第82話 漂着
「海はいいな。」
喜平二が言った。
「兄上がこんなにお喜びなのは初めてだ。」
太陽が眩しい。
頭上からじりじり照りつける。
二人で浜辺に座っている。
「そなたのお陰だ、紅。」
「そんな。」
頬を赤らめた。
彼に感謝されて嬉しい。
「勿体無うございます。」
彼は彼女の手を取った。
「俺はそなたと夫婦になって本当に良かった。」
結婚、してたっけ?
「あたしも」
彼があたしを見つめている。
「喜平二さまが好きです。」
「俺は与六を手伝ってやらなきゃならない。」
彼が立ち上がった。
「魚をもっと獲るんだ。」
走り始めた。
「待って、あたしも」
後を追おうとした。
砂が足に纏わりついて、上手く走れない。
「喜平二さま、お待ちください、待って。」
追いつけない。
彼はどんどん行ってしまう。
「喜平二さま!」
自分の声に驚いて、目を開けた。
太陽の光が矢のように、かっと目に射し込む。
眩しくて、目を閉じた。
顔を背けて、又、そろそろと目を開けた。
ヤドカリが目の前をゆっくりと這っていった。
真っ白な砂が何処までも続く。
海の夢を見ていたのも道理だった。
独り、波打ち際に倒れていた。
周りには船の残骸らしい木の破片が散らばっている。
(越後、じゃない)
府内の海岸だとばかり思っていたのに。
(ここ、何処?)
堺、でも無かった。
突然、頭に、今までのことが一遍に蘇った。
飛び起きよう、として、悲鳴を上げた。
身体中に電光が走った。
ありえない角度に手足を捻じ曲げて倒れていたから。
(ああ、折れてる、きっと折れてる!)
どうしよう。
泣きそうになった。
ゆっくりと一本ずつ、手足を楽な角度に持っていく。
そっと動かしてみる。
(良かった、折れてない)
折れたと思ったのは、波に揉まれ、あちこちぶつけて、打ち身がひどかったせいらしい。
(暑い)
太陽に焼かれていると、益々弱っていってしまう。
海岸まで木々が迫っているのが見えたので、這いずりながら木陰に入り、暫く休んだ。
生えている木を眺めた。
(日本の木じゃない)
蘇鉄、に似ている。
(ここは琉球だろうか)
皆、無事だろうか。
(それとも、助かったのはあたしだけ、なんだろうか)
そろそろと起き上がった。
皆の名を呼んでみた。
誰も応えない。
終いには秀吉の家来たちの名まで呼んでみた。
何の返答も無かった。
段々、日が傾いてきた。
日差しが柔らかくなるのは大歓迎だったが、日が暮れると、何が木々の間から出てくるかわからなかった。
猛烈に喉が渇いていることに気づいた。
痛む身体を騙し騙し、立ち上がった。
その辺に落ちていた棒を杖代わりに、よろめきながら、海岸に沿って歩き始めた。
(み・ず……)
水が無くては死んでしまう。
(お願い……)
春日山に鎮座する毘沙門天に祈った。
(喜平二さま……)
夢で会ってしまって、張り詰めていた気持ちが崩れてしまった。
(あたしは死ぬ)
死ぬ前に、一度でいいからお会いしたい。
(夢じゃなく、ほんとに)
涙で霞む目に、探していた物が映った。
小さな川が、海に向かっている。
透明な水が澱みなく流れていて、白い砂が敷き詰められた底まで、はっきり見える。
目を皿のようにして調べた。
小指の先ほどの小さな魚の群れが、紅の影に驚いて散るのが見えた。
きれいな水だ、少なくとも見た目では。
手を恐る恐る漬けてみる。
水をすくってよく見て、舌を出して味見した。
暫く待って何ともなかったので、一口含んだ。
真水だ。
後はもう止まらなかった。
がぶがぶ飲んで、顔を突っ込み、頭から浴びて、身体を浸した。塩水を吸ってばりばりになった着物を、洗って干した。乾くのを待つ間、髪や身体を洗ってさっぱりした。水の恵みを思いっきり堪能した。
その夜は、川から少し離れた木の陰で休んだ。
昼間は暑かったのに、夜になると冷え込んだ。出来るだけ身を縮めて、寒さをやり過ごした。
木々の奥から、夜通し何かが悲鳴を上げているのが聞こえて、眠れなかった。