マーチュウ(中)
白雪は警戒心の強い猫だが、機嫌の好い時は少年に身体を撫でることを許してくれた。もしかしてマーチュウの匂いに、気を悪くしたのかもしれない。
「気にすることないわ。猫って気まぐれだもの。それより今日は顔色が良いようだけど、咳はどうなの?」
「おかげさまで、すこし治まってます」
咳に苦しむ少年を見かねて、久遠は上客の一人である医師に少年を診せた。
身なりの良い紳士はとても厳しい面持ちで、出来るなら転地療養をした方がいい、それが出来ないなら薬を処方するので、必ず飲むようにと言い渡した。
翌日、薬は久遠の元へと届けられ、阿姨から少年に手渡された。もちろん楼主のあずかり知らぬことだ。
薬のおかげが、以前より咳き込むことが少なくなった。久遠の客などの世話になりたくなかったが、身体が楽になったのはありがたい。
「本当はここを出て、空気の良い場所で療養出来れば一番なのだけど」
「そこまで望んでいませんよ。薬をいただけただけでも身に余る僥倖です」
久遠は目を細め、少年の顔を凝視する。心までも見透かすような視線に絡め取られ、思わず頬が熱くなった。
「だめよ、もっと自分を大切にしないと。あなたを探している人が、そのうち見つけて、ここから出してくれるかもしれないのだし」
少年は嘉殷と珠璃のことを思い出し、暗い気持ちになった。
彼らにだけはいまの自分を知られたくない。きっと失望し、軽蔑するだろう。それならむしろ、このまま久遠のそばにいたいと心から思う。
彼女に甘え、微笑みを間近で見ていたい。そしていつかもっと大人になり、彼女を守れるようになれたら。
急に胸の奥が苦しくなり、いたたまれない気持ちになった。久遠の顔をまともに見られなくなり、
「そろそろお暇します」
そう言って椅子から腰を浮かせた。
「そうね、あなたも少し眠りなさい。今日は湯浴みが出来るのでしょう? 疲れが取れるわ。そうだ阿姨、あのお菓子を持たせてあげて」
「はいはい」
御簾の奥へと引っ込んだ老女が、小さな皿を手に戻ってくる。なにかの果物がのった焼き菓子で、とても長い名前だ。これまでも何度か聞いたことがあるのだが、少年はいまだに覚えられない。
「マーチュウによろしくね。いつか私も会いたいわ」
久遠はそう言って窓の外を眺めた。
「今日は暑くなりそうね」
* * *
務めを果たしているとき、少年は決して叶わぬ夢を頭のなかで描く。
どこか遠い知らない街に久遠と逃げて、そこで暮らすのだ。そのときは白雪とマーチュウも連れて行く。もし叶うなら阿姨も。
自分も久遠も字が書けるから代筆を生計としてもいい。久遠は琴と琵琶の稽古も出来る。
住む場所どころか、どうやってそういった住まいを探せばよいのか分からないが、阿姨ならきっと知っているだろう。
顔は似ていないかもしれないが、姉弟だといえば疑う人はいない。
慎ましい暮らしで充分だが、もし稼ぎが足りなければ、自分が頑張って人足仕事をやる。久遠のためなら慣れない力仕事だって出来る気がした。
問題は白雪とマーチュウだ。仲良くしてくれればいいが、どちらかが追い出されたりしないだろうか――。
務めが終われば、客はさっさと寝てしまう。
真夜中、痛む尻を押さえながら厠へ行った。今日の客は一見で、なじみ客の紹介ということだったが、ひどく乱暴で苦痛を声に出さないのがやっとだったのだ。
厠からの帰り、ふらふらと廊下を歩く少年に声を掛けたのは、二番人気の娼妓、珠璃娃だ。
ゲルド族の特徴である額の入れ墨は、精霊の加護を示すのだという。両手に彫られた渦と草木模様を組み合わせた模様は、子孫繁栄を願うものなのだとか。
なぜ彼女がこんな場所に売られたのか、少年は知らない。久遠とは正反対の勝ち気な性格が苦手で、あまり話したこともなかった。
「あんた、大丈夫? 顔が真っ青だよ」
