一編 2 (8)
二人の手足が例の夜歩きのときよりも少しばかり伸びた頃である。流石に流水は凍ってはいなかったが、川辺の水草は凍っていた。彼は一回り年下の子供達が遊んでいるのを、街中の小川に架かったアーチ橋から眺めていた。
「可愛いね」
「俺はあまり子供は好きじゃないけどな、あれを……」
それきり黙り込んでしまう。
「……少し前までは冬が来る度に喜んでいたじゃない」
「少し前っていつだよ、俺がガキだったころの話を持ち出すな。まあたしかに冬は好きだ。夏よりもよっぽど好い。澄んだ空気はおいしいしそれに……」
またしても途切れる。少年は思案する。少女は言葉が紡がれないのを知って問いかける。
「それに?」
顔をのぞきこまれた少年は大袈裟に身を翻して天を仰ぐ。
「別に……」
「最近リアンが冷た~い、もしかしてこれって浮気?」
少女の背後にいる同い年の少女にマセた事を言う。
「え!?そ、そんなことはないと思いますけど……」
小声で一口に言う。
「今のは『そうかもしれませんね』って笑いながら言えばいいのよ」
「す、すみません……」
彼女は最近よその貴族の家から侍女として来たので、仕事はできるのだが紋切り方であった。一方の少女が貴族らしからぬともいえるが、それが母の気質が北方の気質かは判別し得ない。
冬の水辺は寒い。少女が冷え切った腕を少年の腕に絡ませる。
「寒い!」
「ああ」
「でも冬が好きなんでしょ?」
「ああ」
「なんで?」
「結局それか」
「気になる」
「言う義務はないな」
「昔は何でも言ってくれたのに」
むくれる少女。少年も特別言いたくない理由がある訳ではない。ただ言いたくないから言いたくないのだ。
「昔って……だからいつだよ」
「……でも最近は本当に何にも言ってくれなくなった」
少女が少年の手をいたわるようにそっと握る。
「それは……前がおしゃべりだっただけだ。俺も成長してるんだよ。別に隠し事がある訳じゃない」
「じゃあ何で好きなの?」
「それは……別に好きなものに大した理由なんて無いだろ」
「はぐらかした!」
「違うって!単純に好きなものにくだくだしい理屈をつけるのはおかしいだろ!」
…………
「父上!」
「ああ、久しぶりだな。何年ぶりだったか。随分と大きくなったな」
屈強で彫りの深い顔つきの白老が華奢な少年を抱擁し喜ばしげに言葉を交わす。
二人はしばらく抱き合ってこちらには気づく気配も見せない。
彼は鎧を着けて槍を手にしていた。掌の皮は剥け血が滲んでいた。全身から大量の汗を流して肩で呼吸していた。足の裏はあらゆる刺激に過敏になっていた。下半身は上半身を支えるのに精一杯でそこらに座り込みたかったのに、彼はその場に釘づけになって棒立ちしていた。
彼は人生の大半をそれに費やしていた。彼の周りに立ち並ぶ木々は枯れていたはずだ。これは冬だから葉を落としたのではなく彼の長年の修練に付き合わされた結果立ち枯れになったのだった。彼はそれ以外何も教えられてこなかった。まだ枯れていない一本のブナの木も根本は傷だらけで抉れてもいた。
やがて白老が気づく。
「ああ、お前か。着替えたら食堂に来い」
「兄さん!はやく着替えてきてね!」
「あ、ああ」
彼は灰色の木々に囲まれて居たにも関わらず、父と弟が長い廊下を肩を並べて歩いて行くのをいつまでも眺めていた。全身の汗が若く強健な肉体から急激に体温を奪っていった。
…………
「兄さん!兄さん聞いた?」
「なんだ?ようやくお前の婚約相手でも決まったか?おめでとうルッツ」
笑いながら言う。
「違うよ!」
ルッツが咳をする。彼は体が弱かった。いつも屋内に居ながら、いつも屋外で鍛練するほぼ同い年の兄を慕っていた。よく兄さんが羨ましいと言い、己の病弱を呪っていた。
「大丈夫か、それで何だ」
「母さんだよ!母さんが明日来るんだ!」
「そうか」
期待が外れて肩を落とす。
「そうか、って兄さんは嬉しくないの?」
「俺は一度会ったことがあるからな」
「どんなだった?やっぱり綺麗な人だった?優しかった?」
「会えば分かる」
彼は硬い表情をしていた。
…………
母は笑っていた。彼はそこで初めて母の美しいことに気がついた。ルッツも普段に増してよく笑った。自分の体調のことなど忘れていたに違いない。よく見れば父も岩のような表情を笑わせていたかもしれない。専ら会話は母とルッツだけのものだった。弟が無理に話題を振ってくるのでそのときは弟のことさえ忌々しく思った。
