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第八話 地獄の産声 十四 刻みつける敬意


 フマイヤを追いかけて駆け出すまで、マリネラ自身にも信じがたい思考の空白があった。

 衛兵たちも一様に、領主が駆ける姿を『妙な姿の連絡役』でも見送るように立ちつくしてしまった。

 冷徹を極めた『悪魔公』が吠え散らすなど。それも腹心のゼペルスを失った直後に。


 フマイヤが幼いころから密接だったマリネラはなおさら、起こった事態を理解できない。

 理解できないまま『自分がフマイヤの側にいない』という事実のみで肉体の習性が足を動かし、連絡通路へ飛びこむ。

 控え室の前では、先に到着していた衛兵たちが入場係を詰問していた。


「なぜ通した!?」


「いえ領主様が『ヘルガ』へ興味を示されたという噂もありましたし、てっきり直に勝利をねぎらうほど仲を深めていたのかと……ほぐぶっ!?」


 マリネラは無言で殴り倒して押しのけ、眼光だけで衛兵たちの抑止もはねのけ、試合場へ踏み入る。

 息が長くはもたない体質で、汗と胸の痛みがひどくなっていた。

 心ほどではない。


『フマイヤ様の身に危険が』


『フマイヤ様の心に信じがたい異変が』


『フマイヤ様があれほどに……私以外の者へ?』


 すでに先には数人の衛兵も駆けていたが、その背の向こうで、やせこけた長身が両腕を広げていた。

 マリネラの集中力はその瞬間に人の域を超え、異常に多くの様子を同時に把握する。

 ほとんどの客はまだ、試合場へ駆けこんで来た怪人が、包帯まみれの特徴的すぎる見た目にも関わらず、まさか領主とは思っていない顔つきだった。

 審判の大女ヒルダは目を丸くして口をあんぐり開き、後ずさってさえいた。

 ヘルガはふりむいて、親しげな笑顔を見せる。

 そして領主の顔を斬り刻んだ。



 マリネラの思考が闇一色になる。

 それを憎悪や激怒としか呼ばないなら、殺意などは遥かに通り越し、生まれたことを後悔させる手段を一瞬に何十通りと計画した量が『呪詛の深さ』を一部だけ表す。

 それを絶望や悔恨とだけ呼ぶなら、自身の死など問題にもならず、その血肉と腸のすべてをいかに飾りつけて詫びるべきか、その構想の量もまた『悲嘆の深さ』の一部でしかない。

