半日後のブランチ
本編のすぐ後、播上と清水が結婚した次の日の朝のお話。
布団の外にはみ出した、左腕の肌寒さで目が覚めた。
春先とはいっても朝のうちは空気が冷たい。まだはっきりしない意識で腕を引っ込めようとすると、いつもより温かい布団の中で俺じゃない誰かが寝返りを打った。
カーテンの隙間から差し込む光が、布団の上に覗いている短い髪を明るい色に照らし出している。
「真琴……」
俺が名前を呟いても、彼女は起きる気配がない。俺の胸にしがみつくような格好で、幸せそうな寝顔を見せている。
それで俺もこの状況にようやく実感が湧いてきて――ああそうだ、俺達、結婚したんだって思う。
俺達はちょうど昨日付で籍を入れて、一緒に住み始めた。
それで昨夜は当たり前みたいに一つの布団で一緒に寝た。
当たり前みたいに、とは言うけど俺も真琴も当たり前だなんて思っていなかった。俺達のいる布団の隣に敷かれた、空っぽのままの布団がその証拠だ。俺と真琴は五年間も『メシ友』の関係を続けてきて、その後一年間は恋人として付き合ってもいたけどずっと遠距離恋愛で、それからいきなり夫婦になった。その間に俺は真琴のご両親に挨拶をしてきたし、真琴も俺の両親と会ってくれて、結婚の準備はちゃんとやってきたつもりだ。だけど恋人っぽいことをろくにしないうちから夫婦になってしまったので、俺達の間には何と言うか、夫婦であることに対する照れと冷静さの両方が存在している。
昨夜だって、布団を二組敷くと言い出したのは真琴の方だった。そういうポーズが必要なくらいには、昨夜の俺達はまだ照れていた。
振り返ってみれば甘い言葉を囁き合うようなこともなかったし、むしろ冗談ばかり言い合ってずっと笑っていたような覚えがある。俺が腕枕をしようかと言ったら、『播上の右手は商売道具なんだから』なんて理由で断られた。その代わりに彼女は俺にしっかりとしがみついてきて、俺もその温かさを幸せだと思いながら眠りに就いた。
そして迎えた今朝、俺はやっぱり照れている。
真琴の寝顔はすぐ近くにあるし、温かいし、朝の光は眩しいし、隣には空っぽの布団があるし――寝起きの頭で考える。どんな顔して起きていればいいんだ。
身体が自由ならさっさと起きて、手持ち無沙汰を解消すべく朝飯でも作り始めるところだ。でも真琴は随分しっかりと俺に掴まっているし、彼女を起こさないように布団を抜け出すのは至難の技だろう。それに俺だってこの温かさを切り捨てるには相当の思い切りが必要になる。
朝飯を何にするかも悩みどころだ。昨日、夕飯を作る為に買い物に出たんだからその時一緒に何か買うとか、真琴の好みを聞いておくとかすればよかった。だけどその時の俺は朝飯の話を口にするのに抵抗があった。真琴だってそうだったはずだ。夕飯の買い物をしながら朝飯のことに思い至らないなんて俺達らしくもない。
とりあえず布団は抜け出せそうにないし、ご飯を炊いてる暇もないな。どうするか。
冷蔵庫に何があったかを思い起こしつつ、俺は真琴の寝顔を見下ろす。
俺の胸に頬をぴったりくっつけて、彼女はまだ夢の中のようだ。試しにそのほっぺたをつっついてみても、ぴくりともしない。すうすう寝息を立てている。
それにしても可愛い寝顔だ。
長い付き合いなのに彼女の寝顔を見るのは初めてで、俺は妙な感慨を覚えた。真琴は普段から可愛い子だからそりゃ寝顔だって可愛いだろうけど、それにしてもぐっすり寝ている。朝の光が差し込んできたって、布団の外が冷え込んでたって、俺が隣で起きてたってお構いなしだ。
そうなると悪戯心が湧いてきて、俺はほっぺたをつついていた指を彼女の唇へと移した。唇は少し乾いていて、頬よりも弾力があって柔らかい。グミみたいな感触だ。
