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もう一度妻をおとすレシピ 第4冊  作者: 奄美剣星
Ⅴ 催物・紀行
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紀行/SL列車家族旅行1/2 ノート20160602

紀行/SL列車家族旅行1/2 ノート20160602


 母はツンデレである。

 私は2016年4月初旬までフリーランスの仕事のため新潟にいて雇用契約が切れたので、引き上げる際、ちょうど喜多方市西部にある旧高郷町吹屋集落の個人敷地を借りて市が催す福寿草祭りを見物にでかけた。だが、開催予定日にいってみると盛りは10日前だったという。それから福島県いわき市にある自宅に戻った。

 さらに少し経った4月の23・24日に喜多方で桜祭りがあるというので、家族旅行をすることにした。福寿草祭りの件があるので、満開時期のズレが懸念されたのだが、しかし地元テレビ・ニュースは見ごろを迎えていますとのことで安堵してでかけた。家族とはいっても母と家内で、犬はペットホテルに預けた。鳥もお願いしたいといったら断られたのでこれは連れてゆく。

 旅行の予定は一泊二日。主目的は二日目のSL列車観光、そのための名所ガイドと桜狩りを兼ねたドライブが初日行程だ。


 旅行初日、4月23日の土曜日。

 阿武隈高原や猪苗代湖といった海抜高度が500メートル前後あるところは山桜がちらほら残ってはいたものの満開もしくは散りかけという感じだ。猪苗代湖あたりは一種の台地のようなところで、崖地を下るような感覚で、会津盆地に入った。この時期には会津若松・鶴ヶ城の堀端の桜・染井吉野はライトアップされる。そのあたりの事情も前日のニュースで聴いている。しかし現地にゆくとものの見事に散っていて、八重桜が咲き誇っていた。

 会津藩時代に薬草を栽培していた御薬園というところがあり、建物は歴代藩侯が参勤交代のときここで旅の垢を落としてから入城した本陣であり、戊辰戦争のときも陣城として用いられたため、柱には刀創や弾痕があるらしい。母は見飽きたというので家内のみを案内する。大きな池があって回遊式の散策路が巡っている。藤棚はあったがまだ咲いていない。

 そこから喜多方市にゆく。国道121号線バイパス〝会津縦断道路〟が若松市から喜多方市まで出来上がっていたので割かし早く着く。そこの桜はしだれ桜が有名で、日中線という10キロほどの鉄道廃線跡地に千本桜を植え散策路にしている。この町は酒蔵の数が多いことで有名だ。もっとも大きな酒蔵の娘は、喜多方美人ということでタレントになった。毎年地元桜祭りになると帰省し地元のラジオ番組に出演するのだそうだ。――だが花の見ごろは一週間ほどズレてしまってほとんど散っていた。母と家内は脚が弱い。路線に平行した小路を可能な限りたどって自動車で行く。そして昔、日中線終点だった記念館に着いた。昭和初期に建てられたコテージ風の建物は瀟洒である。

 会津若松出身の母はよく、「熱塩温泉からは塩がとれる。昔日はここの塩が会津一帯で流通していたもので、子供のときにつかりにいった」というので、さぞかし懐かしいものだろうと思ったのだが、着いてみると、「中学校の遠足で列車に乗ってお湯に入りに一回きただけだよ。それほど懐かしくもない」といった。――こういう、つれない話しぶりをするところは母親にといわれる私にもあって、かつていた職場上司から改めるようにいわれたことがある。それからなるべく、自分としてはだが、大袈裟に喜ぶように心がけるようになった。

 管理人の小母さんは母と同じくらいの年齢で話題があったようで記念館展示資料をみてから長話していた。1984年の廃線で線路は外されているものの駅舎とホームがあり、1960年代あたりのラッセル車と客車が少し離れたところに展示されている。どちらにも乗れる。母と家内を案内してそれに乗せた。母は、「特に懐かしくもない」といっていたが、不満という様子もない。――ツンデレだ。宮崎アニメ『千と千尋の神隠し』にでてくる湯バアバみたいな老婆だ。

