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夏の妻

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/04/22

 四十二で始めた動画配信は、思っていたより静かな仕事だった。


 喋っているあいだは誰かと繋がっている気がする。コメントが流れ、笑いどころでは絵文字が増え、どうでもいい雑談にも返事がつく。だが配信を切った瞬間、家は急に広くなる。冷蔵庫の低い唸りと、古い柱の軋みと、自分が一人で息をしている音だけが残る。


 祖母の家を継いでから、そういう夜が増えた。


 もともと一人でいるのが苦手な方ではなかった。若い頃は仕事があったし、忙しさに押されているうちに四十を越えた。結婚もしていない。大きく失ったものがあるわけでもない。ただ、何かを手に入れ損ねたまま、気づけば年齢だけが増えていたような感覚は、夏の夜ほどよくわかった。


 その家には、昔から妙な決まりがある。


 夏のあいだだけ、玄関の三和土に麦茶を一杯置くのだ。氷は入れない。濃すぎてもいけない。薄すぎてもいけない。曇ったガラスのコップで、夜の九時を過ぎたら置き、朝の五時には片づける。


 子どもの頃、理由を聞いたことがある。


 祖母は笑って言った。


「鬼が来るからだよ」


 冗談だと思っていた。だから祖母が死んで一人で住むようになってからは、その決まりをしばらくやめていた。だがやめた初日の夜に玄関が二度、二度、一度と鳴って、低い声で「麦茶がない」と言われてからは、やめる気が失せた。


 その話を配信で雑談のネタにすると、案外受けた。


「なにそれ好き」 「昭和怪談っぽい」 「ほんとに鬼だったら神回」


 画面の向こうの笑いは軽い。こちらも軽く返す。


「祖母いわく鬼用です」 「夏だけ来るらしいです」 「切らすなって言われてます」


 そういうどうでもいい話が、夜を少しだけ埋めてくれた。


 最初の異変は、七月のある晩に起きた。


 固定カメラをつけたまま、俺は冷蔵庫から麦茶を出し、曇りガラスのコップへ注いだ。氷は入れない。祖母のやり方を、いつの間にか妙にきっちり守るようになっていた。


 玄関へ置いて戻ってくる途中で、コメント欄が急に流れを変えた。


「待って」 「後ろ」 「誰かいる」 「女?」 「足だけ見えた」


 冗談だろうと思いながらアーカイブを見返すと、たしかに映っていた。


 玄関の上がり框の奥、暗がりに、白い足が揃っていた。裸足だった。女の足だった。形が整っていて、肌が不自然なほど白い。なのに足首から上だけが、夜の闇に溶けて見えない。


 その回だけ妙に再生された。


 次の日も、その次の日も、視聴者はその話をした。


「奥さんまた出ないんですか」 「麦茶の人待機」 「もう同居人いるでしょ」


 冗談のはずだった。だが八月に入る頃には、家の中に人の気配が増えていた。


 洗っていないはずの皿が伏せてある。風呂場がまだ少し温かい。麦茶の減り方が、自分の飲む量と合わない。夜中、台所でやかんの蓋が鳴る。誰もいないはずなのに、暮らしだけが一人分ではなくなっていく。


 気味が悪い、より先に来たのは妙な安堵だった。


 もう完全に一人ではないのかもしれない、と。


 八月の半ば、珍しく同接が伸びた夜に、俺は調子に乗った。


「じゃあ今日は、鬼用の麦茶を置くところ近くで見せます」


 スマホを持って立ち上がり、玄関へ向かう。コメントが流れる。


「おお」 「神回」 「来る?」 「本物頼む」


 曇ったコップを三和土に置いた、その瞬間だった。


 背後で女の声がした。


「今日は少し薄い」


 息が止まった。


 コメント欄も一瞬だけ止まり、次の瞬間に爆発した。


「え」 「誰!?」 「うわ」 「鳥肌」 「後ろ見て」


 振り向くと、女が立っていた。


 背の高い女だった。白いものを一枚だけまとい、長い黒髪をゆるく垂らしている。顔立ちは息をのむほど整っているのに、額の左右から小さな角が出ていた。目は暗い赤で、けれど血の色というより、長い夏を見続けてきた者の静けさを宿していた。