 しかしこの状況をほかならぬフマイヤ自身が引き起こした事実が、狂気ばかりとなったマリネラにも判断力の放棄を許さない。

 過度な忠誠に狂い続けているマリネラだからこそ、斬られたフマイヤがわずかに向けた表情さえも捉え、その意向に捕らわれる。


「殺すな!」


 衛兵たちは『地獄の島』では領主同然の、むしろ領主以上に逆らってはいけない者の声を聞きもらさなかった。

 思考するよりも先に従わなければ避けられない破滅を感じとれた。

 とっさに槍を持ちかえて『領主へ斬りつけた大罪人』であろうとも、刃ではなく石突で一斉に殴りかかる。

 マリネラは倒れたフマイヤを抱えこんだ。顔以外は斬られていない。

 傷は浅くないが、死ぬほどでもない。

 しかし多すぎる。


「る…………な……」


 これほどの重傷でさえあごを動かしたフマイヤの意志は、絶対に守らねばならない。


「フマイヤ様は『傷つけるな』と仰せです!」


 マリネラは体内全身にうずまく怨念をフマイヤへの信仰心で握り抑え、冷静で賢明なふりに努める。

 フマイヤが声も表情も出せない今、代弁は自分しか務まらない。

 長らく寄り添い続けた執念のすべてで推察し、意図をたぐりよせる。


「勝者である『ヘルガさん』は丁重に扱い、すぐに手当てをしてください」


 不可解な命令に動揺する衛兵たちを統率しなければならない。

 自身の心を苛酷に刻み続けてでも、フマイヤの意志は死守する。


「これは試合場へ踏みこんだフマイヤ様が、御自身で招いた結果です。『ヘルガさん』は剣闘士の職務として『試合場へ入った相手』への対応を続けただけです」


 その理由づけもまた納得しがたいものだったが、マリネラの瞳に灼熱する狂気へ従わない者はいなかった。



 フマイヤは半月ほども寝台から動けなくなる。


「あの時の対応であれば問題ない。マリネラは私の意志をすべて言い当ててくれたばかりか、私でも説明しがたい部分まで先まわりされて驚いていた」


「……は、はい…………」


 フマイヤがどうにか小声で話せるようになるまで回復すると、マリネラはその口元へ耳を寄せながら、複雑な表情で困惑していた。


「たしかにこの傷も、あの者には職務なわけだな。フフ……ずいぶんと熱心な働き者だ。献身的とも言える。例えではなく命をかけて奉仕しているのだから、もっと、もっと丁重に扱うべきだったのだ……どのような領民よりも……」


 マリネラが与えてしまった示唆から『大劇場』は誰もが『闘技場』としか呼ばなくなる変貌をはじめる。

 最初にその狂気の規模を察したのは役人たちで、担当部署へ増やされる予算と、配置転換されてくる人材の質と量がもはや、戦争でもはじめそうな勢いだった。

 領土や人命ではなく、大量の魂を奪うための作戦計画と考えれば遠くもない。



 二ヵ月後。

 試合場へ入ったヘルガは客席の複雑なざわめきに迎えられる。

 灰とすすによる扮装をやめて美貌は目立つようになっていたが、平然とした無関心な態度もわかりやすくなり、野次のほうが大きくなった。

 しかも貴賓席を見上げて笑顔を見せたので、領主へ斬りつける大罪を犯しながら反省の様子も見せない非礼へ、一斉に怒声が押し寄せる。

 玉座の包帯男は静かに見下ろしていた。

 顔の包帯の隙間では、まだ多くの傷が痛々しく盛り上がっている。


「元から包帯まみれの顔を不幸中の幸いと思っていいのですかね?」


 そんな冗談をマリネラもいる場でつぶやける者は、もうひとりの腹心であるアルピヌスだけになっていた。

 聞かされた衛兵の多くは、びくりと肩をすくめて冷や汗をにじませる。

 仮面の笑顔は動かない。

 包帯まみれの頭はわずかに傾くが、その意図は腹心たちが保つ笑顔からしか推察しがたい。


 試合場へもうひとり、大柄な女が入って来る。

 審判のヒルダに近い背と筋肉の厚みがあり、短い金色髪を後へギザギザと広げている。

 簡潔な紹介で『閃光のゼアクロ』という名が呼ばれると、多くの常連客が期待の喝采を鳴らした。

 ゼアクロの笑顔と声音は、挑発的に鋭い。


「あ~あ! まさか次の剣闘興行が、さらにこんなに早くなるなんてな!? アンタのせいだぜ? 奴隷のくせに領主様をあんなにしちまって、それでなくても長年の懐刀をふざけた殺しかたしちまって、その孫娘まで……ま、おえらいさんたちの都合は知ったこっちゃねえけどさ!」


 ゼアクロは軽やかに、しかし機敏な足さばきで試合の開始位置につく。


「アンタには『呪術師』の首を先にとられちまったからさ! あのババアには体をしっかり治させたあとに勝って、すっきりとヒルダから『最強』の座をぶんどりたかったのにさ~!?」


