第10話 越えさせないための距離
翌朝。
目が覚めた瞬間から、分かっていた。
――今日は、来る。
理由はない。
ただの確信。
昨日のやり取りで、十分だった。
「……面倒だな」
小さく呟いて、ベッドから起き上がる。
制服に着替え、部屋を出る。
廊下は静かだった。
けど、その静けさが逆に落ち着かない。
階段を降りると、キッチンから音がする。
陽菜だ。
「おはよ、お兄ちゃん」
振り向いて笑う。
いつも通りの声。
いつも通りの距離――
じゃない。
昨日より、ほんの少しだけ遠い。
意図的に。
分かる。
これは、試している。
「……おはよう」
短く返す。
テーブルにつく。
その向かいに、陽菜が座る。
視線が合う。
逸らさない。
けど、近づかない。
「……ちゃんとやってるね」
小さく言う。
「何がだ」
「線」
あっさりと答える。
その言い方に、少しだけ苛立つ。
「……見てるだけか」
「うん」
即答だった。
「今はね」
その“今は”が、重い。
いつでも崩せる、という意味だ。
「……沙夜姉は?」
「もう出てる」
朝は早い。
いつも通りだ。
つまり。
今この時間は。
――二人きり。
空気が、わずかに変わる。
「ねえ」
陽菜が、ゆっくりと身を乗り出す。
距離は、まだ保たれている。
けど。
その意識が、近い。
「もしさ」
静かな声。
「線、越えちゃったらどうするの?」
直球だった。
答えを試している。
「止める」
迷わず言う。
「自分で?」
「そうだ」
それ以外に方法はない。
「……そっか」
陽菜は小さく笑った。
どこか楽しそうに。
「じゃあ」
一瞬だけ、間を置く。
「止めてみてよ」
その言葉と同時に。
陽菜の手が、伸びた。
――来る。
分かっていた。
分かっていたのに。
速い。
距離が、一瞬で詰まる。
頬に触れる寸前。
手首を掴む。
「……そこまでだ」
止める。
しっかりと。
視線を逸らさない。
「……ふーん」
陽菜は抵抗しない。
ただ、そのままこちらを見る。
「ちゃんと止めるんだ」
「言っただろ」
「うん」
小さく頷く。
そして。
「でもさ」
もう一方の手が、動いた。
――二手目。
予想外だった。
頬ではなく。
首元へ。
触れられる。
その瞬間。
空気が、歪む。
強い。
昨日よりも、明らかに。
「……っ」
思考が鈍る。
判断が遅れる。
――まずい。
手を離すな。
距離を保て。
頭では分かっているのに。
体が、遅れる。
「ほら」
陽菜が、小さく囁く。
「ここ、弱いでしょ」
完全に、理解している。
どこを触ればどうなるか。
――学習してる。
「……やめろ」
声が、少しだけ掠れる。
けど。
手を離さない。
そのまま、強く引き離す。
距離を取る。
息が荒い。
頭が重い。
でも。
「……線、越えてない」
絞り出すように言う。
陽菜は、じっとこちらを見ていた。
数秒。
やがて。
「……合格かな」
小さく笑う。
昨日と同じ言葉。
けど。
意味は違う。
「ちゃんと止めたね」
そのまま、手を引く。
空気が戻る。
思考も戻る。
「……試してたのか」
「うん」
あっさりと答える。
「どこまでいけるか」
その言い方が、軽い。
軽いのに。
内容は重い。
「……やめろ」
「やだ」
即答。
「だって、面白いし」
笑う。
無邪気に。
でも、その目は。
昨日よりも深い。
「お兄ちゃんが、ちゃんと止められるかどうか」
試している。
ずっと。
「……壊れるぞ」
「まだ大丈夫」
同じ言葉。
同じ段階。
でも。
確実に進んでいる。
「そのうちね」
ぽつりと呟く。
「越えるよ」
その一言で。
未来が見えた気がした。
――止まらない。
いずれ。
必ず。
「……行くぞ」
立ち上がる。
これ以上は危険だ。
「うん」
陽菜も立つ。
距離は、保ったまま。
でも。
その意識は、完全にこちらに向いている。
――
玄関を出る。
外の空気が、少しだけ軽い。
それでも。
完全には抜けない。
家の中の感覚が、残っている。
「……」
歩き出す。
学校までの道。
いつも通りのはずなのに。
今日は違う。
確信がある。
――来る。
その予感は。
教室に入った瞬間、現実になった。
「おはよう、朝比奈」
一ノ瀬凛が、そこにいた。
席に座ったまま。
こちらを見ている。
昨日と同じ距離。
でも。
目が違う。
完全に、決めている。
「……おはよう」
短く返す。
席に向かう。
途中で、止まる。
――距離。
線を引く。
ここから先は、入れない。
そう決める。
そのまま、自分の席に座る。
凛は、動かない。
ただ、見ている。
「ねえ」
小さく呼ばれる。
反応しない。
無視する。
線を守る。
「朝比奈」
もう一度。
それでも、動かない。
数秒の沈黙。
そして。
「そっか」
凛が、小さく呟く。
「そうやるんだ」
理解した声。
そのまま、ゆっくりと立ち上がる。
そして。
距離を詰めてくる。
――来る。
でも。
動かない。
線を守る。
そのまま。
凛が、手を伸ばす。
触れる寸前。
「……そこまでだ」
はっきりと言う。
昨日と同じ言葉。
同じ距離。
同じ線。
凛の手が、止まる。
数センチ手前で。
「……」
しばらく、そのまま。
やがて。
ふっと笑う。
「ほんとにやるんだ」
楽しそうに。
そのまま、手を下ろす。
「いいね、それ」
小さく頷く。
「じゃあ」
少しだけ顔を近づける。
触れてはいない。
でも。
近い。
「どこまで持つか、見てる」
その言葉に。
背筋が冷える。
――同じだ。
陽菜と。
全く同じ。
ただ。
方向が違うだけで。
「……」
何も言わない。
言っても無駄だ。
これはもう。
止める段階じゃない。
――耐える段階だ。
線を。
守り続ける。
それだけが。
今できる、唯一の対処だった。