 怖い、と思うべきだったのだろう。


 なのに最初に胸へ落ちてきたのは、懐かしさに似た感情だった。子どもの頃から、この家のどこかにいたものを、ようやく正しい形で見た気がした。


 女はスマホを見て眉を寄せた。


「私を見せるな」


「いや、これは……」


「麦茶はよい。私はだめだ」


 そう言ってレンズへ指先を触れると、配信はそこで切れた。


 あとで確認すると、その回は途中から映像が真っ黒になっていた。音だけが残っている。


『次から気をつけろ』 『……はい』 『茶葉は切らすな』 『はい』 『夏は体を冷やしすぎるな。お前は若くない』


 最後の一言で、笑いそうになって、少し泣きそうにもなった。


 それから女は家にいた。


 姿を見せる日もあれば、見せない日もある。だが暮らしの中には確実にいた。冷蔵庫を勝手に開ける。麦茶の濃さに文句を言う。配信で余計なことを言えば後ろから頭を小突く。スーパーの安い総菜だけで済ませようとすると、黙って味噌汁を作る。


 ある夜、食卓の向かいに座った女が言った。


「人の家で、よくそんな適当な飯を食えるな」


「人の家って、俺の家ですよ」


「夏のあいだは、私の家でもある」


 言い方は勝手なのに、その声には妙に体温があった。


 視聴者は勝手に“奥さん”と呼びはじめた。俺は否定も肯定もせず、ただ“同居人”とだけ呼んだ。


 だがそのコメントを読み上げた夜、女はふっと笑った。


「そうだな。夏は妻でいい」


 妻。


 その言葉は、俺の人生から遠いものだった。たぶんもう、この先も縁がないと思っていた。だから冗談めいていても、夏の夜のぬるい風の中でそれを聞くと、妙に沁みた。


 夏のあいだ、女は本当に妻のようだった。


 朝、冷えた麦茶を作る。よれたシャツを無言で畳み直す。熱を出した夜には額に手を置き、冷えすぎないように氷枕を遠ざける。眠れない夜には、廊下の向こうで気配だけ寄せてくる。その距離が絶妙だった。優しいのに踏み込みすぎない。長く一人でいた人間にとって、苦しくない近さだった。


 配信が終わったあと、コメント欄の熱が全部消えた部屋で、女が麦茶を一口飲んで言う。


「今日は疲れているな」


「わかるのか」


「お前は喋りすぎた日ほど、終わったあと静かになる」


 そういうことを言われるのが、たまらなく嬉しかった。


 見てもらえる、でもない。見抜かれる、でもない。ただ、気づかれている。それだけのことが、四十二の男にはひどく染みた。


 だから十月の終わり、女が窓の外を見ながら言った言葉を、聞こえないふりがしたかった。


「もうすぐ冬だ」


「そうだな」


「冬の私は、妻ではない」


 その一言だけで、部屋の空気が急に冷えた気がした。


 女はいつものように麦茶を注ぎながら、何でもないことのように続けた。


「夏だけだ。お前の横に座るのも、飯を食うのも、同じ部屋で眠るのも」


「じゃあ冬は」


 女はすぐには答えなかった。


 コップの表面についた水滴を指先でなぞり、それから玄関のほうへ視線をやった。


「冬は、戸を叩くものになる」


 十一月に入ると、女は見えなくなった。


 あれほど濃かった気配が、すっと引いた。皿は一人分しか汚れず、夜の台所も静かになった。配信の数字も少し落ちた。コメント欄には“奥さん最近いませんね”と流れる。俺は笑ってごまかしたが、配信を切ったあと、その言葉だけが妙に残った。


