老獪
『……なるほど。ついに決められましたか』
「ああ。俺が決めました」
自分で口にした瞬間、胃の奥が強く縮んだ。
それでも、政朝は受話器を握る手を緩めなかった。
電話の向こうから、井上の返事は聞こえてこない。
代わりに、紙をめくるような小さな音がした。
『それで、どのような処分をお考えですかな』
声は落ち着いている。
驚いている様子も、警戒している様子もない。
まるで、政朝がどのような答えを出すのか、初めから分かっていたかのようだった。
「元閣僚の二人は除名します。議員辞職も勧告する。残る六人には離党を勧告して、従わなければ除名します」
『ずいぶんと思い切りましたな』
「必要な処分だと判断しました」
『刑事責任を問われるような違法行為は、確認されていないはずですが』
「犯罪ではなくても、党として責任を問うべき行為はあります」
『法に触れていない者を党から追い出せば、党内から反発が出ますぞ』
「分かっています」
『本当に?』
井上の声が、僅かに低くなった。
『二人の元閣僚だけではありません。残る六人にも、それぞれ派閥があり、地方組織があり、支援団体があります。八人だけを処分して終わるとは限らない』
「同じ派閥の議員が反発することも、地方組織が離れる可能性も考えました」
『参議院の議席も減る。維風の会を合わせても、過半数には七議席足りなくなる』
「それでも処分します」
政朝は即座に答えた。
電話の向こうで、井上が息を吐いた気配がした。
『総理は、議席というものを軽く考えておられる』
「軽く考えてはいません」
『議席がなければ、どれほど正しい政策を掲げても実現できません。予算も法律も通らない。国民のために働くには、まず数が必要です』
「分かっています」
『ならば、なぜ自ら数を減らすのです』
「八人を残せば、議席より大きなものを失うからです」
『大きなもの?』
「信用です」
政朝は机の上に置かれた議席数の資料へ目を向けた。
「制度を廃止したと発表しながら、名前を変えて続けていた。問題が発覚した後も、パーティー券の販売とは関係ない金だったと説明した。ここで処分しなければ、自由推進党は何も変わらないと思われます」
『世論は移ろいやすいものです』
「だからといって、忘れられるのを待つつもりはありません」
『時間が解決する問題もありますぞ』
「時間に隠してもらうのは、解決とは言いません」
言ったあと、政朝は自分の声が思ったより強く出ていたことに気づいた。
胸の内側にいるサザレからは、何の言葉も聞こえない。
ただ、胃の痛みと一緒に、胸の奥が僅かに熱くなっていた。
『誰かに、そう教えられたのですかな』
井上の問いに、政朝の指が止まった。
「どういう意味です?」
『総理は、ここまで強い処分を望んでおられなかったはずです』
「考えが変わることはあります」
『申界官房長官ですか』
「彼女は関係ありません」
『では、後藤秘書か。それとも、若い総理を操りたい別の誰かが現れましたかな』
「誰かに操られて決めたわけじゃありません」
『総理ご自身の判断であると?』
「そうです」
『本当に?』
「俺が決めました」
先ほどよりも、はっきりと言った。
井上は再び沈黙した。
政朝は受話器の向こうにいる男の顔を想像した。
眉一つ動かさず、椅子へ深く腰を下ろし、こちらの言葉を吟味しているのだろう。
怒鳴られる方が、まだ気楽だったかもしれない。
井上は声を荒らげない。
その代わり、一つ一つの言葉で相手の逃げ道を塞いでくる。
『処分案は、党紀委員会へ諮る必要があります』
「承知しています。総裁として、俺から処分案を提出します」
『党紀委員会だけで決められる話ではありません。党執行部や総務会との調整も必要になる』
「その手続きを、幹事長として進めてください」
『私に、八人を処分させるおつもりですかな』
「はい」
電話の向こうから、低い笑い声が聞こえた。
『これはまた、ずいぶんと厳しい役目を与えてくださる』
「幹事長の仕事だと思っています」
『総理は、私が処分に反対するとお考えで?』
「まだ、あなたからはそう言われていません」
『では、私が素直に従うと?』
「それも分かりません」
『正直ですな』
「井上幹事長を相手に、分かったふりをしても仕方がないので」
再び、小さな笑い声がした。
今度の笑いには、先ほどとは違う響きがあった。
面白がっているようにも、値踏みしているようにも聞こえる。
『処分については分かりました。ほかにもあるのでしょう』
「第三者機関を設置します」
『党内調査はすでに行っておりますが』
「その党内調査では、制度を続けると決めた人間が分かっていません」
『昔から続いていた慣行です。明確な決定者など存在しない可能性もある』
「それを含めて調べます」
『誰に調べさせるのです』
「元裁判官、弁護士、公認会計士、政治資金制度の研究者です。委員候補は外部団体から推薦してもらいます」
