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一編 2 (9)

 腐食というのはゆっくり進むものであるから、私も彼が腐って行く様子をゆっくりと書くべきだったかもしれない。彼は一睡もできない日もあれば何もかも忘れて眠った日もあったし、諸々の疑心も一日にして育ったものではない。しかしそれらは読み人達の想像に任せるとして、私は現在の彼に話を戻そう。



 人間の記憶は感情が先か事実が先か。つまり我々が過去を思い出すときに、先にそのときの自分の感情を思い出してからその原因となる事象を想起するのか、先に事実を思い浮かべてからそのときの自身の感情を想起するのか。どちらが正しいのかと気にする人間にお目にかかることはまずないだろうが、この差は大きい。前者の場合は当時の感情を保存できるが、「事実」が感情によって真実から遠く改変されてしまう可能性が高い。後者なら限り無くリアルな事象を保存できるが、それに対して抱く感情が、果たして当時抱いたものか、それとも今つくり出されたものなのかが分からない。どちらにせよ、いや、どちらでも無いにせよ、今ある事実は一つである。彼は当時のことを思い出し、非常な孤独と羞恥と死の衝動に襲われていた。これを忘れている間は、彼も笑みをほころばせることさえあるが、一度こうなってしまったらその日はもう何の温かみも幸福も感ずることはなくなってしまう。

(眠ることだ!眠ることだ!)

 それだけが回復する唯一の方法だった。しかし白いのは月だけだった。




「驚きましたよ。騎乗もできるとはね」

「ええ……」

「やはりただの旅人では無いらしいですね」

「どうでしょう……」

 リアンが馬上から見下ろすのはヘクター将軍の佐官であるバーデンという男であり、彼らは王宮の端にある厩と付属の訓練場に居た。訓練場の中心ではヘクターが己の兵士相手に轟音轟かせている。かすかなれど明らかに聞こえる怒号にバーデンは苦笑いして言う。

「ああも毎日つき合わされては大変ですね、奴らも」

「……焦れてるんですよ」

「ええ。あれはああ見えて真面目な男ですからね。しかし毎日つき合っているところを見るとあなたも、そうらしい」

「……他にやることがないんですよ」

「だから、焦れてるんでしょう?」

 二人は苦笑する。

「さて、この馬、ルルというのですが、良い馬なのですがなかなか誰にも懐きませんでね。しかしあなたには懐いたようだ」

「そうでしょうか」

「そうでしょうね。いつもなら人が乗った時点で嫌がるんですよ」

「そうなのか?」

 首をひねり黒毛の横顔に尋ねる。つぶらな黒の瞳は何を語るでもないが。

「エリアス王にその淑女をあなたにやるよう言っておきましょう」

 当然リアンは遠慮を口にしたが、駿馬の堂々とした態度や美しい筋肉のつき方を見ては嬉しく感じた。



「やっぱり銃はご存知無いのですね?」

「知らん。聞いたこともない」

(それは流石にマズいだろう)

 リアンはヘクターの言い様に呆れるが、彼のシュタイアー侯爵領は北東の辺境にあるもので仕方がないとも言える。

「大砲は?」

「あのバカ重い鉄の塊か。あんなもんなんに使えるってんだ」

「……攻城戦の経験は?」

「ありませんよ。我々はずっと東から馬に乗ってやってくる蛮族どもの相手ばかりでしたからね」

 バーデンが口を挟む。彼らは訓練場の適当なところに横並びに腰を据えている。連れてこられた他の兵士達同様に並んで適当にしゃべっているのだ。

「……」

「そう心配する必要もありませんよ。我々は防衛戦や野戦なら得意ですし、他の侯爵たちが穴はうまくうめてくれるでしょうから。特にリーエンツ侯爵にセシル王子。あの方々はなかなかですよ。現に今も上手く転戦しているらしいではないですか」

 腹立たしげにヘクターが舌打ちする。

「あーやってらんねえ!いつまでここにいろってんだ!?おい!」

「……」

 怒鳴られたリアンは不機嫌そうに黙り込む。

「人に当たらないでくださいよ」

「だがこの状況を作ったのもこいつだろ!?」

「この状況を作ったのは帝国です。彼は最善と思われる手を打ったに過ぎません。いいですか、今我々が焦って適当な戦力でメルカンに救援に走ればバーゼルにいる大軍が動いて挟撃を食らって一網打尽です。そうなればここを守る戦力が……」

 リアンはバーデンの説教の外に人の足音を聞いた。しかめっ面で聞いているか疑わしいヘクターも解放されたように後ろを振り向く。

「どうも。ご休憩中でしたか?」

 しっとりした優しい声。

「これは!エリザベス様!とアンナ様、どうしてこのようなところへ?」

 第一に反応したのはバーデンだった。周囲の兵士達も色めき立ったが、ヘクターが一瞬にしてもとのしかめっ面に戻ったのがリアンには面白かった。

 リアンはバーデンに合わせて適当に礼を拝するのだが、ヘクターは彼女らの方を見ようともしない。

「いえ、少し様子を見に……」

 エリザベスがなにやら話している間、リアンは、物珍しげな子供のように辺りを見回すアンナを見ていたが、やがてアンナはそれに気がつくとあどけなく微笑むのだった。

「昼からずっとここで?」

「ああ」

 わざわざヘクターにも優しく話しかけるエリザベス。ヘクターは真面目に話そうとする様子もない。こんなところに女が来たのがなにかの侮辱のように感じているように見えた。

「是非またお二人が手合わせしているところを拝見したいものです。アニーは一度も見てはいないのでしょう?」

「はい……見てみたいです」

 リアンの様子を窺いながら言うアンナ。

「いいですね!」

 乗ったのはバーデンだった。

「勝った方に二人から祝福をいただくことにすれば……」

 周囲の兵士達も面白そうに聞いている。

「どうですか?」

 微笑を浮かべるエリザベス。

「ふざけんな、あれは見せモンじゃねえんだ」

 場が一瞬凍りついた。微笑を浮かべていた者共はこぞって表情を凍りつかせた。

 雰囲気を破壊したのはヘクターだった。リアンは内心では断りたかったのだが、このヘクターの言い様には驚いた。挙げ句にそれだけ言ってヘクターはどこかへ歩いていってしまった!

 しばらくの重い沈黙を破ったのはエリザベスだった。

「ごめんなさい……私適当なことを……」

「いえ!いえ、あなたには何の非もありませんよエリザベス様。我が主はなにやら機嫌が悪かったようですし……後で私から言っておきましょう」

 リアンは何も言わずに歩き出す。

「あの……」

 そのまま歩き去ってしまった。

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