 いませんね。


 その不在を、画面の向こうの他人に先に言われるのが、腹立たしいほど寂しかった。


 十二月最初の夜、配信中に玄関が鳴った。


 こん、こん。


 少し間を置いて、また。


 こん、こん。


 最後に、こん。


 コメント欄がざわつく。


「来た」 「三回」 「やばい」 「開けて」 「冬のやつ?」


 俺は立ち上がれなかった。


 でも、外から声がした。


「麦茶はないのか」


 夏の夜に聞いていた声と同じなのに、少し低く、少し遠い。戸一枚隔てただけで、こんなにも違うのかと思うほど遠い。


 俺は震える手で台所へ行き、麦茶を注いだ。冬でも切らさないでいたのは、たぶん最初からこうなるのが怖かったからだ。


 玄関に置く。戸は開けない。


 向こうで気配が寄る。


「開けないのか」


「……冬は、妻じゃないって言ったから」


 しばらく沈黙があった。


 それから戸の向こうで、女がふっと笑った。夏に何度か聞いた、あの柔らかい笑い方だった。


「だから何だ」


 言葉が出なかった。


 戸の向こうの気配は一つではなかった。女の背後に、もっと細く、もっと長く、冬の闇そのものみたいな影が立っていた。首がやけに長く、形が人に寄りきらない。見た瞬間、これ以上見てはいけないと本能が告げた。


 コメント欄がぴたりと止まった。


 女の声だけが静かに聞こえた。


「夏は妻」


 そこで一拍、間が空く。


 戸の向こうの冷気が、板一枚越しに滲んでくる。


「冬は――」


 配信はそこで落ちた。


 次の日、アーカイブは残っていなかった。切り抜きもない。ただ、登録者だけが妙に増えていた。冬は何なのか、奥さんはどうなったのか、本物なのか。そういうメッセージが山ほど来たが、俺は何も答えなかった。


 答えられないからだ。


 それでも夏が近づく頃には、また玄関のコップを磨いていた。曇り具合まで気にするようになった自分に苦笑しながら、茶葉を切らさぬよう買い足して、冷蔵庫の麦茶を絶やさなかった。


 来るなら夏だと思っていた。


 あれは夏だけ、妻になるのだから。


 次の夏は、六月の終わりから空気が違った。


 まだ蝉も本気では鳴いていないのに、家の中だけが妙に湿っていた。廊下の板が夜ごと柔らかく鳴り、玄関に置いた麦茶の減りも、七月を待たずに早くなった。


 来る。


 そう思った。


 期待と、怯えと、少しみっともない喜びが、胸の中で静かに混ざっていた。去年の夏が終わってから、俺は一度も玄関の戸を開けていない。冬の三度の音にも、春先の気配にも、ただ麦茶だけを置いてきた。


 それでも、来るなら夏だと思っていた。


 七月最初の夜、戸が鳴った。


 こん、こん。


 間を置かず、もう二つ。


 こん、こん。


 それから一つ、小さく。


 こん。


 夏の音と、冬の音が混ざったような叩き方だった。


 俺は玄関の前でしばらく立ち尽くした。手の中のコップには、いつも通り曇ったガラス越しの麦茶が揺れている。妙に手が震えた。去年までとは違う気がした。戸の向こうの気配が、一つではない。


「……開けるぞ」


 返事はなかった。


 ただ、戸の向こうで、何かが小さく息をした。


 横へ引く。夜気が流れ込み、その向こうに女が立っていた。


 白いものを一枚まとい、長い黒髪を背に落とし、額には小さな角。去年と同じ顔だった。整いすぎた顔立ちも、赤い目も、夏の夜を長く見てきたような静かな目つきも、何一つ変わっていない。


