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マーチュウ(下)

 久遠が紅蘭民の商人に身請けされるらしい――。

 噂は少年の耳に届いたが信じられなかった。いや、信じたくないというのが本音で、久遠が自分を置いてここを出ていくなど、考えたくもなかったのだ。


 昨日も彼女と話したが、そのようなことはおくびにも出さなかった。いや、あるいは――。

 話す必要などないと思われたのだろうか。久遠は少年にとって大切な存在だが、果たして久遠はどうだろうか。

 彼女にとって自分など、苦界におけるひと時の慰みもの。出ることが決まってしまえば、もはや用はないのかもしれない。


 本人に聞けば早いのだろうが……。

 真実に傷つけられるくらいなら、何も知らない方がましなのかもしれない――。


 そんなことを考えていると、今すぐにでもここから逃げ出したくなった。久遠がいなくなってしまったら、いったい自分はなにを支えにしていけば良いのか。

 マーチュウは大切な友だちだ。だが久遠は友だち以上の、少年にとってかけがえのない存在なのだ。その久遠を失うことは身を切られるより辛かった。


 どうすれば良いのだろう――。


 考えれば考えるほど混迷は深まり、そのうちみぞおちの当たりがしくしくと痛んできた。

 昼前にふらりと姿を現したマーチュウに、少年は訴えた。


「久遠姐さんが身請けされるらしいんだ。それって姐さんにとってはとてもいいことだよね。分かっているんだ。姐さんの幸せを思うなら、黙って送り出してやるべきだって」


 マーチュウは銀色の目で少年をじっと見上げ、ふんと鼻を鳴らしてから俯せになって寝てしまった。しかし寝ていないのは長いしっぽが左右に動いていることから明らかで、一応少年の話に耳を傾ける気はあるらしい。


「僕なんか子どもだし、こんな状況で、姐さんを幸せになんかできっこない。だからこれでいいんだ、これで何も問題ないんだって」


 指先でそっとマーチュウの毛並みに触れた。


「大丈夫だよね、僕にはマーチュウがいるもの。姐さんがここを出ても、きっとやっていける。僕は姐さんが幸せになれば、それで満足だよ」


 彼自身理解しているのだ。本当はそんなこと思ってなどいない。だが強がらなければ足元から崩れ落ちてしまいそうで、マーチュウにではなく、自分自身に言い聞かせているのだと。

 マーチュウは起き上がり、大きく伸びをして後ろ足で耳の付け根をかいた。そして窓枠にひらりと飛び乗ると、そのまま出ていくかと思いきや、振り向いて少年をじっと眺める。

 どこか哀れむような視線だった。それは明らかに獣の目などではなく、感情や知性を感じさせる。


「マーチュウ?」


 声を掛けるとあっというまに姿が見えなくなった。

 それから間もなく久遠から呼び出しがあり、話があるという。きっと身請けに関する話に違いない。さんざん迷った末に結局出向いて、久遠に対峙した。どのような事実も受け入れると覚悟して。

 しかし、彼女の口から出たのは予想をまったく裏切る事柄で。


「身請けの話だけど、一度断ることにしたの」



 * * *



 少年は自分の耳を疑った。

 身請けの話を断る。普通の娼妓にしてみれば、ここ苦界を抜け出す唯一の好機なのだ。それを断るなど信じられない。

 同時に少年の身体の奥底から、隠しきれないほどの喜びがわき上がってくる。それをあえて顔に出さぬよう、


「どうしてですか」


 と訊ねた。なんだか自分が話している感覚がない。


「先方との条件がね、合わないのよ。私は身請けをしてくださるなら、白雪(バイシェ)もう連れて行けないと嫌だって言ったの。でもね、なんでも向こうの奥方は猫がお嫌いなのですって。おなじ屋敷にいるだけでも耐えられないほどみたいで。それならお断りするより他、ないでしょ?」


 よく分からないが、どうやら身請けをする商人は、同じ屋敷に本妻と久遠を一緒に住まわせるつもりらしい。


「あとね、私のお世話をする従者に《黒猫(ヘイマオ)》、あなたも一緒に身請けして欲しいって、お願いしたの。

 だって、向こうはそれくらいのお金、ある人なのよ。無茶な話じゃないわ。でもそれは出来ないって。ならこの話はご破算にするしかないわ」


 呆けたような表情で少年は久遠を眺めた。彼女がそこまで自分のことを考えていてくれたとは。一人で悩んでいた自分がなんて馬鹿だったのか。もっと早く、久遠とこうして対話すべきだった。


「そんな、ダメですよ姐さん。僕のことを考えてくれるのはありがたいです。でも、せっかくのいい話を」


「白雪は私の家族同然なのよ、そして《黒猫》あなたもね。私一人だけ、ここを出てあとは知らんぷりなんて出来ない。ここを出ていくときは白雪も黒猫も一緒。それは譲れないわ」


