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31話:亀裂と糸

一瞬の沈黙の後__


 白き神が動いた。


 音がなかった。あれだけの存在が動いているのに、足音も衣擦れも何もない。ただ気づいたら距離が縮まっていた。


 サノは刀を構えたまま、後退しなかった。


「欠落品が刃を向けるか」


 白き神の声は静かだった。怒っていない。呆れてもいない。ただ事実を述べるような声。それがかえって腹立たしかった。


「欠落品で悪かったな」


 喉が乾いていた。それでも声は、思ったより平らに出た。


「感情の一部がないなら、怖くもないだろう」


「違う」


 サノは一歩踏み出した。


「怖いよ。めちゃくちゃ怖い」


 白き神が、わずかに目を細めた。


「なら」


「怖くても前に出るのが、私のど根性ってもんだ」


 斬り込んだ。


 当たらなかった。当たるとも思っていなかった。白き神は避けもしなかった。ただそこにいたのに、刃はすり抜けた。まるで霧を斬ったみたいに、手応えがなかった。


 次の瞬間、見えない何かに弾かれた。背中から地面に叩きつけられて、肺から空気が抜ける。


「サノさん!」


「来るな!」


 立ち上がろうとして、足がもつれた。それでも起き上がった。膝をついたまま刀を構える。


 また来る。白い腕が伸びてくる。横に転がって避けた。避けきれなかった。肩をかすめて、着物が裂ける。皮膚が焼けるように痛んだ。


 痛みで視界が揺れる。でも、見えた。白き神の重心が、一瞬だけ前に傾いている。


 今だ。


 サノは痛みを無視して踏み込んだ。渾身の力で刃を振るう。


 その瞬間、頭の中で何かが弾けた。


 知らない景色だった。


 森の中。夕暮れ。誰かが倒れている。


 自分が走っていた。自分のはずなのに、自分じゃない。でも確かに自分だと分かる。違和感と確信が同時にある。


 倒れた誰かに手を伸ばす。その顔を見た瞬間——


 強烈な怒りが来た。


 サノ自身の怒りじゃない。でも、確かに自分の魂の奥から湧いてくる。誰かが怒っている。ずっと前から、ずっと長い間、怒り続けている誰かが。


 刃が、届いた。


 白き神の腕をかすめた感触が手に残った。


 白き神が、初めて動揺した顔をした。


「……なぜ」


 その声は低かった。計算が狂った時の、冷たい驚き。


「なぜお前がその記憶を持っている」


 サノは答えられなかった。


 知らない。でも確かに見えた。あの景色を。あの人の顔を。そして、あの怒りを。


 胸の中に、穴が空いていた。


 痛みではない。ずっとそこにあったはずなのに今まで見えていなかった穴が、急に輪郭を持った。喪失感、という言葉が浮かんだ。失ったものがある。自分だけじゃない。もっと大切なものを、どこかで失っていた。


 白き神の目が細くなった。怒りではない。もっと深いところにある何かが、表面に滲み出てくる。


「面白くない」


 次の瞬間、気配が薄くなった。引いていく。


「待て」


「引くだけだ。計算が狂った時に無理はしない」


「それを逃げと言う」


「……何度消しても、お前の魂は戻ってくる」


 白き神の声が、初めて疲れたように聞こえた。神が疲れるとは思っていなかった。でも確かに、その声には長い時間の重さがあった。


「次こそ、消える」


 白い影が、薄れていく。


 サノは刀を下ろした。膝が笑っている。肩が熱い。


 胸の穴は、さっきより少しだけ形がはっきりしていた。


 あの記憶の中の怒りが、まだ魂の奥に残っている気がした。自分のものではない怒りが。でも、確かに自分のものでもある怒りが。


「サノさん」


 赤朔の声がした。


 サノは答えなかった。


 ただ、白き神が消えた方を見ていた。



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