 審判のヒルダは挑発的な口ぶりを笑えないほどに、ゼアクロの急激な成長を知っていた。

 天性の瞬発力に度胸のよさもあり、技量と腕力が増すほどに、持ち味が飛躍的に活きはじめている。

 そういった正面からの才能や巧さをつぶせる小手先や裏技を得意としていた『呪術師ホドゥカ』もすでにいない。

 ヒルダは自分がどうすれば抑え続けられるか、この一戦でつかんでおきたかった。


 なぜか『ヘルガ』は笑顔で貴賓席を見上げたままだったが、ヒルダもゼアクロも変人の素行にはかまわず、試合を開始させる。

 異名どおりの俊足が一瞬に切り込み、同時に突き出していた一閃が黒髪を派手に散らし、身をひるがえすヘルガの小剣はゼアクロの腹部でもまずい位置に突き刺さっていた。


「え? ちょっ……待ってくれ……よ?」


 急所をはずれていれば、助からないでもない。

 しかし刺さっている刃をかきまわされたらまず助からないので、武器を捨てて顔をうかがうが、かきまわされた。


「うぁあ…………は……!?」


 ヒルダは『閃光のゼアクロ』に同情する。

 領主の顔を刻んだ『ヘルガ』の相手をヒルダよりも先に任されたことで喜び、見事な圧勝と惨殺で応え、領主や観客の賞賛を集めるつもりだったろうに、この結末だ。

 それだけなら実力や運の不足だが、玉座で震える包帯の怪人が、笑いをこらえていると気がつく前に死ねたほうが幸せだった。


「あの領主様、意外とあんな人らしいから……」


 ヒルダもそんな言葉は末期の慰めどころか愕然とした表情への追い打ちになっていることに気がつき、気まずそうに眉をひそめる。

 いくら拍子抜けの決着をしたからといって、観客の興味が試合場ではなく、笑い転げる領主へ集まっては、殺し合いに挑んで果てた甲斐がなさすぎる。

 刺した張本人まで勝負すらなかったかのように領主の奇態をうれしそうに見上げているなど、あんまりだった。


「……に……よ……」


 しかしゼアクロはへたりこんで腹から血の池を広げながら、皮肉そうな笑顔を見せる。


『どうも自分は調子に乗りすぎた時に、笑い話をぶちまける運命みたいだよ』


 そんな言葉のごく一部だけの発声だったが、ヒルダは少しだけ顔を和らげる。


「どうせこんな所へ来るやつらは、みんなバカヤロ様だからね。どんな豪傑も、観客も、おえらいさんも……」


「かっ……はっ…………!?」


 ヒルダのつぶやきがどう気に入られたのかはわからないが、ゼアクロはかきまわされた内臓で笑いかけ、とどめになる。


「おつかれさん……もう好きなだけ休みな。アタシは変に命びろいを続けちまったけど、あんな領主様とのつきあいが長びくのは、いいことなんだか、悪いことなんだか」


 いずれにせよ、死んでから神に裁かれるとしたら、平謝りを決めこむしかなさそうな職場だった。



 そんなヒルダの当惑は年々どころか、ひと月ごとに深まる。

 大陸にもないような剣闘の規定や趣向が次々と盛りこまれ、大陸の常識からは考えられない待遇が続々と整えられ、ヒルダに限らず剣闘士の多くは不気味がってとまどい続けた。


「わりとあんな人だった……のか?」


 元から風変わりで、危うげな極端さもあった。

 しかしヒルダはつい『地下牢の娼婦』にまつわる噂話を思い出してしまう。

『ヘルガ』を抱いた男は、以前とは人が変わってしまうという。

 領主は顔を刻まれて以来、かえって『ヘルガ』をはじめとした剣闘士たちと頻繁に話すようになり、よく笑うようになった。

 ヒルダにとっては、怖さが増した。

 なぜだか『もう逃げられない』感覚が急に強まった。


 勝ち抜け引退や引き抜きの制度が丁寧に説明され、ほとんどの剣闘士は大喜びで意欲をはじけさせたが、かつてのような脱獄の意志をごっそりと奪われたことには誰も気がついていない。