「でも、それじゃ……」


「心配しないで。ちゃんと策は練っているもの。きっと上手くいくわ。あの人には別邸を用意してもらって、そこに通ってもらえば問題ないもの」


 このとき、少年の心には筆舌に尽くしがたい葛藤があった。

 もし久遠が誰かに身請けされ、少年も一緒にここを出て行けたとしても。

 毎夜、久遠を抱くその男の世話にならなければならないことに、果たして耐えられるのだろうか。


 娼館という場でなら、務めだから仕方ないと思える。

 しかし、身請けされればもう彼女は夫人であり、一人の男の所有物となる。つまり、久遠は自分の手の届かないところへ行ってしまうのだ。

 たとえ、従者として彼女に仕えたとして、二人の間に生まれた溝はけっして埋まらないだろう。生きる世界が違うのだから。


「姐さんは……」


 うつむいたまま少年は尋ねた。


「どうして……僕なんかのために……」


「さあね、どうしてかしら。自分でも分からないけど、あなたって放っておけないのよ」


 表情は見なくとも少年には分かった。久遠が浮かべた優しい微笑みに。彼女はこんな自分の事を家族として思ってくれている。それを喜ばないわけにはいかないのに……。

 心が軋みをあげるのはなぜなのだろう。


「でもどうなんでしょう、あの旦那はいささか厄介なお人だと思いますよ」


 それまで黙って話を聞いていた阿姨(アイ)が言葉を挟んだ。


「財をなした殿方のなかには、お金について女にあれこれ言われたくないと考える方もおります。あの方は久遠さまのことはお綺麗な人形のように思われていたようですし、それがこのように断られて、へそを曲げたりしなければ良いのですが」


「それなら破談になるだけよ。べつに私は構わないわ。馴染みはあの方一人じゃないもの」


「それは確かにそうなのですが。楼主はせっかくの身請け話を反故にされるわけですからね。あの儲けにうるさい楼主が、黙っているはずがないでしょう」



 * * *



 阿姨(アイ)の懸念はその通りになった。

 男は久遠の身請け話を破談とし、それに怒り狂った楼主は久遠を激しく非難した。


 楼主の懐に入るはずの大金が幻と消えたのだ。取らぬ狸の皮算用で伸ばしていた皺を思いきり深くして、あらん限りに久遠を罵倒した。

 おまけにその理由が彼女の大嫌いな猫ときている。たかが畜生とののしって地団駄を踏んだが、久遠の方は涼しい表情で楼主の罵声を聞き流し、その昔、白い猫が高僧を導いた故事を踏まえた五行詩をしたため、


 ――たかが畜生とはいえ、摩尼の慈悲も注がれましょう。全ては道が教えてくれること。


 そう言って楼主へと贈った。

《長三》には楼主であれ礼を尽くさねばならない。妓楼の不文律を破った楼主と、その楼主に詩で答えた久遠。誰もが久遠に同情と賞賛を贈った。身請け話は破談になったものの、却って評判のあがった久遠は少年に笑って言った。


「いつか、自力でここを出ていくことを考えているの。もちろん白雪とあなた、阿姨(アイ)も一緒にね。どこか遠くの、誰も私たちを知らない場所で、静かに暮らしたいわ」


 顔を上げた少年と久遠の視線が静かに重なる。

 そのとき、少年は全てを理解した。

 彼女が自分を愛してくれていることに。そして、自分が彼女を愛していることに。


 心の奥深いひだが小刻みに震え、歓喜と悲哀が同時に押し寄せてきた。

 指先が震え、膝の上でそっと握りしめる。

 上手く笑おうとしたのに、どうしても泣きそうになってしまう。でも泣きたくなかった。彼女のために強くありたい――心からそう思ったから。


「僕もそう思います。マーチュウを連れて、ここを出ていきたい」


 感情を押し殺した声でそう告げた。


「そうね、マーチュウも連れて行かなくてはね」


「でもどうでしょう、白雪とうまくやれるか心配で」


「分からないわね、でもマーチュウは賢いからきっと上手くやってくれるわ」


 久遠と少年は微笑み合った。

 きっとそんな未来がこの先にある――それは暗闇のなかに光る灯火のように、少年の心を照らしてくれた。どんなに辛くても耐えていける。久遠との幸せを掴めるなら、なんだってやってみせる。


 白雪が行方不明になったのは、それからおよそひと月後のことだ。

 首を折られた無残な姿で路地裏に捨てられていたのを、男衆が見つけた。

 風に冬の匂いが漂いはじめた、秋の終わり頃である。


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