 違っていたのは、その腕の中だった。


 女は赤子を抱いていた。


 白い布にくるまれた、小さな、小さな塊。眠っているのか目は閉じていて、頬だけがほんのり赤い。人間の赤ん坊と変わらない。変わらないのに、額の上の産毛のあたりに、ほんの少しだけ隆起のようなものが見えた。


 俺は何も言えなかった。


 女は去年と同じ顔で、去年よりずっとどうでもよさそうに言った。


「お前の子だ」


 あまりに真っ直ぐで、説明も前置きもない言い方だった。


 頭が一瞬、空になった。


「……待て」


「待たん」


「いや、だから、何でそうなる」


 女はわずかに眉を寄せた。呆れたようですらあった。


「何でとは何だ」


「いや、普通そこはもっとこう、段階があるだろ」


「段階?」


 女は赤子を抱き直し、それから本気で不思議そうに首を傾げた。


「することをしておいて、出来ないわけがなかろう」


 その一言で、喉が詰まった。


 言い返せなかった。


 言い返せる理屈が、まるでなかった。


 去年の夏、同じ家で食卓を囲み、同じ夜気の中で眠り、妻だと口にしたのは向こうでも、拒まなかったのは俺だ。曖昧なまま甘えて、季節だけのものだと都合よく思い込んでいたのも俺だった。


 女は赤い目でまっすぐこちらを見たまま、静かに続けた。


「お前は何だと思っていた」


 責める口調ではなかった。ただ事実を置くだけの声だった。


 そのせいで、余計に逃げ場がなかった。


「……いや」


「夏のあいだ、妻でよいと言った」


「言ったな」


「お前も受け入れた。抱いて、抱かれて、同じ家で朝を迎えて、それで何も残らぬと思う方がおかしい」


 淡々とした口ぶりなのに、そこだけ妙に熱があった。怒っているというより、当然の筋道をいまさら否定されることへの不満に近い熱だった。


 俺はようやく、女の顔をまともに見た。


 去年と同じようでいて、少し違う。目の奥に疲れがあった。強いものが一人で何かを抱えてきた顔だった。腕の中の赤子は小さく身じろぎし、布の隙間からのぞく頬だけがやわらかく赤い。


「……一人で、ここまで来たのか」


「春まではな」


「春まで?」


「冬の私は、妻ではない」


 その一言で背中が冷えた。


 去年の冬、戸の向こうにいた“何か”が頭をよぎる。首の長い影。板一枚越しの冷気。開けなかった戸。その向こうで、この女は赤子を抱いていたのかもしれない。


 そう思った瞬間、たまらなく嫌な気分になった。自分が開けなかった戸の重さが、今さら手のひらに戻ってくる。


「……それ、早く言えよ」


「お前は開けなかった」


 責める声音ではなかった。ただ事実を置く声だった。


 それが余計につらかった。


 女は赤子の頬を指でそっと撫でた。すると、閉じていたまぶたが薄く開き、暗い部屋の中で、小さな目がこちらを見た。


 赤かった。


 女と同じ、深い赤。


 けれど、泣きそうなくらい弱い色でもあった。


 その目で見られたとき、何かが決まってしまった気がした。


 怖いとか、不条理だとか、理屈に合わないとか、そんなものは少し遠くへ行った。目の前にいるのは、赤子だった。自分に似ているかなんて正直わからない。ただ、家の中へ入ってきてしまった、小さな命だった。


