恋に落ちて
奇妙なお願いではある。
死にたいという人間は多いが、他人に殺されることを望むものは少数だろう。
だがどれだけ奇妙だろうが、冬磨に拒否権はない。生き返りたければ、受け入れるしかないのだ。
(分かった、取引したい)
頷きたかったが首が動かなかったので、目で訴えた。その答えに満足したのだろう、女はうなずき
「契約は成立した。約束は必ず成就する」
そう言って立ち上がった。
「さようなら、いつか必ず、また会いましょう」
待ってくれ。
感覚のなかった指先に力が戻ってくる。全身を温かな血が通い、
「待ってくれ」
かすれた声で訴えた。
「お願いだ、待って……」
伸ばした指先が優しく包まれる。
大丈夫、どこにも行かないわ。指先の温もりがそう伝えていた。幼いときに触れてくれた母の優しさで。
そして冬磨は考えた。
ああ、もしかして全ては悪い夢だったんだ。目が覚めたらきっといつものベッドにいるんだ。
姉ちゃんはもう大学に出発していて、パジャマのまま父さんと母さんで朝ご飯を食べる。
顔を洗って制服に着替え、一番近いスクールバス指定の停留所まで歩いて、いつものメンツに挨拶する。
下らないことを話してバスを待ち、乗り込んだら学校に着くまで短い睡眠を取るのだ。
いつもの何気ない日常。それがまた戻ってくる。
目を覚ませば、そこは――。
すみれ色の瞳がじっと冬磨を見据えている。どうやらまだ夢の続きを見ているらしい。
「目が覚めた?」
訊ねられたが、答えるべきか迷った。
夢の相手に律儀に返答する謂れはない。そうだ、このまま二度寝しよう。今度はちゃんと朝になって――。
むぎゅーっ。
「いでーっ!!!」
頬を思い切りつねられて、冬磨は絶叫した。飛び起きて手を振り払うと、相手は珍しい動物を見る子どもみたいな顔になる。
「気がついたのね。良かったわ、なんともなくて」
あの少女だった。
深い青色のドレスが相変わらず似合っていて、人形のように美しい。だが生気に溢れた表情は、人形とは程遠かった。
つねり方の容赦のなさは思いやりの欠片もない。天使のような容貌にもかかわらず、彼女が慈愛や優しさとは無縁なのが明らかだ。
「生きてる」
思わずそう呟いていた。 いつのまにかベッドに寝ていて、病院なのか、清潔な消毒薬のにおいがする。
「生きてる……」
事実を確かめるように、もういちど言葉にする。
みぞおちの辺りに、たしかに銃で打たれた感触があった。石畳に倒れ込み、そのまま死ぬかと思っていたのに。
「そうよ、びっくりした。打たれたのに生きてるんだもの。弾は間違いなくお前の身体を貫いたはずのに、傷は皮膚についた火傷だけ。お医者さまも訳が分からないと仰ってたわ」
顔をぐいと寄せ、
「いったいどんな魔法を使ったのかしら? 青い目の東方人さん」
魔法!?
これはあくまで、不思議なことの比喩としての言葉なのだろうか。それともまさにこの世界には、魔法というものが存在するのだろうか。
そういえば、あの御者も老人から若い男に姿が変わっていたが、どう考えてもただの変装ではなかった。
言葉を失った冬磨に、少女はからかうように言った。
「もしかしてお前、魔法を知らないの? ひょっとして、紅蘭民のものすごい田舎から来たのかしら」
「……紅蘭民?」
オウム返しに問いかける冬磨を、少女は呆れたように見つめる。
「本当に知らないの?紅蘭民はカルタリアの東、塩海と砂漠を抜けた先にある大国よ。お前はてっきり、そこから来たのかと思っていたけど」
コランダム、カルタリア、ザルバ……。
ここは冬磨のいる世界とは違う。薄々気がついていた事が、いよいよ真実味を帯びてきた。間違いない。
俺、ひょっとして異世界に転生したのか?
