第八話 地獄の産声 十三 優しく包む罪業
あまりにも救いがない。
老兵ゼペルスが試合に勝利して仇を討とうとも、敗北して孫娘の後を追っても、救いのなさは変わらない。
フマイヤは自分が幼いころから忠義を捧げ続けてくれたゼペルスの生涯とはなんだったのか、虚空に訴える。
弟たちとその家族を殺戮してまで領主を継いだからには、このような苦悩も覚悟すべきだった。
玉座に囚われた者はすべての領民へ最大の負債を抱え続ける奴隷であり、憎悪と怨嗟を一身に集めながら奉仕をつくす以外に価値を持ちえない。
その信条はゆらがなくとも、フマイヤは長い沈黙を見せる。
「女の腕と、老いぼれたこの腕。対等な条件と呼ぶにはいささか、見栄えですこぶる劣っておりますが」
ゼペルスは気さくに笑ってみせた。
フマイヤの返答はなかったが、内容も聞かないでうなずいた以上、ゼペルスは自分の要望が必ず通ることを知っていた。
それでもフマイヤは、客席をつぶさに観察する。
ゼペルスへ敬意を払えばこそ、ゼペルスが記憶を失ってなお熱中していた剣闘へ、ないものねだりの可能性を探しまわる。
人殺しの見世物に熱狂する『救いのない者たち』もまた、もしや『救い』に飢え乞うた結果、あの場へ凝視を集めているとしたら。
その果てにあの少女を求めて、魂を支配されたがっているなら。
無表情に立ちつくす勝者『墓下のヘルガ』へ対する賞賛はない。罵声も増えてきた。
しかし観客の視線は、すでに決着した試合場へ繋がれたままだった。
『呪術師ホドゥカ』が惨殺された後と同じように、試合内容ばかりが口にされている。
ほかの試合とは異なり、酒肴の手が止まり、談笑する姿などはほとんど見えない。
観客は年齢性別、身分や出身地も幅広く、反応も一見してばらばらだったが、そこへ投げつけられた『ヘルガ』という異物に対しては誰もが強い興味を示していた。
領民というだけで最後列へ座れた貧困者までもが口論し、遊女は肥えた醜男への愛想も忘れて固まり、元兵士の重傷者も無理に身を起こして私見をがなり、青ざめて生気のない若者は頭をかきむしり、偏屈そうな老人たちは奇妙なほど静まりかえる……孫娘を惨殺された老兵ゼペルスも。
「つくづく不思議な娘ですな。あれほど素直に泣きわめきながら、刃の扱いには迷いがありません」
ヘルガを見つめるゼペルスの目には憎悪がない。
むしろ『もうひとりの孫娘』を見守るように温かい。
「もしかすれば、頭がおかしいのは我々のほうで、あの娘はただ正直に生きているだけのような気もします」
ヘルガの右手は応急に包帯を巻かれていたが、それは早くも赤く染まっていた。
青い瞳はじっと、声も届かないはずのゼペルスばかりを見つめている。
フマイヤは念のため、連絡役を走らせた。
そのあとで力なくつぶやく。
「試合の前に、もうひとつだけ命じさせてもらう」
無言で玉座を立ち、ゼペルスの前で同じように片膝をつくと、両腕を広げた。
ゼペルスは困惑して恐縮しながら、意図は察しているので逃げられない。
「ゼペルス。私はいつか自分が正気を失った時、その腕に殺してもらえるなら、幸せな最期だと思っていた。だからこれは、貴様が私の葬儀に立ち会わない罰で、幼いころから捧げられてきた忠節への感謝だ。受けとれ」
ゼペルスはかつて幼児を殺したその腕で、おそるおそる領主を抱きしめる。
幼いころから見守り続けたが、触れることはなかった細い体。
側室と看護人しか寄せつけない奇病持ちのフマイヤが抱きしめ返し、不様に涙を落とす。
玉座の前の奇妙な光景に視線が集まりはじめていた。
もどってきた連絡役は小声で伝える。
「ヘルガのほうは問題なさそうです……と言いますか、なぜか退場の指示を無視し続けていたそうです」
フマイヤはうなずき、その視線の指示でゼペルスも一礼を見せ、控え室へ向かう。
決定の合図を確認した審判のヒルダが追加試合を伝え、異様な取り合わせに客席はどよめき、ふたたびヘルガへ視線が集まる。
青い瞳は、試合場を見下ろすフマイヤをじっと見つめていた。
マリネラは玉座の傍らからフマイヤの表情へ目を凝らすが、考えを読みきれなくてあせる。
アメリを亡くした直後のゼペルスのように、フマイヤはひどく落ち着いていた。
そしてあの不躾な青い瞳へ、なにかしらの期待と……信頼を送っているように見えてしまう。
マリネラもフマイヤも、もはやゼペルスへしてやれることなどない。
しかしそれは、アメリの時も同じはずだった。
あの決着になにか救いがあったとは思えないが、ゼペルスはなぜか正気と記憶をとりもどし、迷いのない顔つきで歩きはじめている。
アメリの亡骸は戸板へ載せられて運ばれ、入場門で祖父と再会した。
「剣を持つ者としてはともかく、このゼペルスの孫としては文句もない戦いぶりだったよ……息のある内に伝えられなかった、愚鈍なじじいをなじってもらうために、早く追いかけなくてはなあ?」
ゼペルスが衣服をはだけて上半身をさらすと、客席がどよめく。
しわの寄った顔からは想像もつかない、厚い筋肉が盛り上がっていた。
老人の入場を嘲笑していた者たちも、遠目にさえわかる大きな古傷の多さに表情を変える。