「……名前は」


「まだない」


「なんで」


「お前がつけるものだろう」


 女は当然のように言った。


 俺は笑いそうになって、でも笑えなかった。


 本当に何もかも勝手だ。この鬼は、毎回いちばん重たいところだけを、当たり前みたいな顔でこちらへ置いていく。


 けれど去年の夏もそうだった。麦茶の濃さ、夕飯のこと、配信のこと、体調のこと。俺が曖昧にしていた暮らしを、勝手に整えていった。


 今年は、その延長に赤子がいるだけだ。


 それだけのはずなのに、人生がまるごと形を変えられたみたいだった。


 女がこちらを見る。


「嫌なら、夏が終わるまで置いていく」


「物みたいに言うな」


「では、お前が抱くか」


 そう言って、女は赤子を差し出した。


 反射で手を伸ばす。怖いくらい軽かった。壊れそうで、熱かった。腕の中へ収まった途端、赤子が小さく身じろぎして、俺のシャツを指で掴んだ。


 その力の弱さが、胸に刺さった。


 ああ、と思った。


 もう駄目だ。


 この時点で、駄目だった。


 夏だけの妻だとか、冬の戸だとか、鬼だとか人じゃないとか、そういう線引きをしていられる場所を、もう越えている。


 女が静かに息を吐く。


「そうか」


「何が」


「ちゃんと抱くのだな」


 その言い方が少しだけ安堵していて、胸の奥が鈍く痛んだ。


 去年の夏、妻の顔をしていた女が、今年は母の顔をしていた。けれど今、その奥にほんの少しだけ、去年と同じ女の顔が戻っていた。自分だけでは抱えきれなかったものを、ようやく半分渡せた者の顔だった。


 台所の方から、ぬるい夜風が吹いた。


 麦茶の匂いがする。去年と同じ匂いだ。


 違うのは、その匂いの先に、もう一つ小さな体温があることだった。


「今年も、夏は妻か」


 何となくそう聞くと、女は少し黙った。


 それから、赤い目を細める。


「妻だ」


 短く言って、俺の腕の中の赤子を見た。


「だが今年は、それだけではない」


 赤子が、小さくあくびをした。


 その口の端に、ほんのわずか、尖ったものが見えた気がした。


 外ではまだ、蝉が鳴ききれないでいる。夜は長い。夏は始まったばかりだ。


 俺は赤子を抱いたまま、玄関に置きっぱなしだった麦茶を思い出した。


「……とりあえず、麦茶取ってくる」


「ぬるくするな」


「わかってる」


「あと、今年は冷房を弱くしろ。赤子がいる」


「命令多いな」


「妻だからな」


 その言い方が去年より少しだけ柔らかくて、俺はようやく笑った。


 笑ってしまってから、自分がたぶん嬉しいのだと気づいた。


 おかしいだろ、と思う。


 角のある女が、ある日突然、赤子を連れてきて、お前の子だと言う。怖い話のはずだ。筋も理屈もおかしい。不条理で、まともではない。


 なのに、腕の中の熱だけが、どうしようもなく本物だった。


 夏の妻が戻ってきた。


 今度は、俺たちの子を連れて。


 その年の配信は、いつも以上に妙なことになった。


 夏の夜、マイクに赤子の声が入る。コメント欄は“奥さん”より先に“子ども?”で埋まった。慌ててミュートを入れても、向こうは勝手に盛り上がる。


「今の何」 「猫じゃないだろ」 「赤ちゃんいる?」 「急に情報量多い」 「奥さんどころじゃない」


 俺は顔出しをしない。家族も映さない。鬼も、子も、戸の向こうのことも見せる気はなかった。だが暮らしというものは、隠そうとしても端々から漏れる。配信の向こうで女が「それでは足りん」と言えば、コメントがざわつく。赤子がぐずれば、慌てる俺の声で視聴者が笑う。麦茶の話をしていたはずの配信が、いつの間にか夏の生活音を聞きに来る場所になっていた。


 女はそれを嫌がるふうでいて、完全には止めなかった。


「見せるなとは言った」


「見せてない」


「ならよい」


 そう言いながら、赤子の背をゆっくり叩く。泣き止んだあと、そのまま片手で麦茶を飲む姿が妙に板についていて、可笑しいやら愛しいやらで、たまに言葉に詰まった。


 子は夏の湿気の中ですくすく育った。人間の赤ん坊と変わらないようでいて、泣き声が少しだけ夜に響きすぎる日があった。笑うとき、まだ生えてもいない歯茎の奥に尖りの気配があった。熱を出すことはなく、代わりに雷の夜だけ機嫌がよかった。