『党が委員を選ばないと?』
「党に都合のよい人を集めたと思われないためです」
『それでは、党の事情を理解しない者が、机上の理屈だけで判断するかもしれませんぞ』
「党の事情を考慮しすぎた結果が、今の状況です」
政朝の言葉に、電話の向こうが静かになった。
言いすぎたかもしれない。
そう思ったが、撤回するつもりはなかった。
『……続けてください』
「調査結果は原則として公開します。三か月以内に中間報告、半年以内に最終報告を求める。重大な事実が見つかった場合は、調査を妨げない範囲で順次公表します」
『随分と具体的ですな』
「考えましたから」
『一晩で?』
政朝は一瞬、言葉に詰まりそうになった。
サザレと契約してから、まだ一日も経っていない。
だが、井上がその事実を知るはずはなかった。
「総裁になった時から、この問題については考えていました」
『……そうでしたな』
井上の声から、感情が消えた。
『第三者機関の設置については、幹事長として協力しましょう』
「ありがとうございます」
『ただし、党の機密や支援者の個人情報まで、外部へ渡すわけにはいきません』
「公開できない情報の扱いも、党だけでは決めません。第三者機関に判断してもらいます」
『党の情報を外部の者に預け、その外部の者に公開範囲まで決めさせると?』
「調査対象である党が、自分で隠す範囲を決める方がおかしいと思います」
『総理は、党を信用しておられない』
「今のままでは、国民に信用してもらえません」
『私が聞いているのは、総理ご自身が党を信用しておられるかどうかです』
政朝は答えられなかった。
自由推進党は、政朝が所属してきた党だ。
選挙で公認を受け、議員となり、今では総裁を務めている。
それでも、党内で何が行われてきたのか、政朝は把握できていなかった。
「信用したいとは思っています」
『信用している、ではなく?』
「信用するために、調べる必要があります」
短い沈黙のあと、井上が低く息を吐いた。
『なるほど』
その一言が、なぜか恐ろしく感じられた。
「第三者機関には強制力がありません。党を離れた議員や、辞めた職員が協力を拒む可能性があります」
『それで?』
「国会による調査も妨げません。必要な参考人招致や証人喚問を、自由推進党の都合で拒否しない方針です」
『総理』
井上の声が、初めて明確に変わった。
低く、硬い。
『それがどういう意味か、理解しておられますかな』
「理解しています」
『野党は、真相究明だけを目的に証人喚問を求めるわけではない。政府を傷つけ、党を弱らせ、総理を引きずり下ろすために使います』
「見せしめの証人喚問には応じません。それに、野党が真相を明らかにした結果として俺を引きずり下ろすなら、そのときは受けて立ちます。真実を隠さなければ守れない政権なら、守る価値はありません」
『何が見せしめで、何が必要な調査か。誰が判断するのです』
「国会です」
『与党が守らなければ、政権は野党の攻撃にさらされ続ける』
「身内を守るために調査を止めれば、もっと大きな攻撃材料を与えることになります」
『きれい事ですな』
「そうかもしれません」
『政治は、きれい事だけでは動かない』
「汚いことを見過ごさなければ動かない政治なら、変える必要があります」
言い切った直後、心臓が強く跳ねた。
井上を怒らせた。
今度こそ、そう確信した。
だが、返ってきたのは怒声ではなかった。
『総理』
「はい」
『ご自分が、誰の力でその椅子に座っているのか、お忘れではないでしょうな』
来た。
政朝は無意識に背筋を伸ばした。
「忘れていません」
『党内で、あなたを総裁に推す声は多くなかった。大臣経験もない。二期目の若手。普通であれば、候補にすらならなかった』
「分かっています」
『私が反対を抑え、票を集めた。あなたを総裁にし、総理大臣にした』
「そうですね」
『総裁選から組閣、党内調整まで、私が支えてきた』
「それも否定しません」
『ならば、私がいなくなればどうなるかも分かるはずです』
政朝は受話器を強く握った。
胃が痛い。
喉も乾いていた。
それでも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
「井上幹事長」
『何ですかな』
「俺を総理にしたことと、今回の問題で井上幹事長が何を知っていたのかは、別の話です」
電話の向こうから、音が消えた。
「井上幹事長がいなければ、俺は総理になっていなかった。それは事実です」
『ならば――』
「でも、それを理由に調べないなら、俺は総理大臣じゃない。井上幹事長の代理です」
言葉にした瞬間、政朝自身が最も驚いた。
昨日までの自分なら、決して言えなかった。
胸の奥にいるサザレは、何も言わない。
ただ、静かにそこにいる。
『……言うようになりましたな』
