮かべた表情に誰もが胸を打たれ、彼の幸いを祈らずにはいられなかった。
彼が歩みを進めると同時に、自然と両脇に人の壁が出来た。
視線の先に祖父と父、そして大叔父のアマルの姿が見える。アマルはいつものように煙草の葉を噛んで、自慢のナイフを手のひらで弄んでいた。脇には彼が横たわるための台がしつらえてある。それを見るなり、彼は今すぐにでもこの場から逃げ出したかったが、それが不可能であることも充分に分かっていた。
「薬は飲んだか?」
彼を迎えた祖父が開口一番に訊ねた。母に飲まされた苦い薬のことだと分かり、無言で頷く。
「ならこれを飲め」
祖父は小さな袋から白い丸薬を出して、彼に含ませた。
「痛みが和らいで、血を止めやすくしてくれる」
言われたとおりにのみ込んで、彼は父を見上げた。視線があうと心底うんざりした表情で顔をそむけ、アマルが弄ぶナイフへと視線をやった。とっとと面倒なことは終わらせてくれ――そうとでも言いたげに。
父にしてみれば、本当ならこんな場に居たくなかっただろう。だが長子である以上、儀式への立ち会いは義務であった。忌み嫌っている我が子であれ、見届けなければならない。
「ではこれから閹割の儀式を執り行う」
祖父が宣言し、彼は示された台へと横たわる。
青く澄み渡った空を見上げた。先ほど飲んだ丸薬のせいだろうか、視界ははっきりしているのにそれ以外の感覚が鈍くなっている。恐怖も感じなかった。
部族から宦官を献上するのはかなり久しいと聞いている。前は父の従兄弟で、黒武最後の幼帝にも仕えたが、王朝亡き後は行方が分からなくなっていた。祖父は運がなかったと言っていた、お前は違うとも。
両手首と足首に厚い毛織布を巻かれ、その上からきつく縄で縛られ台に固定された。もともと細い目をさらにすがめて、アマルが彼の顔を覗き込む。そして一言、
「効いている」
とだけ言った。肩と両足に誰かの重みを感じた。きっと暴れないよう押さえつけられたのだろう。それが誰なのか確かめようにも、何故か顔を動かすことができなくて、ただ空を眺めるよりほかなかった。
雲一つない蒼穹を眺め、祖父が唱える祈りの言葉をぼんやりと聞いていた。閹割が滞りなく終わり、彼が一族に安寧をもたらすようにと。聞いているうちに身体の感覚がおぼろげになり、自分と外側の境界が曖昧になってくる。
きつく縛られた根元をアマルが手に取った。家畜に施すそれを、彼も何度か目にしたことがある。自分もあの獣たちと同じようにされるのだ。彼自慢のなんでも切れるというナイフで。
「押さえろ」
アマルの言葉と同時に、彼の喉から悲鳴が溢れた。それまで恐怖すら感じていなかったというのに、台に固定された手足が勝手に暴れ出し、自分でも驚くほどの力強さで縛めをほどこうともがいている。
「暴れると余計な傷をつける。もっとちゃんと押さえろ!」
アマルの怒鳴り声を初めて聞いたかもしれない。悲鳴の止まらない口に苦い味のする布が押し込められた。さっきまで蒼穹を映していた視界いっぱいに、あちこちから無数の手が彼を押さえ込もうと伸びてくる。
殺される。
本能的な恐怖に支配され、見開いた彼の目を誰かがふさいだ。とたんに闇が彼を包む。一切の音が消え、静寂と暗黒のなかに彼は放り出された。
自分はたぶん死んだのだ。そう考え、絶望したのは一瞬のことだった。
彼の眼前に、見たこともないような光の渦が広がっていたからだ。そのきらめく一つ一つが星であることを理解した時、光の渦が徐々に小さくなり、彼の周囲に無数の渦が浮かんでいるのが分かった。上下左右、身体のあちこちに目があるような不思議な感覚に支配されながら、彼はこれがなんなのかを必死で理解しようとする。
彼の家庭教師が言っていた。この空の向こうには宇宙という空間が広がっていて、そこには無数の星の河と海が存在しているのだと。その星の海と河が彼の身体に吸い込まれ、同時に彼を縛り付けていたなにかがゆっくりと解けていく。
彼を彼たらしめていた自我。十二年間で作り上げられた全て、彼を形作る祖先からの記憶。
縛めをほどかれた意識が拡散し、星の渦の彼方、あらゆる存在の果てへと一瞬でたどり着く。
そして。
彼は《それ》と邂逅を果たした。
原初の無。
宇宙の根源は虚無であり、無限の零が広がるのみ。しかし彼は理解した。虚無とは同時に存在の裏返しなのだと。
生と虚無とは同一。無限の虚数が彼を形作りっては打ち消し、完全でありながら存在していない。
突如。
彼のなかに強烈な生への渇望が目覚めた。
死にたくない。まだ生きたい。
生きてあらゆるものを目にして、触れてみたい。
まだ知らぬ場所、人、そして感情。
全てがいつか零へと還るのだとしても、それを知らないままなのはいやだ。
どこかから手が伸びて、手のひらを掴まれた。
――見つけた。
耳元で声がして、ほどけていた彼の存在がゆっくりと形をなしていく。
四肢の感覚と熱で火照った身体の重みがもどって、意識の汀へ打ち上げられた彼は、重いまぶたをかすかに開いた。
額にのせられた冷たい布はすでに温くなっている。下半身に粘つくじぐじくした痛みは耐えがたいほどだが、それでも目覚めた喜びの方が勝っていた。
生きて帰ってきたのだ。あの場所から。
再び目を閉じ、周囲の音に耳をすませた。祖父が誰かに彼の献上についての手はずを話している。どうやら儀式は無事に済んだのだろう。この身体が治れば、皇帝に仕えることになる。彼の住まう紫金殿はここからあまりにも遠かったが、焦ることはない。時間はたっぷりとあるのだから。
彼はそっと手を握りしめた。
全てを手に入れる。望む全てのものを。
口元に微笑みを浮かべ、再び彼は深い眠りに落ちた。
ふた月後。
傷の癒えた彼は叔母の伝手を頼り、後宮へと上がって皇帝へと仕えることになる。与えられた名は《富護》。一族に安寧と繁栄をもたらす者として、これ以上ふさわしい名はなかっただろう。
その類いまれな美しさとたおやかさは皇帝の心をとらえ、後宮の美姫たちを差し置いて、ひとかたならぬ寵愛を受けた。皇帝は五十四で崩御し、そのとき彼はまだ二十一であったが、皇帝の死を悲しみ、自らすすんで殉死を望んだという。