 それから喜多方駅に戻り、磐越西線の路線に沿って名所案内をした。山都駅近くにある一ノ戸橋梁は長さ400メートルで築かれた当時・明治時代では東洋最長といわれていたのだそうだ。土台・橋桁が石積み・煉瓦積みで十本以上連なっていて、河岸段丘の上位段丘と上位段丘をつないでいた。そこから野沢駅から少し離れた大山祇おおやまづみ神社拝殿と鳥追観音寺のある山にいった。自動車で通れる山道をしばらくいったところに寺があり、さらに奥にいった行き止まりに神社があるのだが、さきに神社にゆき後で寺にゆく。

 神社は一つだけ望みをかなえるものだという。こないだの彼岸、私は新潟から自宅のいわきに帰る途中で、会津若松にある母の実家に立ち寄り、正月過ぎに亡くなった伯父の霊前に線香をあげた。その際、拝殿から四キロ先にある自動車利用不可の山道をいったところにある本殿にも登って伯父の冥福を祈った。――ゆえに私の望みはすでに達成されてしまった(世界征服はもう無理だ)。

 帰り際に寺に寄る。母は以前、いわき市内にある観光会社が企画したツアーでここにきたことがあるのだという。話によると、「別名ポックリ寺。ここを拝んだ高齢者は家族に負担をかけることなくポックリ綺麗に逝ける」のだという。しかしツアー参加者のなかに、自宅に戻って早々ポックリ逝った人がいた。「霊験あらたか過ぎる」ということで、翌年このツアー企画はポシャったそうだ。もちろん母は駐車場に停めた車の中で、籠で飼っている文鳥をかまってでない。家内だけを案内して並んで本堂を詣でた。

 そこから阿賀野川渓谷となる。まず狐の嫁入りで知られる津川城跡、それから三川の平等寺にいった。

三川は現在、新潟県に編入されているのだが、江戸時代は会津藩領だった。初代藩主保科(のちに松平)正之公は家領の境近くにある平等寺をみつけ保護し碑文を建てた。

 というのは、平安時代に会津出身である麗しき魔女・紅葉くれはが信州戸隠山あたりに拠って、しばしば京都に妖術で召喚した眷属を送って荒していたのを、朝廷が英雄・平維茂たいらのこれもちを召して討伐させ、封地としてこのあたりを賜った。

 伝説は浄瑠璃で盛んに流布されたらしい。碑文の横には二千年級の古木があり討伐後に鎮守府将軍となった維茂にちなんで将軍杉という。平等寺は国の重要文化財となり将軍杉は天然記念物となっている。

 自動車を運転しながら、こちらは熱心に説明してやっているのだが、母ときたら飽きたようで、居眠りをしたり、起きていてもそっぽをむいたり、「早く旅館にチェックインしよう」とそわそわしていたりした。

 泊まる予定の宿は、新潟県・花咲温泉郷にある流水園というところだ。1900‐5、60年代に建てられた宿で、渓流釣りを好んだ文豪・井伏鱒二が、文壇・出版関係者の釣り仲間を誘ってよくきていたらしい。――しかし〝じゃらん〟のネット予約は4月ではなく5月になっていた。大チョンボ。けれども、そのあたりは常連客化した私である。頼み込んで泊めてもらえた。山吹の間というところで文豪がよくつかっていた部屋だ。

 浴室はタイルが剥がれていたり、錆びた真鍮の蛇口に硫黄結晶が付着していてお世辞にも綺麗とはいえない。

 かけ流しの湯は熱く紺碧で硫黄の香りが濃い。美肌効果があり、この点に関しては母も喜んでいた。――そのあたりの喧伝を何度かここを私と訪れた家内がやっていて、旅行先はそこにしようともちかけたのは母である。

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