井上の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさが、かえって政朝を緊張させた。
「井上幹事長にも、第三者機関の調査を受けてもらいます」
『私を?』
「はい」
『私が、何をしたというのです』
「まだ、何をしたか分からないから調べます」
『何もしていない者を疑うのですか』
「疑惑がある以上、何もしなかったことも含めて確認する必要があります」
『私が制度を続けるよう指示した証拠はない』
「承知しています」
『還付金を受け取った事実もない』
「それも承知しています」
『ならば、なぜ私が調査対象になる』
「三年前の党執行部会議に出席していたからです。元会計責任者は、その場で還付について説明したと証言している」
『ほかの出席者は、詳しい説明を受けていないと話しているはずです』
「証言が食い違っているから、調べます」
『私の言葉を信用できないと?』
「私は信用したいのです。ですが、井上幹事長の言葉だけで終わらせたら、調査になりません」
井上は黙った。
今度の沈黙は長かった。
政朝は時計へ目を向けた。
秒針が一つ進むたびに、胃の痛みが強くなる。
『私に、何を求めるのです』
「第三者機関の委員選定と、調査方針には関与しないでください。幹事長室を含む資料はすべて保全する。調査関係者へ、直接指示することも認めません」
『幹事長である私を、党の調査から外すと?』
「井上幹事長自身が調査対象だからです」
『それでも、幹事長の職には残せるのですかな』
「残ってもらいます」
『処分しないのですか』
「今の時点では、処分するだけの証拠がありません」
『世論は、私の辞任を求めるでしょう』
「そうなると思います」
『野党も、身内に甘いと攻撃する』
「説明します」
『何と?』
「疑惑だけで処分はしない。ただし、例外なく調査する。関与が確認された場合は、除名すると」
『除名』
井上が、その二文字をゆっくりと繰り返した。
『私を、自由推進党から追い出すおつもりですか』
「関与が確認された場合は」
『あなたを総理にした、この私を?』
「誰であってもです」
政朝は迷わず答えた。
受話器を持つ手には、汗が滲んでいた。
『……なるほど』
井上の声から、再び感情が消えた。
『それで、私を幹事長に残す理由は何です』
「八人の処分と、党内改革を実行してもらうためです」
『疑っている相手に、改革を任せると?』
「改革案を決めてもらうわけではありません。第三者機関の提言と、俺が決めた方針を実行してもらいます」
『私には決めさせず、働かせる』
「そうです」
『厳しいですな』
「辞任して終わりにはしません」
『責任を取らせるということですか』
「最後まで果たしてもらいます」
電話の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。
『総理は、私を処分するよりも厳しいことを仰る』
「井上幹事長なら、できますよね」
『挑発ですかな』
「確認です」
また、沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
政朝は、自分の鼓動が受話器の向こうまで聞こえてしまうのではないかと思った。
『分かりました』
井上が言った。
あまりにも静かな声だったため、政朝は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「受け入れていただけるんですか」
『総裁のご決定なのでしょう』
「はい」
『党紀委員会と総務会の手配は、私が行います。八人への処分案も、総裁の方針として正式な手続きに乗せましょう』
「お願いします」
『第三者機関についても、委員選定には関与しません。幹事長室の資料は保全させます。私自身も、聞き取りには応じましょう』
政朝は僅かに息を吐いた。
『ただし、一つだけ条件があります』
緩みかけた身体が、再び強張った。
「何ですか」
『処分と第三者機関の設置を公表する前に、党執行部と関係する地方組織へ説明する時間をいただきたい』
「引き延ばすつもりですか」
『混乱を最小限に抑えるためです。報道で初めて処分を知れば、反発する者も増える。資料の保全を終える前に公表すれば、持ち出す者が現れるかもしれません』
井上の主張には筋が通っていた。
だからこそ、政朝はすぐに答えなかった。
「どれくらい必要です?」
『午前中に資料保全を指示し、正午までに党執行部と地方組織の責任者へ説明します。公表は午後に』
「今日中ですね」
『今日中です』
「処分内容を変えるための交渉は認めません」
『承知しました』
「資料を移動したり、廃棄したりすることも認めません」
『当然です』
「第三者機関の人選にも関与しない」
『先ほど申し上げたとおりです』
