第7話 消えた影
男が鉄パイプを振り上げた。
「死ねぇぇ!!」
侍は一歩だけ前に出る。
次の瞬間――
ドゴッ!!
木刀が男の脇腹を打ち抜いた。
男の体が宙に浮き、そのまま壁へ叩きつけられる。
「がはっ……!」
別の男が背後から飛びかかる。
侍は振り返りもせず木刀を振るった。
バキッ!!
男は床へ転がり、そのまま動かなくなる。
残った数人が顔を見合わせた。
「な、なんだこいつ……」
「人間かよ……!」
侍は木刀を静かに下ろす。
その目だけが異様に冷たい。
男たちは恐怖に耐えきれず、一斉に後退した。
その時だった
ピッ――
男のイヤホンから電子音が鳴る。
男の表情が変わった。
「上からだ」
「撤収命令?」
「ああ」
侍が男へ踏み込む。
しかし男は笑った。
「今回はここまでだ、侍」
男たちはすぐに後退を始める。
まるで最初から決められていた動きだった。
侍が奥へ向かう。
だが、そこには誰もいなかった。
「……逃げたか」
夜の廃ビルは、異様なほど静まり返っていた。
さっきまで確かにそこにあったはずの喧騒が、まるごと切り取られたように消えている。
壊れかけた蛍光灯が、時折かすかに明滅するだけ。
コンクリートの床には、先ほど侍が倒した男たちが転がっていた。
だがその光景は、戦いの終わりというより“途中で時間が止まった場所”のようだった。
ユウキは息を整えながら立っている。
心臓の音だけがやけに大きく感じられた。
「……逃げた」
小さな声だった。
侍はすでに動いている。
倒れた男たちには目もくれず、部屋の奥へと視線を向けていた。
壊れた扉の向こう。そこだけが不自然に暗い。
「遅かったか」
侍の声には怒りも焦りもない。
ただ、事実だけを確認しているようだった。
ユウキは周囲を見回す。
机の上にはノートPCが開きっぱなしで放置されている。
画面は暗転しているが、直前まで何かが操作されていた形跡がある。
紙の資料は途中で破られ、床に散らばっている。
通信機器はコードごと引きちぎられていた。
撤退というより、“途中で世界ごと切り替えた”ような消え方だった。
「ほんとに……いなくなってるじゃん」
ユウキの声は、少しだけ乾いていた。
侍は一歩踏み出す。
その瞬間、ユウキが強く言う。
「待てよ!」
侍の動きが止まる。
ユウキは一瞬だけ言葉を探し、続ける。
「もういいだろ……追ってどうすんだよ」
「さっきので十分危なかっただろ」
沈黙。
侍は振り返らない。
ただ、闇の奥を見つめている。
やがて低く言った。
「逃げた者は、また現れる」
ユウキは首を振る。
「でもさ、それってキリないじゃん」
その言葉の途中で止まる。
うまく説明できない。
侍の目がわずかに揺れる。
ほんの一瞬だけ。
長い沈黙のあと、侍は言った。
「……今は引く」
その言葉に、ユウキはようやく肩の力を抜いた。
外に出ると、夜風が一気に体温を奪っていった。
廃ビルは背後で静かに沈んでいる。
まるで最初から何もなかった場所のように。
ユウキが小さく呟く。
「終わったのか、これ」
侍は空を見上げる。
雲の切れ間に、月が薄く浮かんでいた。
「終わってはおらぬ」
ユウキは顔をしかめる。
「じゃあさ……何も解決してないってこと?」
侍はすぐに答えない。
少しだけ間を置いてから言う。
「消えただけだ」
その言葉が、夜に溶けるように落ちた。
倒したわけでもない。
止めたわけでもない。
ただ“そこにいた何か”が、いなくなったように見えるだけ。
ユウキはスマホを取り出す。
画面を確認する指がわずかに止まる。
さっきまで表示されていたアカウントが消えている。
ログイン履歴が途切れている。
関連投稿も削除されていた。
まるで最初から存在しなかったように。
「……逃げ方、慣れすぎだろ」
ユウキは呟く。
侍はそれを見ていた。
「組織とはそういうものだ」
その声は、静かで重い。
一人の敵ではなく、“何度も繰り返される現象”として語っていた。
勝ったように見えて、何も終わらない。
むしろ終わったと錯覚させるために消えている。
しばらくして、ユウキが言う。
「じゃあさ……これ、また来るってことだよな」
侍はすぐに否定しない。
夜を見たまま、静かに答える。
「来るだろう」
ユウキはため息をつく。
「ほんと、しんどいなこれ……」
侍は何も言わない。
ただ、その言葉を否定もしなかった。
橋の下。
二人はいつもの場所に戻っていた。
川の音だけが変わらず流れている。
侍は座り込み、木刀を横に置いた。
刀は布に包まれたまま壁に立てかけられている。
ユウキもその隣に腰を下ろす。
しばらく何も言わなかった。
「なあ」
ようやくユウキが口を開く。
「俺たち、何と戦ってるんだろうな」
侍はすぐには答えない。
木刀を見つめている。
刀のような圧はない。
それでも“戦える”という違和感だけがそこにある。
やがて静かに言う。
「形のないものだ」
ユウキは苦笑する。
「それ一番めんどくさいやつだろ」
侍はわずかに目を細める。
「だから終わらぬ」
沈黙。
風が橋の下を抜けていく。
遠くで車の音がしている。
世界はいつも通り動いているはずなのに、どこかだけ歪んでいる。
ユウキは空を見上げる。
「でもさ……全部無駄じゃないよな」
侍は少しだけ頷く。
「一部は止まった」
その言葉だけが、現実に触れる。
全部は終わらない。
だが、全部が無意味でもない。
その曖昧さが、この夜だった。
しばらくして、侍がぽつりと言う。
「次は……別の形で来る」
ユウキが振り向く。
「別の形ってなんだよ」
侍は答えない。
ただ木刀に手を置く。
その手はもう迷ってはいない。
だが、確信にもまだ届いていない。
夜は静かに続く。
そしてこの世界にはまだ、“終わりきらない何か”だけが残っていた。




