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番外編:読書のお供にポケットサンド

「帰りに、本屋さん寄っていい?」

 運転席の真琴が、シートベルトを締めながら俺に尋ねた。

 休日の食料品買い出しを終え、家に帰る直前のことだ。俺たちが働く小料理屋の定休日は週に一度、いつもその日に一週間分の食料品をまとめて買いに出かけるのが習慣になっていた。どうせならドライブも楽しもうとあえて遠くのスーパーを目指したり、ついでに知らない飲食店で昼食を取ったりするのが楽しい。この街は真琴にとってはまだ一年住んだだけの街だし、俺にとっても九年近く離れていた故郷だ。ちょっとした買い物ついでのドライブですら新鮮で、休日の過ごし方に困ることはなかった。

「いいよ」

 買った食料品を後部座席に積みながら応じると、真琴はこちらを振り返って笑う。

「ありがと。実は欲しい漫画があるんだよね」

「漫画? どんなの?」

 助手席に乗り込みながら聞き返すと、彼女は有名な漫画のタイトルを挙げた。子供向け雑誌で連載されてはいたものの、大人にも根強いファンが多い名作だ。夢のある内容とわくわくする冒険が詰まっていて、俺も子供の頃にはよく読んでいた。

「急にふっと思い出して、そしたら読み返したくなったんだ。いい機会だし大人買いしちゃおうかなって」

 真琴はそこで少しはにかんだ。それで俺も背中を押そうと決める。

「いいんじゃないか。久々に俺も読みたい」

「本当? じゃあ思い切って買っちゃおう!」

 それで彼女は嬉しそうにエンジンを掛け始め、愛車はスーパーの駐車場を滑り出した。ハンドルを握る上機嫌な横顔を、俺はいいことをした気分で眺める。


 暦の上では平日の今日、昼前の書店は空いていた。

 店に入るなり真琴はコミック売り場を目指して真っ直ぐに歩いていき、俺はのんびりと辺りを眺めながら後を追う。三月の書店は来る大型連休に向けた観光ガイドブックが並んでいたり、児童向けの学習ドリルが平積みされていたりと、そのラインナップだけで春を感じられるようだった。どこを歩いても真新しい紙とインクの匂いがするのが、なぜだか少し懐かしい。

 店の奥にあるコミック売り場では、真琴が件の漫画本を吟味しているところだ。買い物かごをちゃんと用意して、大人買いする準備は万端らしい。

「全巻買えばいいじゃないか」

 俺が背後から声を掛けると、彼女は考え込む様子を見せる。

「結構場所取るかなと思って。うちの本棚に空きがなかった気がするから」

 我が家にあるたった一つの本棚には現在、俺と真琴の本が肩を並べていた。結婚する際に持ち寄った本はお互いそれほど多くはなく、二人分の蔵書を置いておくのに不都合はなかったのだ。学生時代に読んでいた本や料理のレシピ本、うちの店が紹介されているムックなどが主なラインナップだった。そういえばうちには漫画本がない――最近は読みたい漫画があればスマホやタブレットで購入することが多かった。ちょっとした空き時間に読める手軽さ、持ち運びのしやすさが、息抜きに読む漫画に向いていたからだ。

 だから真琴が今回、あえて紙の本を欲しいと言い出したのには理由があるのだろう。

「空きなら作るよ」

 その気持ちを尊重したくて、俺はそう宣言した。

「……できるかな?」

 真琴は一度首を傾げたが、俺が頷くと、少し考えて『できるかも』と判断したようだ。

「じゃあ、シリーズ全部買って帰る。入らなかったらテレビ台にでも仮置きしよ」

「そうしよう」

 書店の買い物かごに懐かしのコミックスが十数冊と積まれていく。小学生以来の再会となった表紙のキャラクターの顔に、俺もつられて笑顔になった。お会計は五桁に上ったが、真琴はいい買い物をしたとばかりの表情で支払い、コミックスも車に積み込んで意気揚々と帰路に就いた。


 その日から、真琴は毎日少しずつコミックスを読み始めた。

 朝ご飯を終え、洗濯や掃除を二人掛かりで済ませた後に三十分ほど。それから店に出て帰宅して寝る前にちょっとだけ読むのが彼女のスタイルだった。そういう読み方で本の内容を忘れてしまわないのかと俺が尋ねると、真琴は愉快そうに笑い飛ばしてくる。

