狂騒
「どうじゃ気分は」
「もう最悪です」
修練場の床にねそべって大きく息を吐き出す。
車に酔ったみたいに具合が悪い。
視点が定まらず、胃からみぞおちへ吐き気がせり上がってくる。
気力でなんとか押しとどめているが、なにかの切っ掛けで盛大にリバースしてしまいそうだ。
「なに、はじめの頃はよくある事じゃ。そのうち慣れる」
「そのようなことを言われても」
午前いっぱい、みっちりと套路を打った。
なにしろ初めて覚える套路だ。それを身体にたたき込むのはかなりの荒技だったろう。
終盤は関節のあちこちから悲鳴が聞こえて、莫耶が離れたとたん、床へ倒れ込んでしまった。
肉体と勁を酷使しすぎたせいだ。頭痛と悪寒、吐き気がおそいかかり、身体に力が入らない。
「今をどうにかしたいんだよ、俺は。莫耶の力でなんとかならない? もう吐きそう」
「仕方ないのう、ほれ」
莫耶が袖を振ると胸のつかえが急におさまる。なんとか最悪の状況は脱したようだが、依然身体に力が入らない。
昨日ならリーゼロッテに癒やしてもらえたが、あいにくと今日は別の手段を取るしかない。
「莫耶、お願いがあるんだけど、あそこの瓶、取ってもらえないかな」
今朝フリーデにもらった瓶を指さし、力なく言った。
「あれで回復できれば……」
「お主はそう言うが、本当にあんな代物で回復など出来るのか」
疑わしげに言いつつも、壁際に置いてあったそれを取ってきてくれた。
「これは、どう開けるのだ」
「てっぺんのシジルに《開け》って念じると、勝手に開くらしいんだけど」
「ほほう、ほう……おっ、本当に開いたぞ。ほれ……お、おおう……」
莫耶がたじろいだのも無理はない。
飲み口からただよう異臭はただごとではなかった。例えるなら、果物ジュースと酢を混ぜたものを炎天下に数日放っておいたものの匂い。
「お主、これを本当に飲むのか? 妾はこの匂いだけでも耐えがたいが」
「いや、まあ……いろいろ事情があって。ごめん、ちょっと身体を起こしてくれるかな」
「う、うむ……これで良いのか」
背中を抱えるようにして、莫耶がトーマの身体を起こした。
「ありがとう、ちょっと……」
飲み口に鼻を近づけ、激しくむせる。
どう考えても人間が飲んでいい代物じゃない。腐ったアオミドロのような見た目といい、この匂いといい、もしかしてフリーデは自分を殺すつもりなのではないか。
そんな疑念が心をよぎったが、即座に否定した。
魔法薬学の話をしていたときのフリーデの表情を思い出す。彼女が俺に毒を盛るはずがない。
「莫耶、飲むよ。口元に当ててほしい」
「トーマ、む、むりは……生き急ぐでない」
「大丈夫だ。俺はフリーデを信じる」
冷たいガラス容器が唇に当てられた。流れ込んできた液体がどろりと舌の上をすべり、喉めがけて落ちていく。
なんという衝撃的なマズさ。
酸味と苦みと甘味、そして筆舌に尽くし難い青臭さが口のなかに広がる。
(こ、これは!?)
それぞれが調和せず、限りない不協和音を奏でながらトーマの喉を通り過ぎた。
身体が本能的な拒絶反応を起こす。嘔吐しかけたものを気迫でのみ込んだ。
吐き出すわけにはいかない、なにしろフリーデがわざわざトーマのために作ってくれたのだから。
ようやくそれが胃に到達する。
なんだ、大丈夫じゃんとほっとしたのもつかの間、全身が急激に熱を帯びてきた。
「どうした、トーマ?」
「身体が、熱い……」
「し、しっかりせい」
苦しそうに短く浅い呼吸を繰り返すと、かっと目を見開き、虚空に向かって両腕を突き出す。
「どうした、苦しいのか?」
「う……ぐ……が……」
ぐわああああああああああ!!!!!!