大丈夫だと言いたかったが、声が出てこない。かろうじて頷くと手首をつかまれた。
「大丈夫だって顔じゃないね。おいで、こっち」
強引に連れて行かれたのは珠璃娃の部屋だ。隣の寝室には客が寝ているはずだ。それでも構わずに珠璃娃は少年を椅子に座らせ、化粧箪笥をあけてなにかをさがしている。
木卓においたのは小さな薬瓶だ。硝子の器にわずかにそそぎ、水差しの水を注いで希釈してから
「飲んで。痛みが治まる。あと造血の作用もあるから貧血にきくよ」
少年に手渡した。
有無を言わせぬ口調に、黙って口にする。かすかな苦みが喉を通り抜け、大きく息を吐きながら背もたれに身体を預けた。
目眩がして、しばらくは動けそうもない。
「あんた血が足りてないんだよ。生まれつきそういう身体なのかもね。本当なら鳥の肝なんかをたくさん食べなきゃいけないのに。
おまけにそんなに痩せて、どうやら肺も悪そうだ。はっきり言うけどさ、ここを出ないと死ぬよ、あんた」
「失礼ですが、お医者さん、なんですか」
「そんなんじゃないけどさ。余計なお世話だけど、ここで死んだってなにもいいことないからね。死にかけたらまたどっかへ売られるだけなんだから。知ってる? 死にかけの娼婦を買う引き取り人がいるって」
少年は目を閉じたまま、黙って首を横に振った。珠璃娃は声をひそめ、少年の耳元に口元を寄せる。
「このあたりの娼婦や、貧乏人が死にかけると、どこかから荷車をひいてやってくるんだ。死んでしまったらダメ、明日にでも死にそうな病人を買ってくれるんだって。
買われた奴らがどこへ連れて行かれて、どうなるか誰も知らないってさ。あんたが客を取れなくなったら、あのババアにさっさと売り払われるよ。気をつけな」
うっすら目を開けると、痛みが少し引いているのが分かった。立ち上がり、
「ありがとうございます。もう帰りますね」
頭を下げる。
部屋に戻ると客はいびきをかいて寝ていた。なるべく視界に入らぬよう、部屋の片隅に座り膝を抱える。
自分一人のことすら精一杯なのに、どうして久遠を守れようか。ひどく惨めな気分になり、膝に顔を埋めて声を殺して泣き始める。
ふと柔らかな毛の感触が足首にあたり、顔を上げるとマーチュウがいた。微かな街の灯りを受けて輝く銀色の目が、じっと少年を見上げている。
「お前……もしかして慰めてくれてるの?」
問いかけると脛に頬を擦り付けてくる。そっと抱き上げると目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
「ありがとう、本当にお前は賢くて優しいね」
首元に鼻先を埋め、息を吸い込むと、暖かいひなたの匂いがした。胸の裡にほのかな明かりが灯り、温もりで満たされていく。
抱いているのは自分の方なのに、包み込まれているような安らぎを覚えた。生命が持つ力強さにほんの少し気力が湧いて、マーチュウを床に降ろしたあと、少年は頬の涙を拭って微笑んだ。
「ありがとう、もう大丈夫だよ。今日はもうおかえり」
しっぽに触れるとひらりと窓枠に飛び乗り、振り返らずに出ていった。少年は考えた。
もしかしたら自分の母はとうに死んでいるのではないか。そしてマーチュウは母の魂が遣わした特別な猫なのではないかと――。
やがて季節は本格的な夏になった。
王都は大陸の比較的北にあり、夏は過ごしやすい。しかしこの夏は珍しく厳しい暑さが続いた。少年の身体に猛暑はこたえたが、久遠の薬のおかげか、なんとかしのげている。
珠璃娃とはあれから話すことはない。ときおり視線が合うことはあっても、あえて言葉を交わすことがなかった。
マーチュウは毎日少年を訪ねてくれて、エサをねだり、好きなだけ昼寝をして帰っていく。それは少年にとって、辛いながらもささやかな幸せを感じられる日々だった。
そうして短い夏が終わり、空に秋の気配が滲みかけた頃。
久遠に身請けの話が持ち上がった。