しかしそのことを説明するべきかどうか。違う世界の日本から来たなんて言っても、絶対に信じてもらえない。
「あの……俺……」
胡乱な目つきの少女に、冬磨はしどろもどろで答える。
「その……こっちのことは、よく分からなくて」
「分からない?」
「自分がどうしてあの檻にいたのかも、知らないし。魔法とかコランダムとか言われても……」
「ふうん」
少女は腕を組み
「これはどうやら、お医者さまに見せる必要がありそうね」
椅子から立ち上がる。
「ところでお前、自分の名前も忘れたの? なんて呼べばいいのかしら」
「それは覚えてる。入江冬磨」
「イリヤ・トーマ……ね。どっちが名前?」
「トーマ」
「分かったわトーマ。これからお医者さまを呼んでくるから、大人しく待ってるのよ」
少女はいったんトーマに背を向けたあと、思い出したように振り向く。
「まだ自分の名前を言っていなかったわね。私はフリーデ。エルフリーデ・アンネローゼ・フォン・アッシェンバッハ」
「エルフリーデ」
「ええ。でも、お前はこれから、私のことをお嬢さまと呼ぶことになるわ」
だって――フリーデはふんぞり返り、人差し指を冬磨の鼻先へと突きつけた。
「お前は私に買われたのだから」
マジかよ。
「そうよ、感謝して欲しいわね。おまけに特別室に入れるなんて、奴隷上がりの東方人としては破格の待遇だわ。私がここの病院長にたのんで配慮してもらったの。どう?」
たしかに、部屋の内装がえらく豪華だとはさっきから思っていた。
ベッドはふかふかでやけに広いし、おまけに天蓋がついている。シーツも枕カバーも、張りがありながら手触りがよく、いちど家族旅行で泊まった高級ホテルを思い出させた。
無言の冬磨に、フリーデは大げさなため息をつく。
「どうも反応が薄いわね。東方人というのは皆そういうものなのかしら」
「いえ、その……ありがとう」
「そういえば、お前に言っておかなければならないわね。私と一緒にいた侍女のこと」
フリーデが真面目な顔つきになる。ああ、そうだ。あの人は、たしか目の前で……。
「撃たれたのは足で、幸い、命の別状はなかったの。ショックで気を失っただけ。今は私の屋敷で治療を受けているわ」
「そうか……良かった·····」
嬉しい知らせに心から安堵した。思わず笑顔になると、フリーデはまぶしそうに目を細める。
「もともと誘拐が目的で、危害を加える予定じゃなかったのかも。でも、それはあくまで結果論ね。お前が飛び出してくれなかったら、彼女は助からなかったかもしれない。
それはそれはお前に感謝しているわ。だから、あの男たちからお前を買ってあげたの、どう? 嬉しいでしょ?」
まあたしかに。だまって頷くと
「本当に張り合いがないわね。もっと嬉しそうな顔をしなさいな。さっきみたいに」
左右の人差し指を冬磨の口元へつきだすと、
むにゅーっ
口角を無理やり引き上げる。
「ひえ、ほの……」
「おかしいわね、奴隷が私に買われるなんて、普通なら涙を流して喜ぶところだわ」
「う、うれひいれふ……」
ようやく指をはなして、フリーデは冬磨の目をのぞき込んだ。
「エレナは物心ついたときから、私に仕えてくれたの。その彼女が撃たれても、私は足がすくんで何もできなかった。
だからお前があの男に飛びかかって『逃げろ』って言ってくれたとき、私は自分を恥じたわ。自分の勇気のなさを」
冬磨の目から視線をそらし、耳元でささやく。
「いいこと、一度しか言わない。今から言うことを、お前の心に刻みなさい」
フリーデから漂う花の匂いにどぎまぎしながら、冬磨は耳をすませる。
肩にそっとフリーデの顎がのせられるのが分かった。反射的に身を固くした冬磨の身体に、細い両腕がまきつけられる。
かすかな力が込められ、二人の身体がぴたりと密着した。
「ほんとうに、ありがとう」
さっきとは別人のような優しい口調だった。
傲慢な態度に隠していた柔らかな素顔。繊細で壊れやすい内面に触れたような気がして、冬磨は胸の奥が苦しくなるのを覚えた。
ほんとうは細い身体を抱き返したいのに、拒絶されるのが怖くて、指先一つ動かせない。
「いいこと?」
フリーデの口調は高慢お嬢さまのそれに戻っていた。
「お前は私が買ったの。だから、お前の髪の毛一本、足のつま先まで、ぜんぶ私のものなの。全身全霊で私に仕えるのがお前の使命。それを決して忘れないことね」
こうして。
入江冬磨ことトーマは、このとき、エルフリーデ・アンネローゼ・フォン・アッシェンバッハに生涯でただ一度の恋をした。