第八話 地獄の産声 八 人間に堕とす
訓練教官ゴフガスを公開処刑した『灼熱のヒルダ』が牢獄へ凱旋すると、各房の囚人、とりわけ女剣闘士たちは格子を打ち鳴らして喝采する。
「聞いたよヒルダ! あのクソ野郎の首を闘技場の外まで飛ばしたって!?」
「おいおい大げさだよ。何歩か飛ばして壁に抱かせてやっただけさ!」
そう言いながらもヒルダは狭い通路で胸を張って鼻息を強める。
「でも首斬り斧じゃなくて、あんなちっちぇえ剣でそこまで……さすが野獣の化身だよ! これからは姐さんと呼ばなくちゃ!」
「それくらいで落ち着きなって。脱獄と勘ちがいされちまう。騒ぐなって! 騒ぐなって!」
ヒルダの声が誰よりも大きかったが、つきそっていた衛兵たちも苦笑して大目に見た。
「もうヒルダは訓練教官なんだろ? アンタが見張る側なら、牢を抜けようなんてバカはいねえさ」
「おっと。アタシは訓練教官になっても、まだしばらくは剣闘士を続けるし、当分のねぐらも同じ牢屋を借りるつもりだから、よろしく頼むよ」
「へ? なんで? 『戦いにとりつかれた鬼神』なんてのは、ゴフガスの大げさな宣伝だろ? 新人どもにそれなりの芸を仕込んでりゃ、そこらの男をひっつかまえて暮らせるくらいには稼げるんじゃねえの?」
「そうだけどさ。領主様にはでかい借りができちまったから、司会役だけでなく、看板選手まで空けるなんて不義理はできねえさ」
「へえ。意外にけなげなご奉仕が好きなんだねえ? というか領主さんも、なんだってヒルダにそこまで目をかけ……そういや娼館にいたころの客に、いかつい大女が好きな物好きもいたっけ」
「おいおいまさか……」
鼻で笑い飛ばしたヒルダの背後に、別の衛兵が伝令に来ていた。
「ヒルダ。フマイヤ様がまたもお目通りを許されるそうだ。今すぐに」
囚人たちが低くどよめき、ヒルダはうなずきながらも顔をこわばらせる。
「どうしよう。もうあの領主様なら病気をうつされるくらいはかまわねえけど、アタシは夢中になると相手の前歯やあごを壊しちまうことがあるから……」
「い、いや、そのような用向きではないだろうから、心配するのは礼儀だけでいい……たぶん」
奴隷の中には、貴人の近くで仕える者もいる。
しかし大半は農場や船漕ぎ、荷運びなどの力仕事に使役され、中でも鉱山などで過酷に使い捨てられる奴隷たちは厳重に監視拘束された。
そして剣闘奴隷に限っては『人殺し職人』である上、同じような手練れの『人殺し職人』と殺し合いを強制され続ける境遇でもある。
死にものぐるいで脱走して暴れまわる動機は豊富だった。
貴人が剣闘奴隷と話すなら、通例では代理を挟むか、せめて牢に入れたまま対する。
ところがヒルダを先導する衛兵は、独房が並ぶ通路の出口付近にある尋問用の広い牢屋も通り過ぎた。
衛兵の詰所すら通り過ぎて階段を上がると、まともな風が届いて『日の差す世界』のにおいが漂う。
剣闘役人の部屋へ通されると、石卓と敷物と、ヒルダのぶんの座椅子まで用意されていた。
「またここかい……アタシは縄をつけたままでもいいんだよ?」
腕の縄をはずされ、代わりに足枷をつけられたが、絞めはゆるい。
ヒルダは部屋にいる数人の衛兵をついクセで品定めして、半分までは問題なく殺せそうだと見積もる。
ただし『地獄の島』の支配階級は奴隷売買を稼業にしてきただけあって、怪力囚人の脱走話などはたくさん知っているはずだった。
待っていたフマイヤの落ち着いた態度からしても、待遇は甘さではなく敬意だと感じるが、なおさらヒルダは困惑する。
いざとなったら借りるつもりだった縄の強度が気になった。
「私は剣闘に詳しくないため、それぞれの剣闘士が教官にふさわしいと思っている者を探らせた結果の人選だ」
「あ、ああ……そういやアタシも看守にそんなことを雑談まじりに聞かれたっけ。それでアタシもそのひとりに選ばれたのか。やっぱり学のあるおかたはやることがちがいますやね」
ヒルダは前回の謁見でも『自然に話していい』とは言われていた。
最初は衛兵にたびたび注意されたが、フマイヤは冗談まじりにその衛兵のほうを退室させてしまう。
「技術の巧みな剣闘士が選ばれることはわかるが、男の剣闘士は意見が分かれたのに対して、女の剣闘士はほとんどが一致していた」
「まあ女は人数が少ないし、腕のあるやつほど頭がおかしいのも多いから、たしかにアタシなんかでもかなりマシかもしれやせんね……でも、聞いてもかまいませんかね? 剣闘はいつまで、お続けになるつもりなんです?」
