第80話 浮気者
翌朝、風に当たろうと上がった合羽で、紅は、灰色の顔をして海の向こうを見つめている秀吉に出会った。
「いやはや、大陸に出兵するのは大変なものじゃな。敵と戦う前に、まず海と戦わねばならぬ。」
「そのお話は伺っております。」
信長の心に大陸への憧憬があることは、話の端々に出てくるから、紅も知っている。
その先に、中国までをも最終的には我が物にしたいという大望があることも。
「本気でお考えなんでしょうか。」
「あの方が望んでおられるなら、わしらはその為に働くしか無かろう。」
港を探しているかのように、灰色の雲の垂れ込める水平線の向こうを眺めた。
「それにしても、いつ着くんじゃ。」
「堺から遠ざかるばかりで、本当に半年、帰れないかもしれませんよ。宜しいのですか。」
「そりゃ、宜しくないに決まっとる。」
秀吉は、船酔いで吐き過ぎて、枯れてしまった声で言った。
「自由の身で船に乗っていてさえ、こんなにつらいのじゃ。囚われの身で、船倉に閉じ込められて海を渡るなぞ、地獄じゃろう。早う救出してやりたいものじゃ。」
ふうっと息をついた。
「寧々には恩があるでな。」
「お優しいんですね。」
「でもないわ。随分泣かしておる。」
「はあ。」
紅の顔をまじまじ見て言った。
「何故だか知っとるの。」
「……ような気がします。」
実は、開けっぴろげな寧々から、話には聞いている。
「わしがそちを口説かないのも、そのせいよ。」
「……。」
「そちは度々、殿の元に侍っておるから、ずっと前から知っておった。普通ならそち程の美人、声くらいかけるのじゃが、何しろそち、わしより先に寧々と知り合うたじゃろ。わしの浮気が過ぎるでな、我が家の取り決めで、寧々が先に知り合うた女子には、手を出してはならぬことになっとるんじゃ。」
秀吉は世にも情けない顔になった。
「無念じゃ。」
紅は噴出した。
この男には、えもいわれぬ愛嬌がある。
無垢な物が好きな信長の、心の琴線を捕らえたのも、そういうところだろう。
でも同時に、情に流されない主人であるから、その眼鏡に敵うだけの器量の持ち主でもあろう。
(計算も得意と聞く)
何でも薪奉行を命じられた際には、一ヶ月の使用量を自ら実験して割り出し、そこから年間使用量を弾き出して、経費を今までの三分の一に抑えたという。
「あれとは野合での。つまり、仲人を立てずに夫婦になった。わしとは随分年が離れておるし、身分もあれのほうが上じゃったから、あれの実家が大反対しての。それでも家を捨てて、わしの元に来てくれた。それなのにわしは、あれが流産して子供を産めない身体になったのを知って、随分つらく当たったのじゃ。でもあれは我慢して、わしのために尽くしてくれた。わしの今あるのは、あれのお陰よ。」
自分の非を認め、他人の才を認める。
簡単なことに見えて。
(案外、難しい)
信長に会うということは、同時にその回りの人々にも会う、ということになる。
紅は、彼の近習たちにも評判がいい。
だって彼らの個人的なことを覚えていて、何かと便宜を図ってあげたり、その人の好みに合った物をさりげなく付け届けなどして、気を遣っているから。
これも武衛陣でお茶出しなんかしていたお蔭。
権力者の側近たちが控えの間で何、悪口言っているかわかるようになった。
彼らの機嫌を損ねて、主の機嫌まで損ねてしまった者だっているのだから。
秀吉は、近習たちの噂話によくのぼる。
話している人は皆、好意的である。
(側近の力をちゃんと知っているのは)
彼も、主の身近から奉公を始めた者だからだ。
出自が違うから。
紅の属している侍階級の人々は、先祖代々、戦闘に特化された暮らしを送ってきたから、体つきからして百姓町人とは違う。
そのなかに混じって、一介の百姓から成り上がり、
(この貧弱な身体で)
彼らに一目置かせている、この男は。
(奥方も面白いけど)
亭主も面白い。
「きっと追いつきます。」
紅は秀吉を慰めた。
関係が上手くいっているとは言えない菜屋の主だけど。
今は、彼の腕を信じたい。