 観客からの人気が剣闘士の私産にもなって、貴族じみた贅沢すらできるようになった。

 だから『人でなし』どもの喝采を集めようと懸命になり、生きかたや誇りの置きどころまで変えられつつある。


 観客まで変わった。

 賭け札がより直接に剣闘士の生きかたを左右するようになり、牛馬ではなく友人や恋人を見るような顔つきで励まし、心配する者が増え続ける。

 対戦相手を肉親の仇がごとく呪い罵倒する者が増え続ける。


 島を象徴した巨大すぎる建造物に名状しがたい災禍の予兆が宿り、冒涜的な正体を見せはじめていた。

 のみ打つ音は産声のように響き続け、日ごと月ごとにその威容は妖麗に洗練され、より多くの人間をおびきよせようと魅惑をふりまく。



 ヒルダは自分と同じように剣闘士から教官や衛兵になれた同僚にだけ、時おり漠然とした不安をもらした。


「あの領主さんになってから、この島じゃ貧乏から抜け出せたやつがべらぼうに多いんだろ? 剣闘士なんか、ほとんど全員の暮らしが見違えるほどさ……でもどうにも、やっぱりここは『地獄』で、あの包帯の中身は『悪魔』のような気がしちまってさ」


 あの『ヘルガ』などを気に入る悪趣味はともかくも、ほかのすべての剣闘士の待遇まで甘やかす意味がわからない。

 さっさと『ヘルガ』だけ剣闘奴隷をやめさせて寝室へ囲えばいいだろうに、見世物の殺し合いを続けさせて、それを嬉々と観戦している。

 それどころか剣闘士の中でヘルガだけは、いまだに重病者と重罪人の地下牢で寝起きさせていた。

 知るほどに、かえって不気味さが増す怪人物だった。


「とはいえ、もうアタシもどうしようもなさそうだけどね。あの領主様を気に入っちまったからには、この先がどうなってもさ……」


 しかし領主の異常ぶりはすべて、地下牢の怪物から感染した気もする。

 あの『黒髪青目』は観客のことなどほとんど気にも留めないくせに、領主だけには愛想を向けることが多い。

 それでも奴隷の身分から解放されて贅沢を望むどころか、剣闘士をやめる考えすらなさそうだった。


 規定どおりの罰金が『ヘルガ』にも容赦なく課されていることもあって、領主との『いい仲』の噂はだいぶ下火になっている。

 しかし剣闘関係者の多くは深まり続けている『異常な仲』を知っていた。

 フマイヤは隠す気もなくヘルガと会うためだけに訓練場や牢獄へ立ち寄る日が増えている。

 まともには話が通じないはずの相手へ、小まめに親しげな言葉をかけ続けていた。


 フマイヤは相手が奴隷であってさえ、その意志をやたらと思いやってしまう甘さと怖さがある。

 あの『地下牢の怪物』に対してさえ、本人の意志をやたらと大事にしているだけかもしれない。

 しかしそれなら……『墓下のヘルガ』の意志とは、なんなのか?

 そんなものが存在するのか? あったとしても、常人に理解できるものか?

 怪しいものだと思う。


 ヒルダには『ヘルガ』の考えていることなど、まるでわかりそうもない。

 しかし手筋を読んで打ち勝っているだけでも『少しならわかっている』扱いになってしまい、フマイヤの面会には護衛として立ち会うことが多かった。

 フマイヤの顔は傷が落ち着いてきて、それをヘルガはいつものように親しげな笑顔で見つめる。

 フマイヤもそんなヘルガをしげしげと眺めつつ、ふともらしたつぶやきがマリネラを驚かせた。


「もしや私は……それほど斬られたがっているように見えたか?」


「おぼえていらっしゃらないのですか? 最もよく見えていたのはヒルダさんですが……」


「え。あ、はい……そりゃもう、あの時の領主様は……」


 満面の笑顔で怖かった。

 斬り刻まれても笑顔のままで、ヒルダのほうが悲鳴をあげそうになった。


「ふむ? やはりそうだったか……」


 なにがフマイヤにとって『やはり』なのか、ヒルダにはまったくわからない。


「……なかなかの出来か?」


 フマイヤが得意げな微笑を向けると、ヘルガは嬉しそうに目を細め、静かにうなずく。

 ヒルダには、わかりそうもない。

 わかってはいけない気もする。

 貼りついたような笑顔がいっそう仮面じみてきた怪女のように……『地獄』が似合う女に堕ちてしまいそうだから。






(『地獄の産声』 おわり)






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