 女は母として自然だった。俺は父として不自然なほど下手だったが、それでも抱けば泣き止む夜が何度かあった。そのたびに女が、ほんの少しだけ誇らしそうな顔をするのが悔しかった。


「当然だ」


「何が」


「お前の子だからな」


 そう言われると、何も返せなくなる。


 八月の終わりが近づくと、女は少しずつ言葉を減らした。去年と同じだった。麦茶の減り方が静かになり、夜の廊下を渡る気配が薄くなる。違うのは、その腕の中にもう一つ、連れていかれる熱があることだった。


 怖かった。


 去年よりずっとはっきり怖かった。


 妻でなくなることより、子ごと冬へ戻ることが怖かった。戸の向こうの冷気の中へ、あの小さな手が行くのかと思うと、理屈もなく喉が詰まった。


 八月最後の夜、女は赤子を抱いたまま玄関に立った。


 まだいなくなるとは言っていない。ただ、空気がそうだった。


 俺は曇ったコップに麦茶を注ぎ、三和土に置いた。去年と同じ動作なのに、今年はそれが別れの支度みたいで、腹の底が冷えた。


「冬も、こいつは向こうなのか」


 女はしばらく答えなかった。


 赤子の額を指で撫で、それから静かに言う。


「冬の私は、夏の私ではない」


「そんなのは知ってる」


「知っていて、なお聞くのか」


「聞くよ」


 声が少し荒くなった。情けないと思ったが、抑えられなかった。


「向こうに連れていくしかないのか」


 女は俺を見た。


 赤い目はいつも通り静かだったが、その奥に、去年より少しだけ人間に近い迷いが見えた。


「春までは」


 それだけ言った。


 春までは。


 短いのに、重い言葉だった。冬を一つの塊として差し出される。そこに俺の知らないものがいて、俺の妻ではない女がいて、その傍らに、俺の子がいる。


 嫌だった。


 けれど、どうしようもないのもわかった。


 去年、俺は開けなかった。開けないことで守られていたものがあった。あの戸は、ただの戸ではないのだろう。だからその夜も、俺は引き止める言葉を最後まで飲み込んだ。


 代わりに、女の抱く子の頬へそっと触れた。


 小さな手が、指を握る。


 それだけで、胸の奥がぐしゃぐしゃになった。


「名前、決めた」


 ぽつりと言うと、女の目が少しだけ細くなった。


「遅い」


「うるさい」


「何だ」


 俺は子の顔を見た。夏の湿気の中で眠るその顔は、女にも俺にも似ている気がして、でもやはりどちらとも言い切れなかった。


「麦。麦茶の麦」


 女は一瞬、何を言われたかわからない顔をしたあと、ほんのわずかに口元を緩めた。


「安直だな」


「お前が文句言うか」


「……悪くはない」


 そう言って、子の額に口づけた。


 その仕草が妙に優しくて、見てはいけないものを見たような気持ちになった。


 結局その夜、女は消えなかった。ただ夜明け前になると気配を薄くして、赤子ごと部屋の奥へ溶けた。朝にはいなかった。三和土のコップだけが空になっていて、赤子用に畳んでおいた小さなタオルが、一枚だけきちんと重ね直されていた。


 そして冬が来た。


 戸は三度鳴る。


 こん、こん。


 こん、こん。


 こん。


 昔はそれがただ怖かった。今も怖くないわけではない。けれど、その向こうに女がいて、女ではないものもいて、それでも季節が巡ればまた帰ってくると知ってから、恐ろしさは少し形を変えた。


 会えない季節を越えるための音になった。


 麦茶は切らさなかった。冬でも、春でも。玄関に一杯、曇ったコップで置く。朝には半分だけ減っている日がある。減っていない日もある。けれど二月の終わり、コップの底に小さな指の跡みたいな曇りがついていた日、俺はしばらく玄関にしゃがみこんで動けなかった。