俺がしばらくその唇をつついていると、急にその唇の両端がにゅっと持ち上がった。
かと思うと寝ていたはずの彼女が目をつむったまま、くすくす笑い始めて――、
「もう、播上、何やってんの?」
「……起きてたのか」
俺は驚き、今更ながら手を引っ込める。
一体、いつからだろう。ずっとぐっすり寝入っているように見えたのに。
「起きてた。播上が悪戯ばっかするから」
真琴はまだ笑いながら俺を見上げている。布団の中で細い肩を震わせて、楽しそうに笑い声を上げている。
「じゃあ寝たふりしてたんだな」
俺が咎めると、真琴は笑ったまま唇だけ尖らせる。
「いけなかった?」
「起きてるなら言って欲しかった。今、かなり恥ずかしい」
「私はほっとしてる。普通に起きたら照れるだろうなって思ってたし」
気がつけばこれが、二人で迎える初めての朝だ。
真琴はずっと笑い続けてるし、俺は結構恥ずかしい思いしてるし、お互いやっぱり照れているかもしれない。でもまあ、幸せだった。
二人して布団を出たのは朝の十時過ぎだった。
思ったよりのんびりしてしまったみたいだ。特に用事もなかったからいいけど。
「朝ご飯っていうよりブランチだね」
真琴がそう言ったので、俺もブランチらしいメニューを作ることにする。
冷蔵庫にあったキャベツとベーコンのパスタ。キャベツはざく切りでパスタのついでにさっと茹で、ベーコンはオリーブオイルで軽く炒める。味つけは塩麹だけのシンプルなメニューだ。
あっさりめに見えてあと引くコクがあるパスタは、遅い朝飯にぴったりだ。
「わあ、すごい! 何かドラマっぽい!」
「ドラマ……? どこが?」
ぴんと来なくて聞き返せば、パスタの皿を見下ろす真琴がうっとりと続ける。
「彼の部屋でお泊まり、遅く起きた朝、彼がさっと作ってくれたメニューはシンプルだけど彩りのいいパスタ――この上なくドラマっぽい状況だと思わない?」
「俺、ドラマなんて大河くらいしか見ないからな」
大河ドラマにパスタは出てこない。ブランチをいただくシチュエーションもないだろう。
「それに、泊まったんじゃなくてここが真琴の家だからな」
俺が注釈を入れると、真琴は恥ずかしそうに首を竦める。
「そうだけど。シチュエーション的には似てるかなって……」
そして俺を見て、可愛らしくはにかんだ。
「ね、私はしゃぎすぎかな?」
「そうは思わないよ」
「そっか……何か、浮かれてるなって思ったから」
「別にいいよ。浮かれてるのは俺も同じだ」
正直に答えたら真琴は驚いたみたいで、目を丸くしていた。
「播上も? そんなふうには全然見えないけど……」
「かなり浮かれてる。じゃないと朝からこんなメニュー作らないからな」
そもそもブランチなんて、二十八年生きてきて初めて作ったし、初めて食べる。
だからこそ、初めての朝にはちょうどいいのかもしれない――なんて、柄にもないかな。たまにはいいか。
俺と真琴は向き合って、照れながらブランチを食べた。
「美味しい! すごいなあ、播上はパスタも上手なんだね」
「真琴に美味しくないもの食べさせるわけにはいかないだろ」
「あっ……そ、そっか」
俺の言葉に彼女は息を呑んで、それから恥ずかしそうに言い添えた。
「何かいいね、そういうの」
「ああ」
俺も頷いてはみたものの、それ以上言葉が続かなくて何となく黙る。
すると真琴もおとなしくなって、こそばゆい沈黙の中で俺達は食事を続ける。食べながら時々目が合って、真琴が照れ笑いを見せると、俺もつられて笑ってしまう。
まだ夫婦になりたてで、何にも慣れてなくて、でも幸せいっぱいな俺達の、初めての朝はこんな感じだった。