他人には何を言われようと何か適当に言い返すことができるのだが、自分の思考や気づきにはそうもいかない。どんなに気づかなければよかったと思っても一度頭に浮かべばそれを追い払うことはできない。
残念ながら彼は生まれつき頭がよく回った。
(俺さえ居なければこのディナーは完璧というわけだ)
そう思うとひどく惨めになった。いたたまれなくなって、理由をつけて席を立ってしまおうかと思った。早く終わって欲しかった。
(ならば何故産んだ)
これ以上己の境遇を考えると女々しくも涙が出そうだったから何か別のことを考えなければならなかったのに、父が弟に優しく話しかけてるところが思い浮かぶばかりだった。
彼は五年以上経った今でもこの時のことを印象的に憶えていた。よくあることだ、と己をなだめたのをよく憶えているし、今でもそうして両親を恨まぬよう自分に言い聞かせている。
彼らがそのとき何を話していたのかは全く憶えていない。ただ自分が手持ち無沙汰に無為に座っていたのは鏡で見たかのようによく憶えている。
…………
その日初めて彼は辛いと思った。それまでは毎日当然のように数時間でもしていられたことを辛いと思った。三メートルはある槍を放り捨てて虚ろに座り込んだ。
無為に時間が過ぎていく。何も考えてはいなかった。彼の頭はあらゆる思考で満たされていた。何も考えたくはなかった。彼の頭は休むことを知らなかった。おまけにそのどれも彼を幸せにしてくれそうにはなかった。事実としてはそれほど時間は経ってもいなかった。
「さぼるな」
重い声に身を堅くする。全く気づいていなかった訳ではなかった。誰の足音かすら分かっていた。ただ取り繕う気力すら無く、先の展開を予想しながらも怠惰に四肢を投げ出していた。
重い沈黙。
彼は父の顔が見えない位置にあるのか、それとも彼が見たくないのか分からなかった。
(どうしてこんな事をしているのか)
今までは考えたこともなかった。しかし彼はその答えが分からぬほど愚かではなかった。分かっていた。武勇こそが将来の彼にとって唯一必要なものだった。彼はどこまで行っても帝国の後継者だった。
「ずっとそうしていたのか」
それがどこからどこまでを指すのか分からなかった。父が彼の様子を見に来たのは初めてだった。
「……」
父がどう受け取ったかは今でも分からない。
長い沈黙の間に一度だけ彼は父を一瞥した。この醜い顔がどうやったら笑うのか想像もできなかった。
「私はどうして生まれたのですか」
父が背を向けて去ろうとしたときに遂に言った。
「継ぐためだ」
「……」
「そのためにお前には全て与えられてきたはずだ」
(全て?)
彼は惨めだった。虚しかった。きっと父によく似て醜かったに違いない。
父が去った後も父に言われたことを繰り返し考え続けた。
…………
「……え!ねえ!聞いてる?」
「ああ……」
「……!…………!」
この辺りはどう頑張っても思い出せない。憶えているのは彼が次に口を開いたときのこと。
「どうしてお前はそこにいるんだ?」
どんな意味を持たせた問いなのかは発言した彼自身分かっていなかった。
「……?婚約者だから?」
どれほどの衝撃だったかは言うまでもないだろう。混沌たる思考のなかで父の発言が正しかったと知る。
「……好きだって言ってたのは?」
ほとんど伝える気のないかすれた呟きだった。しかし彼女は彼のこうした発言を聞き逃すことはなかった。
「婚約者だから!」
まるで彼がこの解を気に入ると知っているかのように自信満々に答える。
その後のことはよく憶えていない。たしか金切り声と水飛沫があったように思う。城を抜け出すのはあまり難しくなかったと記憶している。問題はそれからだった。いくら彼が強かろうと死ぬときはあっさり死ぬものだ。しかし彼はこの問題にはさして心を砕かなかった。むしろ無謀な旅をした。彼がここまで生きてきたのは生来の天運であった。
旅の中で(いや、それは旅に出ると決意した瞬間かもしれないが)彼は父の発言が一つだけ間違っていたことに気がついた。彼は全ては与えられていなかった。それさえあれば良かった、それだけが欲しくてその他には何も要らなかった、誰でも簡単に与えることができるのに、誰かに与えさせることは絶対にできないもの。それだけが、無かった。
あくまでも私の思想ですが人の発言には全て、どの程度であれ要因があると考えています。当然最後の少女の発言にも。これが分かっているといないのとでは、少女の印象が180°変わるので分からなかった方はこの話を少しだけ最初から読み返してみて下さい。ナンセンスな後書きですが間違った偏見をもたれる方がもっと嫌なので。




