套路(とうろ)の記憶
学院へ出発する車を見送り、さっそく鍛錬に取りかかる。
昨日フリーデに手伝ってもらったのが功を奏したのか、勁をまわす站椿功はすんなり出来てしまった。これにはトーマ自身も驚いたほどで、
「やっぱり俺って、もしかして天才?」
などと言って莫耶を呆れさせた。
「それならもっと厳しくせねばな。珠は磨いてこそじゃ。本当はもっと先にと思っておったが、今日から套路を教えてやる」
「へえ、すごいじゃん。どんなやつ?」
「普通なら第八の套路《水地比》からじゃな。簡単な套路だが、攻防一体の基礎がつまっている基本の套路じゃ。
それを習得したのち、いずれは十ある全ての套路を覚えるのだ」
「十もあるのか」
一瞬、面倒そうな表情になったトーマを、莫耶は鼻で笑った。
「大昔は六十四あったのだ。乾、兌、離、震、巽、坎、艮、そして坤。
宇宙を八の要素にわけ、その八に八を組み合わせて六十四。この六十四卦にそれぞれ対応した套路があったわけじゃ」
「六十四って多すぎないか。そんなに覚えられるの?」
「もともと一つの套路が短いものが多かった。時間がたつにつれ、複数の套路が統合され、最終的に残ったのが十。
套路も時の流れとともに変る。より洗練され、実戦向きとなっていった結果じゃ」
「じゃあ早速やろうぜ、そのすい……なんとかってやつをさ」
やる気は充分とトーマは両こぶしを握りしめる。勁を全身にまわしたせいか、身体が信じられないほど軽い。
今ならどんなキツい稽古にも易々とついて行けそうな気がした。
「まあ待て、慌てるな。お主が習得するのは一つだけで良い」
「ひ、ひとつ?」
「さよう、たった一つでよい。八十八ともっとも動作が多く、難解な套路。
これを極めれば、お主は攻防一体の極意をわずかでも知るはず。全ての始まりにして奥義の片鱗。第一の套路《乾為天》じゃ」
「いや、そういうのって他のを覚えてからやるもんじゃ……」
尻込みしたトーマに、莫耶は扇をピシリと振り下ろした。
「そのような悠長なことを言っておる場合か。ひと月であの娘と、なんとか対等にやり合わねばならんのだぞ」
「たしかにそれは。でも八十八もある動作を覚えるのに、ひと月くらいはかかりそうだけど」
「その点は心配するな、套路は妾がお主に入って強制的に覚えさせてやる」
自信たっぷりに胸を張った莫耶に、トーマはぎこちない笑みを浮かべた。
「それなら、まあ、大丈夫かも……」
一度経験しているが、正直あの感覚は苦手であった。自分の身体が他人の思うままに動かされるというのは、気持ちのいいものではない。
だが、莫耶の言うとおり、手段を選んでなどいられないのだ。
「じゃあ、動きは莫耶に任せるよ。俺はなんとか覚えるから」
「よし、では始めるか」
ぱたり。
莫耶が扇をたたむと同時に、軽い目眩を覚えた。
* * *
右手に剣の重みを感じる。剣柄に左手を掛け、ゆっくりと鞘から引き抜いた。
剣身に浮かび上がる波模様が、窓から差し込むわずかな光りにきらめく。
足幅は肩の広さに、両手を目の高さに構え、起勢から前環四十四式。
右手は剣指をつくり、前方を払ってからの崩剣。剣先は空を斬り、天を仰ぎ、剣身は光の柱となって大地へと突き刺さる。
旋転。
軸を低く落としながら左へのなぎ払い、続けて右へ弧を描く抹剣、足への攻撃をかわし頭部への反撃に転じる掄劈。
三環套月大魁星式
懐中抱月宿鳥投林
夜空に月がかかり、北斗七星が瞬く。鳥は林に羽を休め、剣士は月を懐に抱く。
刃が凍てつく冷気をまとって、虚空を切り裂いた。
套路とは戦いの定型だ。全ての動作に敵との攻防があり、隙がなく無駄がない。
左右からの切り込みを緩くかわしたかと思えば、すかさずの反撃、鋭い突きを繰り出して腹を割き、剣首で頭蓋を砕く。
そしてトーマは理解した。
左手は剣指、つまりは鋭く突き立てた人差し指と中指を剣に見立てているのだが、もともとここにはもう一振りの剣、干将が握られているべきだった。
いや、本当なら右手に握られているのが干将、左手に握られていたのが莫耶だったのだ。
青龍出水風巻荷叶
青龍が水から飛び出し、高く舞い上がる。水滴は玉となり、風が吹いて蓮葉が空へと散った。
跳躍。
足が地を蹴って、身体が宙へと飛んだ。その刹那。
視界にまるく輝く月が飛び込んでくる。
見たことがないくらい巨大で、銀色に輝くそれに目を奪われ、トーマはふとあることに気がついた。
自分のなかに、莫耶以外の《誰か》がいる。
* * *
女だった。しかもまだ若い。
