『婚約破棄は結構ですが、毒を盛った覚えはありません ~薬草好き令嬢、濡れ衣を晴らしていたら王都の薬師より有名になっていました~【連載版】』
「エリザベート・フォン・アルヴェイン! 君との婚約を、今日この場をもって破棄する!」
王宮の大広間に、よく通る声が響いた。
音楽が止まった。
談笑していた貴族たちも、一斉にこちらを見る。
そして私は――。
手にしていた小皿の上の焼き菓子を見つめていた。
あと一口だったのに。
「聞いているのか、エリザベート!」
「聞いております」
私は仕方なく顔を上げた。
目の前にいるのは、私の婚約者であるクリス・レインフォード侯爵令息。
正確には、たった今「元婚約者」になったらしい。
その隣には、小柄な少女が寄り添っている。
リサ・ベルナール。
最近、クリス様がずいぶん親しくしている平民出身の少女だ。
「何か申し開きはあるか?」
「婚約破棄についてでしょうか?」
「それ以外に何がある!」
ずいぶん怒っている。
私は少し考えた。
婚約したのは三年前。
父同士が決めた政略的なものだった。
クリス様とは月に二、三度、お茶を飲む程度。
恋愛感情があったかと聞かれると、正直困る。
むしろ私は、クリス様とのお茶会より、その庭園に生えている薬草のほうが気になっていた。
去年など、クリス様が将来について熱心に語っている最中に、庭の隅に珍しい薬草を見つけてしまった。
あれは本当に申し訳なかったと思う。
「そうですね」
私は答えた。
「婚約破棄については、承知いたしました」
大広間がざわめいた。
クリス様まで目を丸くする。
「……それだけか?」
「はい」
「もっと何かあるだろう!」
何を期待されていたのだろう。
泣き崩れるとか。
「クリス様がお望みで、両家の話し合いが済むのでしたら、私は構いません」
「な……」
「ただ、父にはご自身でご説明ください」
クリス様の顔が引きつった。
私の父は少し怖い。
いや、かなり怖い。
「そ、それは当然だ!」
「でしたら問題ありません」
私は残っていた焼き菓子を口に運ぼうとした。
「待て!」
また止められた。
焼き菓子が遠い。
「問題は婚約破棄だけではない!」
クリス様が隣のリサの肩を抱いた。
「君はリサを害そうとした!」
「……私が?」
「とぼけるな!」
今度こそ、広間が大きくざわめいた。
婚約破棄だけなら貴族社会では珍しくない。
だが、傷害となれば話は別だ。
「リサは昨日、君から贈られた茶を飲んで倒れた!」
「お茶?」
私はリサを見る。
彼女は青白い顔をしていた。
「わ、私……」
リサは震える声で言った。
「エリザベート様からいただいたお茶を飲んだあと、急に苦しくなって……」
「どのように?」
「え?」
「症状です。どのように苦しくなったのですか?」
リサが戸惑った。
クリス様が怒鳴る。
「そんなことを聞いてどうする!」
「重要です」
毒には、それぞれ特徴がある。
吐き気。
腹痛。
発熱。
痙攣。
呼吸困難。
意識障害。
瞳孔の変化。
皮膚の変色。
症状と発症までの時間を見れば、ある程度は候補を絞れる。
少なくとも私は、そう教わった。
――薬草図鑑に。
「リサさん」
私はもう一度尋ねた。
「お茶を飲んでから、どれくらいで具合が悪くなりました?」
「た、多分……半刻くらいです」
「最初の症状は?」
「胸が苦しくなって……」
「痛みですか? 動悸ですか?」
「心臓が、すごく速くなって……」
「ほかには?」
「手が震えて……汗が出て……息が苦しくなって……」
なるほど。
「吐きましたか?」
「いいえ」
「腹痛は?」
「ありません」
「熱は?」
「多分……ありません」
「意識を失いました?」
「いいえ」
私はリサの顔を見る。
今は普通に立っている。
顔色は少し悪い。
ただし唇の色に異常はない。
目も充血していない。
皮膚にも目立った発疹はない。
「エリザベート!」
クリス様が私を睨んだ。
「リサは君から贈られた茶を飲んで倒れたんだ! 言い逃れできると思っているのか!」
「そのお茶は残っていますか?」
「証拠を消すつもりか!」
「調べるだけです」
幸い、茶葉は持ち込まれていた。
クリス様の従者が、小さな布袋を取り出す。
私がリサに贈ったものらしい。
見覚えがある。
「触るな!」
クリス様が叫んだ。
「毒が入っているかもしれない!」
「でしたら、なおさら確認しないと」
私は布袋を受け取った。