「もはやろくに足腰もきかない身の大道芸で、お客がたにはもうしわけないが。ふむ……これはいい。老いぼれにも扱いやすい軽さの刃物だ」
孫娘から借りた小剣をかまえると、一瞬に数度もふる。
強豪ヒルダにもひけをとらない刃風が吠え、不意の蹴り足が砂までかき上げた瞬間へ目が追いついた者は少ない。
「おっと」
着地こそよろめいたが、白髪の老体を危ぶむ声は消え失せていた。
試合開始が近づくと、ゼペルスへの静かな声援が増えてくる。
フマイヤは頭をかかえて歯噛みしながらも身を乗り出し、試合場へ凝視をめりこませていた。
その姿にマリネラが震え、いたたまれなさのあまり、無礼を承知でひそかに腕へ手を添える。
かすかなうなずきが返り、試合が開始された。
そこに老人はいなかった。
ヘルガは開始直後に飛びのいたが、褐色の太腿が裂かれ、さらに蹴り足までかする。
しかし惜しいことに、攻勢が続かない。
ゼペルスは片足をひきずりながらも、大きくつんのめる姿勢で、瞬間的には恐るべき身のこなしを見せたが、直線的な駆け足ばかりは常人以下だった。
それでもなお、審判ヒルダは間近に見て、なまじな中堅選手よりも怖いと感じる。
試合組みを聞かされた時には領主やゼペルスが剣闘の技術を軽んじているように思えて残念だったが、その疑念はまちがっていた。
ヘルガは意外にも慎重に、容赦なく足腰の差を活かして遠間から回り込み、牽制でゆさぶる。
ゼペルスは動きの無駄を抑え、太刀筋をきわどく見切り、耳くらいは冷静に裂かせて、ここぞと飛び出たあとにはヘルガへ手傷を残していた。
目も判断もいい。それでもそこまでだった。
ゼペルスの足で最初に仕留めそこなえば、中堅以上の身のこなしにはついていけない。
とはいえ重臣ゼペルスは老いてなお、本気で刺客を迎え討つために領主の背後へ控えていたことは知れ渡った。
もう十分……ヒルダは審判ながらにそう感じる。
ヘルガの受けた傷も軽くはない。
このまま容赦のない全力でゼペルスへとどめを飾ってくれたら、領主の権威も、その腹心の名誉も、それなりの形で残せるかもしれない。
しかしヘルガは奇妙なほど慎重すぎた。
危険な爆発力を持つ相手にはちがいないが、まるで太刀筋を探るように、その先までのぞこきこむように。
訓練であれば、相手の底をさらけ出して引き上げるために、似たような追いつめかたをする時もあるが、今はただ、すみやかな一撃がふさわしい場のはずだった。
ゼペルスはヘルガの多彩な遊撃につきあわされて重厚な手の内を次々と披露していたが、やはり相手の意図が不可解で、内心ではとまどっていた。
もてあそばれている気配は感じない。ヘルガは体力の差で優勢になりつつあるだろうに、逼迫してあせるように、ゼペルスの刃の深奥をあさりつくす。
そしてついには間合を遠くとったまま足を止め、ゼペルスへ背を向けた。
ヒルダは審判でありながら試合への侮辱に激昂し、無言で剣を抜きかけるが、ゼペルスの様子で思いとどまる。
ゼペルスも驚いていたが、怒りや失望ではなく、惹きよせられるように足を引きずり、慎重に刃先をかまえなおしていた。
ヒルダにその心情は理解できないが、まだヘルガとゼペルスが鋭く発していた緊張感は肌で嗅ぎとる。両者とも、試合は捨てていない。
ヘルガの背には汗までにじみだし、探り待つような気配も強まり、ヒルダは広めに間合をとっておく。
フマイヤとマリネラは、ゼペルスが『ヘルガ』へ重ねている幻影に気がつく。
ヘルガは知るはずもない、暗い船倉に潜むゼペルス自身の背が見えていた。
ゼペルスは無意識に気配を消し、ヘルガの背へ低く、低く忍び寄る。
演劇じみた光景だったが、ゼペルスはヘルガの反撃を真剣に警戒し、容赦なく足元を狙った。
瞬間、弓をはじいたように褐色の長身がひるがえり、その刃はゼペルスの顔へたたきつけられる。
傷は浅くないが、死ぬほどでもない。
ゼペルスはわずかによろけて、かまえなおすよりも早く、ヘルガに頭を抱えられ、首を裂かれていた。
ゼペルスは目だけで笑う。
つくづく不思議な娘だと思った。
打ち合えば相手の隠していた性格や生い立ちを感じられることもあるが、この場で探って示すなど、常人の着想ではない。
それに、この短時間で探れるわけもないことまで……どこかで昔話を聞きつけたのだとしても、どうして立ち回りまで察しえたのか。
とはいえ今の手際は、若いころの自分よりも鮮やかだった。
そしてふと、かつて首を裂いた海賊の娘へ、なにか言い忘れていたことを思い出す。
あの時は仲間が救援に来たのでとっさに放り捨ててしまったが、抱えたまま伝えてやれなかったことが、なぜか心残りだった。
鮮血を浴びるヘルガはゼペルスをしっかりと抱えたまま、優しくささやく。
「もうだいじょうぶ。おやすみなさい」
老兵の死に顔が安らいでゆく。
ヒルダは寒気をおぼえ、吐き気をこらえた。
大観衆が呆然と見守る中、マリネラは考えが追いつかない頭を抱える。
玉座から駆け出していたフマイヤの後ろ姿に気がつくのが遅れ、狼狽した。
「ヘルガ! おおおおお! ヘルガああああああ!?」
取り乱した叫びは、マリネラが長らく世話をしてきた『老成しすぎたフマイヤ』の発した声量とは思えないほど豪放に響き渡る。