全身から振り絞るような絶叫をあげ、勢いよく跳ね起きた。握りしめていた両こぶしをひらき、己の手をじっとみつめ
「すごいっ! 力がっ、力がみなぎるっ!」
恍惚の表情で天を仰ぐ。
「わかるっ! 今、この時の俺はっ、誰よりも強いっ! 世界がっ、世界が俺にひれ伏すっ!」
「ト、トーマ?」
狐につままれた表情の莫耶を振り返ると、トーマは白い歯を見せて笑った。
そして素早い動きで彼女の前へ片膝を折り、
「莫耶、俺と結婚してくれ」
と告げる。
「はあ?」
「だから、俺と結婚してくれ。今、俺は全人類への愛で溢れている。当然莫耶もその一人だ。そんな俺たちが結婚するのは、ごく当たり前のことじゃないか」
「う……あ……」
とうてい理解し得ぬものを見る視線を送ったあと、莫耶の姿がかき消えた。
「ふっ、莫耶は照れ屋さんだなあ。しかし俺の愛は莫耶一人だけのものじゃない!」
明らかに目の色がおかしいトーマだったが、剣にひっこんでしまった莫耶は知らぬ顔を決め込むことにした。
トーマが修練場を駆け出し、風を切る速さで書斎へと向かっていく。
勢いよく扉を開けると、机に向かっていたギュンターが顔を上げた。
「やあ、トーマ、鍛錬は進んでいるかい」
「旦那さまっ!」
全速力で駆けたにもかかわらず、息ひとつ乱していない。勢いのまま、机越しに
「俺と結婚してください!」
大きな声で叫び、こぶしを握りしめる。
「え?」
「ですから、俺は旦那さまに非常に感謝しているんです。感謝してもしきれないくらいに。だから結婚してください!」
ギュンターはトーマの表情を見てなにかを察したらしい。
わずかな沈黙の後、
「君の言うことは分かった。だからそこに座ってくれないかな。結婚についていろいろ話そう。その前にちょっと電話を掛けさせてくれ」
邸内回線を呼び出し、何ごとかを素早く告げて、トーマの腕を優しく取った。
「さ、そこの椅子に掛けてくれ。いま何か冷たい飲み物を」
言いかけて、あっというまに床に転がされ、トーマに覆い被さられてしまった。
「じゃあ、俺と結婚してくれるって事で、いいんですね」
「いや、その、困ったな……」
ギュンターは苦笑いを浮かべた。
彼に覆い被さり、鼻息荒く迫るトーマの姿はただの変質者である。
そのとき扉が開いて
「旦那さま、なにか変な声が聞こえましたがいかがなさいまし……」
メイソンが異様な光景に言葉を失った。
常に平常心を心がけている執事も、理解の範疇を越えた非常事態に我を忘れたらしい。
暖炉わきの火かき棒をつかむと大股で駆け寄り、
「きさま、旦那さまになんてことを!」
トーマの頭上めがけて振り下ろす。
太い鉄棒が彼の頭蓋にめり込むかと思われた刹那――。
「ぐっ……」
執事の動きが止まる。
見れば、トーマが作った右手の剣指が、紙一重の距離で火かき棒を受け止めていた。
傍から見れば、そのまま押し込むかもう一度火かき棒を降りかぶればよいと思えるのだが、執事は微動だにしない。
いや、出来ないのだ。なにか不可解な力が働いて、押すことも引くことも叶わない。
「ふっ、かような攻撃、俺にはきかん」
指を軽く払うとメイソンの身体が前のめりに転びかけ、両手を広げたトーマに抱きかかえられた。
「メイソンさん! 俺とけっ――」
もしカートとリーゼがあと数秒到着するのが遅れていたら、メイソンにとっては最悪の出来事になっていたかもしれない。
室内にいた全員の髪がふわりと逆立った。
異変を感じ、トーマの気が逸れたすきをついて、飛び出したリーゼロッテがメイソンをすばやく引きはがす。
「うぎゃーーーーーーーーっっ!!!!」
無数の火花がトーマの周囲でまばゆく爆ぜた。
どさり。
仰向けに倒れた口からは泡が吹き出し、四肢がひくひくと小刻みに痙攣を繰り返す。
「まったく……殺さないぎりぎりってのが難しいんだよ。手間かけさせやがって」
手袋を脱いだ左手をさすり、カートがため息をついた。
「リーゼ、そのバカを頼む。そのままだと三日くらいは動けないはずだ」
「分かったわ」
「まったく一体なんて醜態だ」
乱れた髪をなでつけ、メイソンが言った。
「これだから東方人は信用ならないのだ。旦那さま、いい機会です。この男を……」
抗議する執事を押しとどめ、ギュンターが言った。
「これには何か訳があるようだ。すまないが、メイソン、誰か人を呼んで、彼を運んでやってくれないか。おっと……」
虚空から現れた莫耶が、漢服の裾をひらめかせながら降りてくる。
「こ、これは……旦那さま」
驚愕するメイソンを尻目に、いつもの長椅子に悠然と寝そべった。
「すまぬのう、この度は主人がたいそう世話を掛けた。どうやら原因はこれのようじゃな」
右手の薬瓶をゆらし、にやりと笑みを浮かべる。
「これはいろいろとフリーデに話を聞かねばな。なにやら面白いことになってきたわ」