開く。
香りを嗅ぐ。
茶葉を少量、白い皿の上に広げる。
乾燥させた葉。
花。
細かく砕かれた実。
そして――。
私は一枚をつまんだ。
「やっぱり」
「何がやっぱりなんだ!」
「クリス様」
私は葉を光にかざした。
「これ、毒ではありません」
「なに?」
「少なくとも、私が贈った状態では」
周囲がざわついた。
「嘘をつくな!」
「嘘ではありません。この茶葉は私が調合しました」
「自白したではないか!」
「薬草茶を調合したことをです」
私はため息をついた。
話が進まない。
「カモミール、レモンバーム、乾燥させたリンゴ、それから少量のミントです。眠る前に飲めるよう調合したものです」
「では、なぜリサは倒れた!」
「それを調べているんです」
もう一度、茶葉を見る。
妙だ。
香りそのものには問題がない。
見た限り、異物もない。
では――。
「リサさん」
「は、はい」
「昨日、このお茶以外に何を口にしました?」
「何って……普通の食事を……」
「薬は?」
リサの肩が、わずかに動いた。
私はそれを見逃さなかった。
「薬?」
クリス様も彼女を見る。
「リサ、何か飲んだのか?」
「い、いえ……」
「本当に?」
「……」
沈黙。
分かりやすい。
「リサさん」
私は言った。
「怒りませんから教えてください。何を飲みました?」
「……美容の薬を」
「美容?」
「最近、王都で流行っているんです。飲むと肌がきれいになるって……」
周囲の令嬢たちがざわついた。
どうやら知っている人がいるらしい。
「どんな薬です?」
「赤い、小さな瓶に入っていて……」
赤い瓶。
「一日に何回?」
「朝と夜に」
「昨日は?」
「朝と……お茶を飲む少し前に」
なるほど。
だいぶ見えてきた。
「その薬はありますか?」
リサが小さな鞄から瓶を取り出した。
赤いガラス瓶。
私は蓋を開けた。
甘い匂い。
その奥に、少し刺激のある香り。
一滴だけ皿に落とす。
指先につける。
舐めようとして――。
「待て!」
クリス様が私の手首を掴んだ。
「毒かもしれないんだぞ!」
私は彼を見る。
今日初めて、少しだけ感心した。
「心配してくださるんですか?」
「ち、違う! ここで君まで倒れたら面倒だからだ!」
「そうですか」
仕方ない。
香りだけで判断する。
ただ、かなり特徴的だ。
「リサさん」
「はい……」
「この薬を飲むと、身体が温かくなりませんか?」
「なります」
「少し元気になる?」
「はい」
「食欲が減ることは?」
「あります」
「眠れなくなることは?」
リサが目を見開いた。
「……あります」
やっぱり。
私は瓶を置いた。
「原因は、こちらでしょうね」
大広間が静まり返った。
「どういうことだ?」
クリス様が尋ねる。
「この美容薬には、かなり強い刺激作用を持つ植物が使われています」
「毒なのか?」
「量によります」
薬と毒。
その境界は、思っているほど明確ではない。
身体に良いとされる薬草でも、大量に摂れば害になる。
逆に毒と呼ばれる植物でも、適切に扱えば薬になるものがある。
だから私は薬草が好きなのだ。
面白いから。
「リサさんは、この薬を飲んだあと、私のお茶を飲んだ」
「それがどうした?」
「私のお茶にはミントが入っています」
「ミント?」
「それだけなら何の問題もありません。ただ――」
私はリサを見る。
「昨日、ほかにも何か飲みませんでした?」
「……」
「コーヒーのような、眠気を覚ます飲み物とか」
「あ」
リサが声を漏らした。
「夕方に……濃いコーヒーを二杯」
私は額を押さえた。
「二杯……」
「眠かったので」
「そのあと美容薬?」
「はい」
「そのあと薬草茶?」
「はい」
「食事は?」
「ダイエット中なので、ほとんど……」
「……なるほど」
だいたい分かった。
空腹。
濃いコーヒー。
刺激作用のある美容薬。
その状態で熱い茶を飲んだ。
動悸、発汗、震え、息苦しさ。
そして短時間で回復。
少なくとも典型的な毒殺の症状ではない。
「クリス様」
私は彼を見る。
「婚約破棄については結構です」
「……?」
「ですが」
私は赤い瓶を指さした。
「毒を盛った覚えはありません」
誰も喋らない。
「むしろ、この症状――」
私はリサを見る。
そして言った。
「毒ではありませんよ?」
静まり返った大広間で。
なぜか王宮付きの薬師だけが、ものすごい顔でこちらを見ていた。