「大丈夫。だって全部、子供の時に読んでるんだもん」

 聞けば、彼女の実家にはこのコミックス全巻がかつて揃っていたらしい。『かつて』と言ったのは、現在はもう存在していないからで、彼女のお兄さんの一人が家を出る際に全て持って行ってしまったそうだ。おかげで読み返したくなるたびに歯がゆい思いをしていたらしい。

「どこかのタイミングで、買い直そうとか思わなかったのか?」

「うーん……就活したり就職したりで忙しい時期でもあったからね。読みたいなって思っても、すぐ忘れちゃったり他のことに追われたりで、ずっと買えなかったんだ」

 つまり真琴は何年か越しの悲願を叶えたというわけだ。

 言われてみれば、俺も会社勤めをしていた頃はあまり漫画を読んでいない。ビジネス書を熟読するような真面目な会社員でもなかったのだが、そもそもゆっくり本を読むような余裕――主に、心の余裕がなかった。

 せっかくなので俺も、真琴が読み終わった巻から手をつけてみる。じっくり読みふける時間が毎日あるわけではないものの、確かに彼女の言った通り、読んだことのある話は意外と覚えているものだ。そして名作というものは読んだ記憶があったとしても尚面白く、古い作品であっても色褪せない。気がつけば夢中になって読んでしまう。

 そして読み終えた後は真琴と感想を言い合ったりもした。

「小学校の頃は『子供っぽい』って思っていたけど、今読み返しても面白いよな」

「考えさせられるところがあるよね。作中の大人目線で見ちゃったりとか」

「わかる。さすがに主人公の立場では読まなくなったな」

「その分だけ、あの頃とは違う読後感になるのかもね。子供だけで世界を救うなんて健気すぎるよ」

 俺たちはすっかり大人になったが、それで読書体験が損なわれるということはない。むしろ幼い頃とは違う角度から物語を楽しめるようになった。と同時に子供時代の漫画にまつわる思い出も甦ってきて、郷愁に囚われるひとときもある。

「播上はアニメも観てたの? 私は小学生まで観てたよ」

「映画なら観に行ってた。いくつくらいまでだったかな……」

「思えばお兄ちゃんたちと観に行かなくなってから、自然と観なくなったなあ。友達と観に行く時は実写映画のほうが盛り上がれるし」

 それで俺も学生時代、友達と観に行った映画のいくつかを思い返してみた。ドラマの劇場版かハリウッド映画の大作かで、子供の頃に読んでいた漫画のアニメ映画は選択肢になかったように思う。思春期に子供向け作品を観に行くのは気恥ずかしさもあったし、はらはらするアクションシーンの多い作品を求めていた年頃だから、でもあった。

 しかしいい大人になった今、俺たちは子供向け作品に回帰しつつある。なんとも不思議な現象だ。

「結婚して、いろいろ落ち着いたのかな? 今読むとやっぱり面白いよ」

 真琴は熱く感想を語り、ちょこちょことスキマ時間に漫画を読み進めながら一週間を過ごした。


 やってきた次の休日、俺たちは早めに食料品の買い出しを済ませた。

 なぜかといえばもちろん、じっくり漫画を読む時間を確保するためだ。真琴は昼食も家で食べたいと言い出しており、漫画を堪能しようとする強い意志が感じられた。そういうことならと俺は昼食作りを引き受けることにする。

「全然手伝わなくていいの?」

「いいよ、本読んで待ってて」

 俺が促すと真琴は少し申し訳なさそうにしたが、普段から自宅の食事作りは九割が俺の担当だ。最終的には受け入れて、リビングに座って続きを読み始めた。すぐに熱中し始めたようで、静かに、ゆっくりとページを繰っているのが見える。

「ふふっ……」

 時折楽しそうな笑い声を漏らしていたから、こちらまで楽しい気分になる。

 本日のメニューはサンドイッチだ。ぱっと作れてすぐ食べられる手軽さも、パンと相性のいい具材の豊富さも、休日のランチにはぴったりだろう。真琴もさながらサンドウィッチ伯爵の逸話みたいに漫画に夢中になっているし、これ以上ふさわしいメニューはない。更に食べやすさを考慮して、挟まないポケットサンドを作ることにした。