 春が過ぎ、梅雨が来て、家の中だけ先に夏の匂いがする日がある。


 そのたびに思う。


 ああ、今年も来るのだと。


 妻として来て、母として座って、俺たちの子を連れて、勝手に冷房の温度を変えて、麦茶の薄さに文句を言って、この家の夏をまた夏にしていくのだと。


 夏は、毎年きちんと終わる。


 八月の終わりが近づくと、あいつは少しずつ言葉を減らす。子は年ごとに少しずつ大きくなる。最初の年は抱かれているだけだったのが、次の年には俺の指を掴み、さらにその次には玄関のコップを覗き込み、またその次には自分で麦茶を飲みたがるようになるのだろう。


 けれど、夏の終わりにすることは、毎年あまり変わらない。


 曇ったコップを洗う。麦茶を切らさぬように作る。夜の湿った風を家に通し、戸の向こうへ行く気配と、戸の内側に残る熱を、ただ黙って受け入れる。


 妻だと言った女は、夏のあいだだけ確かに妻でいる。母にもなる。怒るし、笑うし、勝手に台所へ立つ。俺の暮らしを少しずつ整え、子を抱かせ、来た時と同じように、季節が変わる手前でふっと薄くなる。


 引き止められないのは、もう分かっている。


 冬のあいつは、夏のあいつではない。


 だから俺は、行くなとは言わない。


 ただ、いなくなったあとも麦茶だけは切らさない。


 そうして、また冬が来る。


 戸は三度鳴る。


 こん、こん。


 こん、こん。


 こん。


 その音を聞くたび、俺は玄関のほうを見る。会いたいと思う。会ってはいけないとも思う。夏のあいだ、たしかにあれは妻だったのだ。名前も戸籍もない、角のある女。それでも、あれほどちゃんと俺の生活に座っていた。麦茶の濃さを気にして、夕飯を気にして、夜更かしを叱って、黙って隣にいてくれた。


 四十すぎにもなって、そんなものに縋るのはみっともないのかもしれない。


 けれど、人は、たとえ一季節だけでも、誰かに待たれると駄目になる。


 春が過ぎ、空気が重くなり、家の中だけ先に湿る日が来ると、俺は黙って新しい茶葉を開ける。


 夏は妻だ。


 冬はまだ、俺も名前を知らない。


 それでも、季節が巡るたび、あいつはちゃんと帰ってくる。子を連れて、あるいは子に手を引かれて、今年の夏もまた当たり前の顔で戸をくぐるのだろう。


 だから俺は、今年も麦茶を切らさない。玄関に曇ったコップを置き、静かになった家の中で、次の夏を待つ。


 待っているあいだだけは、一人でも、まるきり独りじゃないと思えるのだ。

今回の話は、ヒカキンさんプロデュースの「ONICHA」を飲んでいたら、なんとなく頭の中に鬼が居座って、そのまま形になりました。


麦茶、鬼、夏、動画配信。

並べるとだいぶ変なのですが、書いているうちに「これはもう、怖い話というより季節の話だな」と思いながら進めていました。

不条理なのに、妙に生活に馴染んでしまうもの。

怖いのに、いなくなると寂しいもの。

そういう夏の気配を書けていたら嬉しいです。


最初はもっと単純に「麦茶を供えると鬼が来る」くらいの話だったのですが、気づけば妻になり、冬があり、子まで来ました。

いつものことですが、書いている途中で勝手に広がっていくタイプの話でした。

でも個人的には、ただ怖いだけではなく、ちゃんと体温のある不条理になった気がしています。


読んでくださってありがとうございました。

夏の飲み物は色々ありますが、しばらく麦茶を見るたびに、玄関に一杯置いたほうがいいんじゃないかと思ってもらえたら成功です。

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