第1話 家に残された三人
両親が家を出ていったのは、昼過ぎのことだった。
「じゃあ、しばらく頼んだぞ」
父はそれだけ言って、迷いなく車に乗り込む。
義母も穏やかに微笑み、軽く手を振った。
あっさりとした別れだった。
単身赴任。
それ自体は、珍しい話じゃない。
ただ――
問題は、その後に残るものだった。
エンジン音が遠ざかり、完全に聞こえなくなる。
その瞬間。
家の中の空気が、わずかに変わった気がした。
静かすぎる。
いや――違う。
妙に、濃い。
「……行っちゃったね」
すぐ後ろから、声がした。
振り向く前に分かる。
距離が、近い。
近すぎる。
「陽菜、近い」
「えー?」
間延びした声。
振り向けば、体を預けるように密着してくる陽菜がいる。
昔からだ。
こいつは距離感がおかしい。
……それだけのはずなのに。
「ずっと一緒にいられるね、お兄ちゃん」
にこり、と笑う。
その言葉が、なぜか引っかかった。
「……学校あるだろ」
「あるよ? でも帰ってきたら、でしょ?」
当たり前みたいに言う。
普通の会話のはずなのに、どこかズレている。
そう感じた瞬間。
袖を掴まれた。
「ねえ、なんで離れるの?」
「……なんでって」
言葉に詰まる。
理由はある。
けど、説明できるほど明確じゃない。
ただ――
近すぎると、少しだけ思考が鈍る。
「陽菜」
低く、静かな声が差し込んだ。
その一言で、空気が変わる。
陽菜の手が止まる。
「離れなさい」
廊下の奥に、沙夜が立っていた。
いつも通りの、感情の見えない顔。
「えー、ちょっとくらいいいじゃん」
「よくないわ」
即答だった。
迷いがない。
「……湊が困っているでしょう?」
言われて、初めて気づく。
自分が、ほんのわずかに息を詰めていたことに。
陽菜は不満そうにしながらも、ゆっくり手を離した。
その瞬間。
頭の奥が、すっと軽くなる。
――やっぱり、近すぎたのか。
「ありがとう、沙夜姉」
自然に口から出た。
沙夜は一瞬だけ、わずかに目を細める。
「別に」
短い返事。
けれど。
その視線が、ほんの一瞬だけ俺の唇をなぞった気がした。
――気のせいか?
「……何?」
「いいえ」
すぐに逸らされる。
いつも通りの沙夜に戻る。
……いや。
今のは、少しだけ違った。
「とにかく」
小さく息をついて、沙夜は言う。
「この家での生活、ルールを決めるわ」
「ルール?」
「ええ」
視線が、俺と陽菜を順に捉える。
「無駄に近づかないこと。部屋に勝手に入らないこと。接触は最小限」
淡々とした声。
まるで――
何かを知っているみたいに。
「は? なんでそんなの」
「必要だからよ」
陽菜の言葉を、途中で切る。
「……湊」
名前を呼ばれる。
自然と顔を向ける。
「あなたも、守りなさい」
「……ああ」
頷きながらも、引っかかる。
どうしてそこまで――
そう思った瞬間。
沙夜が、一歩だけ近づいた。
ほんのわずかな距離。
陽菜ほど近くはない。
それなのに。
さっきとは違う、息苦しさを感じる。
「……沙夜姉?」
呼ぶと、彼女は静かに目を細めた。
そして。
「安心していいわ、湊」
落ち着いた声で言う。
「私はもう、とっくに壊れてるから」
意味が分からない。
分からないのに。
その言葉だけが、やけに深く残った。