 六枚切りの食パンを半分に切り、断面に包丁をそっと入れてポケットを作る。柔らかいパン生地を裂かないように気をつけつつ切れ目を入れたら、好きな具材を詰める。

 食パン二枚で挟む一般的なサンドイッチと比べると、ポケットサンドは具材をあまり多くは詰められないという欠点もあった。だがパンを具材の器にできるから、ひっくり返しでもしない限りは零す心配がないのがいいところだ。

 水気をよく切ったサバ缶を箸でほぐし、細切りにしたニンジンとダイコンのなますを合わせたバインミー風。薄切りのトマト、サニーレタス、オリーブオイルでカリッと焼いたベーコンを入れたBLT。そしてふわふわに仕上げたスクランブルエッグで作る卵サンドというラインナップにした。野菜も全てきっちりと水気を切り、パンのポケットには薄くバターを塗っておく。BLTにはマヨネーズと粒マスタードを、卵サンドにはケチャップを添え、よりパンに合う味つけにしてみた。

「いい匂い」

 いつの間にか、真琴が本を置いてキッチンを覗き込んでいる。

「本を読みながらでも食べやすい、ポケットサンドにしてみたよ」

 俺がそう言うと、彼女はたちまち眉を顰めた。

「そんなお行儀悪いことしないよ」

「いや、そのくらい夢中だったからさ」

「ごはんはちゃんと向き合って食べます。せっかく播上が作ってくれたんだからね」

 それは、作り手にとってこの上なく光栄な言葉だ。俺もその思いに報いようと、温かい紅茶を添えて食事の支度を調えた。


 食卓を挟んで向かい合い、真琴と俺は揃って手を合わせる。

「いただきまーす」

「いただきます」

 結婚してからというもの、何百回と繰り返してきた習慣だ。絶対にそうしようと約束しあったことはないが、俺も真琴もお互いが座らないうちは食べずに待つし、二人が揃ってから食べ始める。必ず向かい合わせに座って、同じご飯を一緒に味わうようにしていた。そのほうが美味しいし、食事の時間も楽しいからだ。

 真琴はまずバインミー風サンドを手に取り、一口めから大きくかぶりついた。すぐに目を輝かせて嬉しそうに微笑んだ。

「美味しい! サバとなますって相性いいんだね」

「缶詰でも脂がたっぷり乗ってるからな。酸っぱい味つけで食べるとちょうどいいんだ」

 青魚の脂は美味しいし身体にもいいから、酢の物を合わせると旨味が引き立ち、より美味しく食べられる。合理的な食べ方だ。

 俺もあとに続くようにBLTに手を伸ばした。瑞々しく酸味のあるトマトにシャキシャキしたレタス、そして焼いてカリカリになったベーコンは異なる味と食感が魅力だ。調味料はマヨネーズと粒マスタード、それに薄く塗ったバターだけだが、それぞれに魅力を引き立てあって調和の取れた美味しさを感じた。BLTがサンドイッチの定番になるのも頷ける。

「卵サンドもいいね、ふわふわで美味しい」

 真琴は早くも二つ目の、卵サンドを食べ始めていた。ポケットサンドを頬張る顔は満足げで、こちらとしても作り手冥利に尽きる。

「BLTも美味しいよ、ベーコンの旨味がよく出てる」

「この後に食べる! 作ってる間からいい匂いしてたもんね」

 食卓越しの彼女の笑顔を見るたびに、作ってよかったと心から思えた。

 だからこうやって向かい合って食事を取ることは、俺にとってもすごく大事なことだ――本を読みながらでも構わないとは思っていたが、やっぱり、こうやって食べるのが一番いい。

 休日のランチは時間を気にせず過ごしていられる。のんびりした空気が流れる中、俺たちはサンドイッチを食べながら漫画談議に花を咲かせた。

「さっき、ちょっと笑ってたけど。そんなに面白いシーンだった?」

「あ、聞こえてた? 何度も読んだコマなのに、セリフ回しが面白くてさ。播上もあとで読んでみてよ」

 真琴は屈託なく笑う。

 きっと、子供の頃からあんなふうに漫画に熱中しては楽しんでいたのだろう。つられて笑ってしまったのは、俺の知らない子供時代を見せてもらえたように思えたからだ。

 俺も午後からは彼女の隣で、ゆっくり読書の時間を堪能しよう。二人で漫画を読みながら過ごすだけの休日は、結婚してから初めてだ。贅沢なひとときだと感じるのは、幸せだから、なのだろう。

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