「すまないが、まだ決めかねている。もう少し剣闘について学んでから考えたいが……ヒルダは教官になっても選手としての出場を望んでいるそうだな?」
「ええまあ、せっかくいただけた教官役ですから、すぐにくたばって空席にしちまうような不義理はしないように、なるべく気をつけます」
ヒルダは『おえらい連中』の中に、度量を見せつけたくて『楽にしていい』と見下した笑みで言いつけるやつらも多いことは知っている。
たいていは余計に強欲なだけで、本当に気をゆるめたらどう責められるかもわからない、妖怪じみた連中だった。
しかしフマイヤの興味だけに集中したような目つきとうなずきは、うっかりすると本当に対等なように勘ちがいさせられる別の怖さを感じた。
「しかし命がけの試合をしなくても暮らせるようになってまで、なぜ出場する?」
「そりゃ、領主様への義理立てと……アタシがたたきのめしたりぶち殺したやつらも、もう少しはアタシが勝ち続けているところを見たいだろうし……いや、見ているだけの客どもだって、アタシがこのまま勝ち逃げなんて納得しにくいだろうし……かっこがつかないというか……」
ヒルダはフマイヤの凝視で、自分でも気づいていなかった別の理由まで掘り出されていた。
「まあたしかに、勝ち続けたのはアタシの実力ですがね? その試合だっておもしろい相手や、粋な応援や野次を飛ばす連中もいなけりゃ気合いが入らないものなんで……うまく言えませんがね。アタシらしくもない暮らしを急にはじめる気持ち悪さとくらべりゃ、まだくたばる心配をしていたほうが楽そうなんです。えーと……なんだかいつにも増して、頭の悪そうな返事でもうしわけないですが」
「勉強になった。私もまだ考えはうまくまとまらないが、多くの者がヒルダを推した理由は納得できた」
領主とはいえ、まだ若造のくせに腹のすわった微笑を見せ、ヒルダは『育ちのいいお嬢ちゃん』たちがフマイヤの寝室へ押しかけたがる理由も、金だけが目当てではない気がしてきた。
「それとこれは、アタシなんかが口を出しちゃまずい気もしますが……」
フマイヤの目がいっそう真剣になり、無言で続きうながす。
「前の競技祭から、もう悪霊憑きみたいになっちまって……」
「アメリのことか」
フマイヤが珍しく苦しげな表情を見せ、ヒルダは具体的な詳細は避ける。
「もうすっぱりと首を落としてやったほうが、あの子のためにも……ただ、剣闘試合でないと示しがつかない都合とかもあるなら、アタシに任せてもらえりゃ。首斬り職人の次くらいには、楽に終わらせてやれます」
フマイヤが目頭を押さえる。
ヒルダは『アメリお嬢ちゃんくらいの上玉なら、侍女だったころに領主様といい仲になったこともあるのかな?』と思ったが、返答は意外なものだった。
「殺し合う相手でありながら……むしろ、そのような仲だからこそ、それほどに育つ思いやりもあるのだな」
「いえ、ホドゥカみたいに足を引っぱるだけが生きがいのクズも多いですが……でもあんなやつでさえ、死体になっちまうとかわいそうな気はしますがね」
「私はそのように、剣闘士もまた当然に人間であると感じられる度量がまだまだ足りなかった」
奴隷より牛や馬を大事にする飼い主は多い。
場所によっては犬よりひどい扱いもされている。
奴隷は人間ではなく道具。もしくはその間くらいのものとヒルダは感じている。
「いやいや、牢の外でまっとうに暮らしている側だったら、ホドゥカみたいなペテン師の殺人鬼なんか、死んでなによりと思うのも当たり前で……」
しかしフマイヤの打ちひしがれたような姿を見ると、考えが混乱する。
『そういや奴隷でなくても、戦場で捨て駒にされる連中は家畜かそれ以下の扱いか。でもそれだと、おえらい連中だって権力争いで暗殺合戦の的になりゃ、晩飯のために絞められる家畜とたいして変わらねえ……じゃあ、人間ってなんだ?』
ヒルダが聞いた奇妙な噂では、フマイヤは領主になってさえ『自分の薬代を気にかけている』という。
薬は領民からの税金で買えているから『自分は領民に生かされている』などと大げさに考えているらしいが、宮殿で遊び暮らす世間知らずのたわごとではなく、実際に自分の手腕で島を豊かにした働き者がそう考えているとなると……余計に気味が悪い。
包帯まみれの見てくれはともかく、こんな気さくで物わかりのいい領主を『悪魔公』などと呼びたがる連中の気持ちもわかりそうな気がしてくる。
鞭と鎖を好む主人よりも、心の奥までいじくられそうな気配が、怖い。
なにより自分がすでに、そうされたい気持ちで染められていることがおぞましい。