歳はトーマと同じくらいか。頬とうなじの感触から、長い髪を後ろで一つにまとめている。
それにしてもやけに寒い。季節は冬なのか。
宙に浮いた身体が着地し、積もった雪を踏んだ。月光と雪明かりが、ひらめく二つの剣をこうこうと輝かせる。
左手に波模様、そして右手に亀甲。
突きからのすくい上げ、莫耶は左からの攻撃を受けながし、干将が隙を突いた袈裟懸け、続けて切り崩しの斬撃を繰り出した。
まさに攻防一体。
ふた振りの刃が空を裂くたび、冷気を帯びた残像がまばゆく尾を引く。
動きは流れる水のように無駄がなく、周囲の凛とした空気と呼応して、耳には聞こえぬ旋律を奏でた。
常人の目には追い切れぬほどの速さ。
繰り出される剣技はまさに疾風である。雪を踏みしめる靴裏はもはや身体の重みを忘れ、少女の意のままに足跡を描いていった。
どこかで鳥が鳴く。
淀みのない剣筋は孤高そのもの。余人を寄せ付けぬ厳しさは、はるかに稜線を浮かび上がらせる雪峰のごとし。
それ故か、少女には孤独が染み付いている。
いや、それだけではない。
深い諦めと絶望、悲しみ、後悔。
心の裡をありありと感じることができた。まるで自分のことのように。
やがて全ての動作を終え、剣が静かに下ろされる。少女は瞑目し、己に問いかけた。
なぜ套路を打つのか――。
* * *
仕事を終えた日の夜は、かならず套路を打つ。雨が降ろうが雪が降ろうが、あたかも禊ぎであるかのように。
それで身体についた血のにおいが消えるわけでもないのだが。
套路を打てばそのあいだは無心になれるし、煩わしいことに向き合わなくて済む。
人を殺して金を稼ぐことには慣れてしまった。
だが慣れてもときおり、そら恐ろしくなるのだ。このような所業を重ねていけば、いつか何らかの罰が下るのではないかと。
それでも足を洗わないのは、ひとえに金のためだった。
頼れる身内もなく、誇れるのは剣の腕のみ。
そんな自分が生きていくには、血なまぐさい稼業に頼るしかなかった。それが嫌なら妓楼に身を売るだけだ。
摩尼寺を出奔したのは、少女が十四のとき。それから二年、江湖の世知辛さは身にしみて分かっている。
年若い娘にとって、外界はまるで光の差さない暗い森のようだ。少しでも気を緩ませれば闇から獣が襲いかかり、少女を引き裂いて食ってしまう。
食われるのはいやだ。ならばこちらから獣を狩るまで。
獣を狩り、金がもらえる。しかも狩る相手は誰かの恨みを買った悪人ばかり。誰からも文句は出ない。
いいことずくめだと常日頃おのれに言い聞かせている。迷いも良心の呵責も必要ない。全ては自分が生きるためだ。
しかし。
その一方でもう一人の自分が耳元でささやく。
人を殺して金を稼ぐお前の生にいったい何の意味があるのか。お前が殺した悪人たちより、お前の方が上等だというのは傲慢ではないか。
殺してよい命とそうでない命。選別するお前は神にでもなったつもりなのか。
違う。
違わない。
いや、違う。
迷いは死に繋がる。だから常に前だけを向いてここまて来た。
摩尼寺を逃げ出したときも、道場荒らしをやっていたときも、金貸しの用心棒で初めて人を殺したときも。
弱ければ誰かに何かを強いられ、意に沿わない人生を送らねばならない。
少女はそれをなにより憎んだ。
誰かに人生を決められ、それに抗うことも出来ず、泣いて老いていくのは嫌だった。
なぜなら少女の母がまさにそのような境遇だったから。
尼寺に送られ、したくもない剃髪をさせられ、着たくもない袈裟を着て、日がな呆けたように座っていた。
生まれて間もなく尼寺に預けられた少女は、父を知らず、母は唯一の肉親である。
しかし、母からは優しい言葉一つかけられず、むしろ面倒を見てくれた尼僧たちが親代わりであった。
少女が五つか六つの頃。
初めて母が少女に声を掛けた。
あれは春だ。冬がおわり、ようやく草木が芽吹き始めた。その春に初めて咲いた野の花を母に見せたくて、摘んだものを小堂に持って行った。
母は読経をやめ、少女と花を交互に見つめ、抑揚のない声でこう言ったのだ。
おまえなど、生まなければ良かった――。
その言葉の意味を知ったのはずっとあとだ。
母が昔は後宮に暮らし、寵愛を受け、少女を生んだこと。
しかし身一つで尼寺に預けられ、剃髪させられたこと。
その理由が全て少女にあったこと。
亀甲模様の剣身を目の高さに構える。
月明かりが荒く磨いた鏡のように、涼やかな双眸を映し出した。
青く光る二つの眼は、少女に刻まれた逃れられぬ運命そのものだ。
蒼眼の忌皇女という名の――。