井上の答えには、迷いがなかった。
「分かりました。正午まで待ちます」
『ご理解いただき、感謝します』
「井上幹事長」
『何ですかな』
「これは、井上幹事長を守るための判断ではありません」
『分かっております』
「関与が確認された場合は、本当に処分します」
『それも理解しておりますよ』
井上の声音は穏やかだった。
『総理こそ、今日お決めになったことを忘れないでいただきたい』
「忘れません」
『では、直ちに動きましょう』
「お願いします」
『卯月総理』
通話を終えようとした政朝を、井上が呼び止めた。
「何ですか」
『立派なご決断です』
褒められたはずなのに、政朝の背中に冷たいものが走った。
『その決断を、最後まで貫けるとよいですな』
通話が切れた。
静かな電子音だけが、執務室に残った。
政朝はしばらく、受話器を耳へ当てたまま動けなかった。
やがて電話を置き、大きく息を吐く。
「あぁ……胃が……」
胸元から淡い光が漏れ出した。
サザレが机の脇へ姿を現す。
「痛いのであろう。先ほどから、妾にも伝わっておった」
「途中で出てこなくて助かったよ」
「そなたが自ら話すと申したからな」
サザレは電話へ視線を向けた。
「井上は受け入れたようだな」
「一応は」
「喜ばぬのか?」
「もっと反対されると思ってた」
「従ったことが、不安なのか?」
「井上幹事長は、納得したから従ったわけじゃない気がする」
「妾もそう思う」
政朝はサザレへ顔を向けた。
「分かるのか?」
「声しか聞こえなかったが、最後まで余裕を失っておらなんだ。追い詰められた者の声ではない」
「俺の方は、ずっと追い詰められてたけどな」
「それでも、退かなかった」
サザレはわずかに目を細めた。
「井上は、そなたの要求を受け入れたのではなく、そなたがどこまでできる者なのかを測っておったのかもしれぬ」
「測られてた?」
「そなたが脅せば引くのか。恩を持ち出せば迷うのか。政権を失うと言えば怯えるのか」
政朝は、井上との会話を思い返した。
党内の反発。
議席の減少。
井上が政朝を総理にしたという事実。
どれも、政朝が迷う理由になり得るものだった。
「試されてたのか……」
「少なくとも、話を聞くだけの電話ではなかったな」
「受け入れてくれたなら、それでいいと思いたいけど」
「油断はするな」
サザレの声から、僅かな柔らかさが消えた。
「力を持つ者は、正面から逆らうとは限らぬ。従うふりをしながら、別の場所で道を変えることもある」
「俺たちの時代の政治を、ずいぶん分かってきたな」
「人の権力争いは、時代が変わっても大きくは変わらぬ」
「嫌な話だ」
「だが、そなたは逃げなかった」
サザレは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ひとまず、それでよい」
「ひとまず、か」
「まだ始まったばかりなのであろう?」
「そうだな」
政朝は井上との通話内容を記録するため、机の上の紙へ手を伸ばした。
受話器の残した熱は、すでに消え始めていた。
◇
電話を切った井上剛は、自由推進党本部の幹事長室で、しばらく受話器を見つめていた。
重厚な執務机の上には、政朝との会話中に目を通していた資料が広げられている。
壁際に控えていた秘書が、井上の表情を窺っていた。
「幹事長、総理は何と?」
「八人を処分するそうだ」
井上は受話器をゆっくりと置いた。
「第三者機関も設置する。私も調査対象になるらしい」
秘書の顔が強張った。
「それを、受け入れられたのですか」
「受け入れましたよ」
「しかし――」
「総理の決定ですからな」
井上は椅子へ深く腰を下ろし、静かに笑った。
その笑顔を見た秘書は、それ以上何も言えなくなった。
「総理は、思っていたより早く、自分の足で立ち始めたらしい」
声には、怒りも焦りもなかった。
ただ、そこには薄い警戒が混じっていた。
井上は机の上の携帯電話を手に取り、連絡先から一人の番号を呼び出した。
「私だ」
相手が出ると、挨拶もなく告げた。
「三年前の党執行部会議に出席していた者を、全員確認しろ。元会計責任者が、今、誰と接触しているかも調べておけ」
秘書が息を呑んだ。
「資料には触れるな。今はな」
井上は机の上に広げられた党内調査報告書へ目を落とした。
「それから、総裁指名で卯月に票を入れなかった連中にも、さりげなく声をかけておけ」
電話の相手が何かを尋ねた。
「急ぐ必要はない」
井上は目を細めた。
「念のためだ」
通話を終え、携帯電話を伏せる。
「総理は変わられましたな」
秘書が恐る恐る口にした。
「そうですな」
井上は穏やかに答えた。
指先で、報告書の表紙をゆっくりとなぞる。
「少し、成長が早すぎるほどに」
幹事長室の扉は固く閉ざされていた。
その内側で何が話されたのかを知る者は、井上と秘書のほかにはいなかった。




