紀行・SL列車/ファースト・ラン 前 ノート20160503
紀行・SL列車/ファースト・ラン 前 ノート2016/05/03
磐越西線・快速〝ばんえつ物語号〟の冬季休業期間を経て4月から12月第一週の土日祝祭日の運行となる。機関車C57-180号機も客座車両も同じだが、ファーストランは〝SL福が満開スタート号〟という名前になる。自宅いわきと母方実家・若松の彼岸参りをして帰りに喜多方市に立ち寄って奥地にある山都の福寿草群生地をみにゆくとき、喜多方駅で切符を買った。二週間前くらいの予約だがグリーン席はすでに満席になっていたものの、指定席は常々少しばかりは余裕があるもので、そこの予約がとれた。
4月2日土曜日9時ごろに式典が始まった。白の制服で決めた新潟駅長、新潟、喜多方、会津若松の三市の市長、咲花温泉女将が挨拶する。マスコットぬいぐるみのオコジロウとオコミが愛嬌をふりまき、新潟親善大使の美女二人が花を添えた。久寿玉が割れ、式典が終わるのが9時30分スレスレ。私は、「乗り遅れませんように」という駅員アナウンスで我に返り、列車に飛び乗った。爺様とお孫さんが相席で、少年が、「〝乗り鉄〟が列車に乗り遅れたりしたら馬鹿みたいだよね」と走っていっていた。その通りだ。笑。
SL列車の運行区間には33駅あり12駅が停車駅だ。そのうち新潟県側は、新潟、新津、五泉、咲花、三川、津川。福島県側は、日出谷、野沢、山都、喜多方、会津若松。それぞれ6駅ずつある。
新潟市長によると、もともとは新津駅から会津若松駅までだった。それが延長されて新潟駅からスピーチのスタートになったのだそうだ。
よく晴れていた。
始発駅をでた列車は、はじめ海に沿って北上するが、ほどなく新潟白山神社の分社があるあたりで方向を東に転じる。田お越しをやりだした平野部を東に突っ切って、越後山脈側にむかってゆく。磐越線は郡山を境にして西線と東線がある。磐越西線のほうが古い。あとから東線ができて、太平洋と日本海が横断できるようになったのは大正時代時代になったあたりだ。
作家・内田百閒が東大卒業後に、仙台にあった陸軍士官学校で教官をやっていたころ、ちょっと寄り道して、全線開通したばかりの磐越両線を楽しんだのだというくだりが、『阿呆列車』シリーズの『2号阿呆列車』に書いてある。また別のくだりには、ヒマラヤ山系君こと愛弟子である平山三郎をお供に東京から信越本線で新潟駅を目指す際、新津駅で、関係者が迎えにきたことを示している。平山三郎は国鉄職員だったので、鉄道の運行を熟知している。スマホがない時代、検索や予約はこの人を介して行われた。国鉄機関紙をやっていた平山は仲間うちに多く顔が知られていて、師匠の内田が関心している。
新潟駅と新津駅の間に通過駅の亀田駅がある。そこをちょっと越えたあたりに亀田製菓の古い工場があって、線路に面して亀田中学校というのがある。土曜日だと毎回そこの先生と生徒さんたちが線路際の道路にでてきて手を振ってくれる。
信越本線を越える国道460号線陸橋〝夕映えの跨線橋〟という。その真下近くに、SLを収納する扇形倉庫と転車台がある。かつて新潟駅にあったこういう施設は遺構としてはあっても稼働はしていないらしく、ここから一度新潟駅に回送し、始発とするのだそうだ。管区の工廠にもなっていて、整備員の皆さんが手を振った。
新津駅につくと地元の保存会の人たちがやっている太鼓で迎えられた。大太鼓を指導員二人がやり、小太鼓を中高生が六人くらいでやっていた。駅のホームでやっている駅弁はここだけなので買った。――以前は日出谷や山都でも同じようなサービスがあったのだが、現在はやっていない。
磐越西線は、ここで信越本線から分岐する。
五泉で短く停まる。ここにはかつて蒲原鉄道という軽便列車があり、城下町・村松を結んで、信越本線の加茂駅と連絡していた。
五泉駅から少しいったところに通過駅の馬下駅がある。名物はランプ小屋と呼ばれる古い煉瓦倉庫。この先にある咲花駅からは、渓谷地帯となるためトンネルが多くなる。列車の自家発電技術が発達していなかった時代、駅員が客車の屋根に上ってランプを吊るした。燃料である灯油を貯蔵したのがそれだ。
列車は咲花温泉駅にむかう。温泉郷の旅館関係者が歓迎して手を振っていた。無人駅で展望台があり、いつもはそこに人なぞいないのに、その日は珍しく上にもいた。駅のホームが途切れるあたりに柳水園というのがある。文豪・井伏鱒二は釣り師で全国の川を巡っていたのだが、新潟にくるといつもそこに泊まっていた。木造モルタル二階のひなびた宿だが、湯は入浴剤をいれたかのようなエメラルドグリーンをしている。私も何度か利用したが、だいたいは文豪様が利用された桔梗の間になるのは光栄の至りだ。
路線は阿賀野川にぴったりと寄り添う感じで敷設してある。
次は三川駅でここも無人駅だ。近くには重要文化財の平等寺薬師堂と天然記念物の将軍杉、それから、川下りの船着き場がある。以前、カーナビが謀反を起こして迷ったとき、ダム管理委託業者の方にここまで案内していただいたことがある。
次の停車駅が津川駅で市街地の対岸にある。
英国ヴィクトリア朝時代には女性トラベラーと呼ばれる人たちが何人かいる。この場合のトラベラーは単なる旅行者ではなくて冒険家とか探検家を意味する。イザベラ・バラードもその一人だ。李朝末期・日本植民地時代の朝鮮、それから東北・北海道地方を旅行した。彼女の著書『日本奥地紀行』では東京から日光に入り、会津を抜けて新潟にむかっている。磐越西線はまだなく、会津から途中まで陸路をゆき、津川で船に乗った。その際、阿賀野川はライン川に勝るとも劣らないという一文が目をひく。しかし、戊辰戦争直後であったためか民心は荒れていたらしく、住民のことをあまりよくは書いていない。




